第六十四話 託す
検問所を出たこの日は、朝から雨だった。
嵐が過ぎてしばらく晴れが続いていたが、それも長くはもたなかった。
しとしとと降っていた雨は、昼を過ぎる頃には雷がゴロゴロと厚い灰色の雲の中で不穏に響き、時折稲光が地面を白く裂く。
特使の一行は外套を目深くかぶり雨をしのぐが、濡れた衣服が張り付き肌寒い。
それでも足を止めることなく、帰路の山道を進んでゆく。
グローテハーフェンとエルデンシュトラ間の検問所を超えたこの場所は、もう既にエルデンシュトラの区域で、南の地区へはもうすぐに着くだろう。
先頭集団の真ん中を、騎乗で進行しているジークフリートとオスカー上級曹長は、今後のことを話すためいったん幌馬車へと移った。
それまで幌馬車で待機していたノエルともう一人の従兵は、交代で外へ出ると、馬の手綱を預かり徒歩となる。
ジークフリートの隣にはアンネリーゼ、正面にはオスカー上級曹長、そして右斜め前にはリオラ曹長がいる。
足元には荷箱がいくつも積まれ、座席同士の間隔は狭い。馬車が大きく揺れるたび、隣り合う肩がかすかにぶつかる。
一方で、正面とは荷箱を挟んで向かい合う形になっており、少し距離がある。
馬車の前方に陣取ったジークフリートは資料を眺め、オスカー上級曹長と会話をするため少し上半身を前かがみにして会話をしていた。
アンネリーゼは外の景色を眺めながら、バチバチと馬車の幌を叩く雨音と、二人の会話を同時に聞いていた。
ピカッと光る稲光の後、数秒もしないうちに、ズンっと身体にも響く音が届く。
その度にアンネリーゼの肩は跳ね、ビクっと身体を震わせる。
(近い……怖いな……)
その様子を、ジークフリートは横目でちらりととらえた。
アンネリーゼの怯えを隠そうとしている顔を一瞬だけ確認すると、何も声はかけず、口元だけわずかに緩める。
そのまま何事もなかったように、視線を資料へ戻し、オスカーとの会話を続けた。
アンネリーゼは雷に怯えていたが、すぐそばに人の気配があることで、不安ばかりを抱かずに済んでいるかもしれない。
そう感じた次の瞬間。
耳をつんざく轟音がドッドドンと数回連続で音を立てたと同時に、ゴゴゴゴ……と地響きが空気を震わせる。
(なに?な──)
思考する間もなくジークフリートの焦る声が届く。
「伏せろ──!」
アンネリーゼはそれと同時に、左腕が強い力で引っ張られた。
硬い胸板と、その腕のあいだに顔を押しつけられた一瞬の後──
崖上でおこった衝撃が一塊となって迫り、空気の圧が変わる。
何が起きたのか見えないまま、土砂が押し寄せるような轟音と、巨岩が転がり落ちてくる地鳴りが、馬車ごと地面を揺さぶった。
思わず目をつぶった後は、馬車が軋み木の裂ける音がした。
さっきまであった場所が壊れ、天地が分からなくなる。
そのまま身体が弾き飛ばされる衝撃を感じたと同時に、背中を強く打ち、呼吸は止まりカハッと声が漏れた。その後は必死に息を吸ったが、吐けない。
胸の中に空気が詰まったようで、頭が真っ白になった。次第に呼吸が戻り、目を開けた。
無音──その後、うめき声があちこちから聞こえだし、意識をしっかりさせようと頭を働かせる。
後頭部を支えられていた力強い手の感覚が残っている。
頬がひりひりとする。布地に強くこすった擦り傷のような痛みを感じる。
目の前には土砂まみれの黒地の布が見えた。
それがジークフリート少佐の軍服だと気が付くのに少しかかった。
(助けてもらったんだ……)
今自分のいる場所が、どんなことになっているのか分からない程にすべてが壊れている。
近くで呻く声が聞こえた後、浅い呼吸をした目の前のジークフリートから声をかけられる。
「……動ける?」
その言葉に少し体をよじり動かしてみる。
「……っ!」
足首に痛みが走るが、それを堪えて返事を返す。
「……はい……多分」
「動けるなら……先に外に出て……」
そう告げると、ジークフリートはぐっと喉奥で痛みを飲み込むような声を漏らし、半身を動かしてアンネリーゼが抜け出せる隙間をつくる。
崩れた馬車の隙間から吹き込む雨が、頬を冷たく打った。
震える手で地面を探りながら、アンネリーゼは、どうにか身体を動かし始める。
外へ転がり出たアンネリーゼは、雨と土砂でぐちゃぐちゃになった景色に一瞬息を呑んだ。
さっきまで乗っていた幌馬車は、後方半分が完全に潰れ、木片と泥と布の塊になっている。
まだ人がこの中にいる。ということが信じられない程の壊れように血の気が引く。
「少佐…………」
考えるより先に手が動いた。
泥をかき、割れた板をつかんで引きはがす。指先に木のささくれが刺さり、爪の間に砂が食い込んでも構っていられない。
硬い石をどかそうとして、爪がミシッと嫌な音を立てた。
爪が半分剥がれ、じわりと血がにじむ。それでもアンネリーゼは手を止めない。
(私がいた場所に、ジークフリート少佐はまだいる)
自分がはい出てきた場所を広げるように、必死に馬車の残骸を掘り続けていた──
一方まだ瓦礫の中にいるジークフリートは、アンネリーゼが外に出たのを確認すると、自分の身体の状態を確かめる。
土砂が入り込んだのか左耳が聞こえない。
手、足と動きを確認すると、左腕に走る嫌な感覚。痛覚は鈍っているのに、ものすごく熱く感じられる。
左腕の上腕に触れると、不自然な段差と、骨の硬さを指先が捉えた。
革手袋越しにも、軍服の袖が血を含んでじわじわと重くなっているのが分かる。
(これはまずいな……)
右腕で地面を漕ぎ、どうにかスペースを確保できる場所まで身体をずらすと、腰のポケットにある止血帯を取り出した。
先端を噛み、反対側を右手で引っ張り、左腕の付け根の脇の下に通した。そして短剣の鞘を差し込んでねじり上げる。
視線を降ろし、左手を確認すると血の流れが止まり、皮膚が白く変わる。
はぁっと呼吸をすると目の前がチカチカと霞む。
それでも状況の確認のため、崩れた馬車から這い出ようと右手を軸に匍匐前進をする。
ガラッガラッと瓦礫をかき分ける音が近くなる。
小さな指先が土砂をかき出していた。
爪は割れ、指の腹には血がにじんでいる。
それを視界に収めると、途切れかける意識を振り絞り身体を前に進めた。
アンネリーゼと目があった一瞬。彼女はホッとしたような表情を浮かべたが、すぐに険しい表情に戻り、まだ埋まっている人を助けにその場を離れた。
ジークフリートは右手で地面を押して半身を持ち上げ、周囲を確認する。
先頭を歩いていた護衛兵は半数が土砂にのまれ、崖下へと流されている者もいた。
ジークフリートの青毛の愛馬を引いていたノエルは、ほぼ無傷で馬車の残骸を掘り起こしている。
馬車は落石が直撃しており、リオラ曹長とオスカー上級曹長はまだ車内に閉じ込められたままだ。
最後尾の騎乗の護衛兵二名は、土砂の直撃は免れていたが、進路には大きな岩が立ち塞がり、道が崩落している場所もある。こちらには来られそうもない。
ジークフリートは呼吸を整え、後方の護衛兵二名に声を張り上げる。
「戻って……検問所へ連絡を」
その指示を与えるのに大きな声を出しただけで、呼吸が浅くなる。
騎乗の護衛兵はジークフリートの指示を受け取ると、来た道を引き返すように馬を走らせた。
見える範囲でこの場に残っている者の人数を確認し、崩落した場所をみる。
(……小石がまだ落ちてきている)
崩落は完全ではなく、次また崩落が起こるか分からない状態だ。
怪我が軽症で済んだノエルがジークフリートへ気が付くと、駆け寄ろうとするが、そのままジークフリートは指示を出す。
「……二次崩落の危険がある。動けるものは……速やかに退避」
ジークフリートはよろけながらも立ち上がろうとするが、出血が多かったのか目の前が白くなり、意識が遠のくのを感じる。
片膝をつき、しばし動きを止めると世界の色が戻ってくる。
その視界に馬車の残骸が飛び込んでくる。
まだその中にいるオスカー上級曹長とリオラ曹長の顔が、脳裏に浮かぶ。
(……彼らを助けることは出来ない)
退避の命令に救出作業をしていた兵士たちの手は止まり、誰もが悔しそうに顔をゆがめる。
「……ノエル二等兵。あなたはその馬に乗って……ハインリヒに伝えて」
ジークフリートの視線の先には青毛の馬がいる。
その言葉にノエルはグッと拳を握る。
「俺は……俺は……残って皆を助けたいっす……」
そのやり取りをしている間にも崖からはパラパラと小石が落ちて来ている。
ジークフリートは深く息をし、整える。
大きな動きをしているわけでもないのに、肩で息を整えなければ声が出せない。
ジークフリートは、血で濡れた手で額に落ちる雨をぬぐい、短く息を零すように話す。
「……ここに留まれば全滅する」
ぽつりと言う声は落ち着いていたが、言葉の芯は鋭く冷たい。
「動ける者だけで移動する。生き埋めは……諦める」
「助けられないと判断した者を……諦めるんだ。助かる者を巻き込むことは……できない」
ノエルの顔が歪む。
ジークフリートは血に染まった左腕を押さえながら、ノエルを真正面から見た。
「ノエル」
声は淡々としているのに、その奥に沈む痛みだけが異様に重かった。
ノエルは袖口で涙を拭うと短く答えた。
「……了解しました」
ノエルは敬礼をすると、震える足で青毛の馬の近くへ行き、左手に手綱を纏めた。
その手綱を一瞬、青毛の馬は振りほどくように首を上に引っ張ったが、ノエルの表情とジークフリートを視線で確認すると大人しくなる。
ノエルの黒い髪に付いた土は降ってきた雨に流され、顔へと泥の混じった線を描く。
ジークフリートは、血のにじむ口元をわずかに引いて言う。
「頼んだ──」
ノエルは青毛の馬の傍で、ジークフリートから受け取った言葉を噛み締め、それを馬にも伝えるように首に手を当て、願いを込めた。
そして鐙に足をかけ飛び乗り、踵で腹を押す。
青毛の馬は地を蹴り、矢のようにただ一筋の細道を駆けていった。
軽傷の護衛兵一名がジークフリートの肩を支え、動ける者は未練を置き去りにしてその場を後にした──




