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黒の矜持  作者: 川端マレ
第三部 グローテハーフェン編

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第五十五話 ねこ

 グローテハーフェン侯爵邸の中庭へ向かう、石造りの回廊。


 ジークフリートには滞在中ずっと、背後に視線が貼りついていた。

 それを当たり前のように背中に受け、整然とした足取りで歩を進める。


 特使が活動できる範囲は最初から、線が引かれていた。

『私的空間です』の一言で越えられない──密輸の件が議題に上がるまでは、侯爵は被害者の顔でいられる。

 圧倒的に不利な環境で、昨夜の違和感だけを確かめに行く。


 アーチ状の屋根に雨音が響き、流れ落ちる雨は、下の小さな貝殻と化粧石を敷いた地面へと吸い込まれていく。


 石造りの回廊の先──濡れずに中庭を眺められるその場所で、カタリナは地下牢でのことをぼんやりと思い浮かべながら、膝上の猫の毛並みを撫でていた。

 

「ねこ?」


 不意に声をかけられ、カタリナは驚き肩がはねる。

 振り向くとそこには、特使として滞在しているジークフリート少佐。


(……ジークフリート少佐?)


「あぁ、ごめんね。急に話しかけて驚かせてしまった」


 カタリナの驚いた様子には意を介さず、ジークフリートは愛想のいい笑顔を浮かべている。

 そして、小さな丸テーブルに備えられているガーデンチェアを示す。


「隣に座っても?」


 聞かれるが断れる理由がカタリナには無い。


「えぇ……どうぞ」


 そう返す声はわずかに強張ってしまう。


(なぜ私に?夕食会で挨拶は済んでいるのに……)


 偶然ここを通りかかっただけなのか、それとも最初から自分の居場所を知っていたのか。

 そうした疑問が一度に押し寄せ、胸の内でひしめき合っていた。


 ジークフリートは優雅な手つきで少し椅子を引くと、「失礼」と短く断りを入れ、カタリナの隣のガーデンチェアに腰を下ろした。


 カタリナはその動作を呆然と見つめつつも頭の中は忙しかった。

 

 ジークフリートはふっと短く笑うと、見透かすように目を細め、演技じみた悪い顔を見せる。


「何故話しかけたんだろう?って顔をしているね」


 心の中を見抜かれて、カタリナは眉根をひそめ膝の猫を抱える腕に力が入る。


 その様子をジークフリートは見ながら、肩を一瞬すくめ、穏やかな表情へと変わる。

 そのまま視線をカタリナから、猫へと向けて、小さく笑う。


「俺、ねこが好きなんだよ」


 カタリナは自分から猫に注意が行っている様子に、ほっと小さく息を漏らすが、訝し気な表情は滲ませたままだ。


(ねこ……が好き……?この方の、掴みどころのなさはなんなのだろう……)


 ジークフリートは、カタリナの膝上でまどろむ猫の鼻先へ手を伸ばし、すんでの所で手を止めた。


 猫は身体を伸ばすと、鼻先を近づけ、スンスンと匂いを嗅ぎ始めた。

 そしてカタリナの膝上で少しずれたまま、また、まどろみ出す。


 それを見てジークフリートは、猫の耳の付け根を撫でる。

 次第にゴロゴロと機嫌良さげに喉を鳴らし始めた。


 猫の警戒を解す姿と同調するように、カタリナのきゅっと縮こまっていた肩の力が、いつのまにか抜けていることに気が付いた。


「この子はあまり人には懐かない子なのですが……」


 ふふっと笑うジークフリート。


「そう。俺、動物には好かれるんだ」


 機嫌よさげにする猫を少しの間なでると、手を止め、テーブルに肘を置く。

 そのまま頬杖をつき、顔を少し横に向けカタリナを見た。


「でも──人間には警戒されるんだよね」


 そう言いつつも、その内容を『自分は気にしていない』というかのように、柔和な表情は崩れない。


 カタリナはジークフリートを確認しながらも、気詰まりし、猫に視線を落とす。


(それは……今のやり取りを見れば私も分かる)


 妙に馴れ馴れしいが、嫌悪感はなく、それでも近づけば後戻りさせてもらえないような危うさを感じる。


「あなたも夕食会で例に洩れず、俺に警戒していたよね」


 警戒されるのは慣れている。普通のことだ。というように、ジークフリートは気にしている素振りを見せない。

 

 カタリナは貴族令嬢として隠せていたつもりだった。

 だが、あの時感じていた不安を見抜かれていたことが、何より気になってしまう。


(気が付かれていたの……?)


「誰にでもそうされるから慣れちゃったけど」


 カタリナは猫に視線を落としたままだ。

 何か手を動かしていなければと、気が急いているようで、ゆっくりと猫の毛並みを撫でる。


(私の不安を見抜いたわけではない)


 カタリナは無意識に動く自分の手を見ながら、これに何の意図があるのかと探る。


「……何故、私に話しかけたのですか?」


 その様子をジークフリートはいつもなら、観察の視線を投げるところだが、今は静かに見つめていた。


(視線は猫に落としたままか)


「あなたが夕食会で、心配そうな顔していたからね?」

「またいつものように、俺を警戒する人間を増やしてしまった」

「その信頼回復にきたんだよ」


 肩をすくめ、穏やかにする姿は、冗談を言っているのか、ジークフリートの本心なのかよくわからない。


 ──その後も、くだらない天気の話や、港の噂話を二つ三つやり取りするうちに、カタリナはジークフリートの柔和な受け答えに心がほぐれ、少し踏み込んだ話をする。


「今回の特使の御差遣は、何かがあってのことなのでしょうか?」


 カタリナの質問をジークフリートは温和な態度で受け止める。


「なぜそう思うの?」


 自分で聞いたことだが、そう聞かれると言葉に詰まるカタリナ。

 本当は直接的な言葉で質問し、真実を知りたい。でもそれは出来ない。

 遠回りして、差し障りの無い内容で言葉にしていく。


「皇帝陛下の側近とも言われる、アイゼンブルク家の嫡子であられる、ジークフリート公子が当侯邸へいらっしゃるのは、よほどのことがあったのかと思いまして」


 カタリナは父が良からぬことをしているのではないかと考えている。

 だが、それをそのまま伝えてしまえば父の立場が悪くなってしまう。

 かと言って、このまま知らないままでいることは出来なかった。


 ジークフリートはカタリナの質問の内容よりも、意図に考えを集中させる。


(特使の派遣理由は聞いていないのか……)


「エルデンシュトラで騒動があったのは知っているでしょう?それで検問所の一時封鎖をしたからね」

「その関係で来ただけだよ」


「それだけ……ですか?」


「そう。たまたま俺が、エルデンシュトラで臨時指揮をしていたからね」

「ここと近いでしょう?」


 一瞬の間を開けた後、ジークフリートは少し首をかしげ、穏やかな声色で語りかける。


「まだ気になる?」


「いえ……教えてくださりありがとうございます」


 ジークフリートはカタリナの煮え切らないような回答をみて思う。


(やはり、何かが気になっていることは確かだな……今日すぐに信頼を得て、口を割るような内容ではないのだろう)

(それより、父親に直接聞くより、他人を選ぶか……なるほどね)


 もうこれ以上距離を詰めようとしても、逆に閉ざされるだろう。

 夕食会でカタリナに対して抱いた違和感。

 その違和感は確信に変わった。


 彼女は、何かを不安に思い、恐れている。


 ジークフリートは「雑談に付き合ってくれて、ありがとう」と柔和な笑みをたずさえ言葉にすると、軽く礼をし、席を立った。


 その様子をカタリナは黙って見おくっていた。

 地下牢の娘。父ユリウスとのすれ違い。様々な出来事がカタリナの心に緊張をもたらしていた。

 常に張り詰めていた心は限界で、本来であればジークフリート少佐は近づけば危ない相手。

 それでも、この会話が何気なさすぎて、少しだけ楽になってしまった自分を認めてしまいそうになる。


(あの方に全部話せたらどれだけ楽だろう……)


 でも話した瞬間、きっと父は完全に終わる。自分の街も、自分の父をまだ信じたい気持ちも全部壊れる。

 猫を抱き上げ胸に寄せると、そのまま顔をうずめ、肩を震わせた──

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