第三十五話 役割
ナーヴァル会議が開かれた翌日。
アンネリーゼの熱はようやく下がり、まだ少し気怠さは残るものの、風邪の症状はほぼ落ち着いていた。
朝日が昇り出すこの時間は、見回りの兵士たちの交代が行われているようで、廊下を行きかう足音が普段よりもにぎやかになる。
アンネリーゼは、ベッド横に置かれた水へと手を伸ばし、軽く体を起こす。すると、視界の隅にリオラ曹長の姿が目に入った。
早朝にもかかわらず、すでに身支度を整え、軍服の袖ボタンを留めているところだった。
アンネリーゼが、もぞもぞと動き出した様子に気が付いたリオラ曹長が、気さくに声を掛ける。
「あっ、アンネさん。体調はどお?」
「お陰様でよくなりました」
アンネリーゼがはにかみそう答えると、リオラ曹長は安心したように軽く微笑んだ。そして「あっそうそう」と世間話のつづきを話すように続けた。
「体調が回復したら、アイゼンブルク少佐の所に行くようにって、伝言を預かっているんだよね」
「多分少佐は今時間、夜間報告の確認とかで忙しいから、朝食をとって少したってからが丁度良いかも」
「伝言ありがとうございます」
アンネリーゼは穏やかに答えるも、少佐の所に行くには緊張してしまう。
ここの所、失敗ばかりが続いている。それが向かう足を重くさせる追い打ちになっている。
そんなアンネリーゼの、硬い笑顔に気が付いたリオラ曹長は「あたしも一緒に行くことになっているから。ね?」と言うとニコニコと首をかしげている。
リオラ曹長の細やかな気配りに、どれほどアンネリーゼがいつも支えられているか分からない。
これをどうやって返せばいいのか。そのタイミングが来たら、自分のできる精一杯で必ず返そうと思っていた。
「いつも心強いです」
そう言うとアンネリーゼは優しく笑い、応えるように頷いた。
手に持っていたコップから水を一口飲み、サイドテーブルへ戻す。
布が肌に張り付く感触が気になり、アンネリーゼはベッドからそろりと出ると、軽く寝具を整える。
熱の余韻のような怠さがまだ残っているが、バサバサになっていた髪の毛を手櫛で整え、そのままお風呂へと向かった。
湯を張る間に、アンネリーゼは鏡の前で髪をとかした。ブラシを洗面室に備えられているラックに戻すと、軽く手を伸ばしストレッチをする。パキパキと固まった関節が伸びて音が鳴る。数日間寝たきりだったのがかなり身体を凝り固まらせていたようだ。
浅い湯に身を沈めると、血の巡りがゆっくりと戻っていくのを感じ、止まっていた時間が少しずつ動き出すようだった──
身支度を整え朝食をとりに一階へ降りると、廊下には調理された朝食の香りが漂っている。
パンを焼く香ばしい香りは数日ぶりの空腹を思い出させた。
まだ食欲は戻り切っていないが、空腹を感じるのは生きている実感がする。
厨房に入ると、調理当番の若い兵士がアンネリーゼに気がつき、声をかけてきた。
「風邪よくなったんすね、よかった」
「お陰様で」
アンネリーゼは笑顔で返すと、入り口近くのトレイを手に取った。
兵士は大鍋からスープをよそい、コトンとアンネリーゼのトレイへとのせてくれる。
「食べて体調、万全に戻さないとっすからね」
兵士の屈託のない笑顔は、手元で湯気を立てている玉ねぎやカブが入ったスープと同じくらい、優しく安心感を与えてくれて、思わずアンネリーゼの頬がゆるむ。
「おいしそうな匂いを嗅いでいたら、お腹すいてきちゃいました」
そうクスクス笑いながら返し、バスケットに入っている乾燥パンをひとつ取ると、食堂の一角に向かった。
元来人懐っこいアンネリーゼは、この一か月のうちに、よく出入りする場所の兵士と世間話を交わすほどに打ち解けていた。
初めて軍に帯同することが決まった時、全てが知らないものだらけで、何処にも自分の居場所が無いように感じ不安でいっぱいだったように思う。
それでも特別な事をしなくとも、毎日顔をあわせ仕草を見ていくうちに、お互いがその人の人となりを理解し始める。
そうやって少しずつ自分の居場所がいろんな場所にできていった。
アンネリーゼは席に着き、ナプキンを二つ折りにして膝に置くと、カブを一口サイズに切り分けスープと一緒に口へ運ぶ。
少し塩味が効いていて、野菜の甘みが溶けたスープは病み上がりの身体にも食べやすかった。
最初は食べきれないかもと思っていた食事も、気が付けば完食していた。
食べ終わった食器を片付け顔なじみの兵士に軽く会釈をすると、自分に割り当てられている客室へ戻る。
その後、リオラ曹長と落ち合いジークフリートの執務室を訪ねた。
元々この屋敷の伯爵が使用していた執務室のドアは、他の部屋の作りよりもひときわ豪華で、その前に立つと自然と姿勢が伸びてしまう。
リオラ曹長が、ノックをすると室内から返事が返ってくる。
そのまま二人は室内へと入った。
奥の執務机にはジークフリートがいるが、机の上には複数の書類が山積みとなっていて、多忙さを物語っている。
その隣に置かれたワゴンには、朝に運ばれたままの手つかずの食事が残っていた。
ジークフリートは二人の姿を確認すると、「ちょっと待ってね」と言い、書きかけのものを手早く書き終え、印を押す。そして左側の書類の山の上にのせた。
アンネリーゼはそんな手際のよい作業を見ながら、視界の端に映る、ワゴンが気になり視線を移す。
運ばれてきた状態のままクローシュは動いた形跡もなく、スプーンもフォークも整えられたナプキンの上にある。
ジークフリートの手が止まるタイミングを見計らって、遠慮がちに声をかける。
「少佐……個人的な事なのですが、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
そのアンネリーゼの問いに、ジークフリートは眉をあげ少し様子を見た後、軽く「どうぞ」と返答する。
許可をもらって、アンネリーゼは姿勢を正すと、深く頭を下げた。
「今回は大切な会談の前に、体調を崩してしまってすみませんでした」
そのアンネリーゼの真剣な様子をみて、ジークフリートは笑いながら答える。
「あなた、俺へ謝ってばかりだね」
どうやら風邪の件は、まるで気にしていないようだ。
アンネリーゼが風邪をひいたあの時、ジークフリートは突き放すように言った。
『通訳としての役目は、帝国が通訳を”わざわざ”用意したというだけで七割は完了している』
『あなたの役割はもう終わった。会談がどうなろうと、あなたには関係ない』
そうやってアンネリーゼの欠席を強制的に決めていた。
だがアンネリーゼにとってそれは、会談での戦力外通告に見せかけた配慮と受け取っていた。
『不要だ』という強い意味の言葉でなければ、アンネリーゼは無理をしてでも出ようとしていただろう。
今回風邪を引いたのはアンネリーゼだった。その欠員分を補ったのはジークフリートだ。
だが、もしジークフリートが風邪の場合はどうするのだろうか?と、アンネリーゼは思う。
少佐の代わりにそれを背負えるものは誰もいない。
そんな考えから、言葉がぽろっと出てしまう。
「もし、少佐が同じように、大切な会談の前に体調を崩していたら、どうされていたのでしょうか?」
そのアンネリーゼの問いに、ジークフリートは目を細め無邪気に答えた。
「うーん、そうだなぁ。内緒で出ちゃうだろうね」
重責を背負う者は覚悟が違うのだろう。
それは理解できる。でも本当につらくなった時、この人は誰を頼るのだろうか?と率直に思うのだ。
「誰も頼れないほどの役割を、ひとりで背負わなきゃいけないんですね……」
ジークフリートは手元の紙束の角を指先で無意識に撫で揃えると、軽く握った拳を顎へともっていき、柔和な笑みを浮かべ頬杖をつく。
「会談が俺の役目の七割だろうしね。それへ出なかったら職務放棄になっちゃうでしょう?」
ふふっと短く笑い、冗談のようなニュアンスにして自分の役割の重さを誤魔化す。その表情は無邪気なようでいて、けれど目の奥には冷えた光が残っていた。
アンネリーゼは身体の前で重ねている手に力が入る。
重要な役割を背負っている事実を述べているのに、それ以外にある自分の存在を切り捨てているようにも聞こえた。
いつも誰にも悟らせないように軽く流してしまう。
最初から自分を人としての理の外に置いているような、そんな違和感がぬぐえない。
ジークフリートは頬杖をついたまま、アンネリーゼの思い悩むような表情を見ていた。
(なにを考えているんだ?分からないな……)
(病欠の事をまだ気にしているのか?)
「この前も言ったけど、あなたは通訳の名目だけで七割は役目をはたしている」
「そして、この地に来て記録をとり、現地住人を見て、通訳をした」
「そのことでもう充分だと俺は判断した。会談の欠席であなたが責任を放棄したとはならないよ」
(ここまで言ったらさすがに分かるだろう)
そのまま分析するように、ジークフリートはアンネリーゼの表情を観察する。
アンネリーゼはそのように自分を評価してくれていたのかと素直に喜びたい。だが、評価してくれていた喜びよりも、どうしても心に引っかかるものがある。そんな言い知れない感情が心を占めていた。
少佐は他人を見てくれるのに、自分のことは誰にも見せようとしない。そんな寂しさがつのってしまう。
「私の評価に対しては分かりました。ありがとうございます」
そう言いながら、アンネリーゼは微笑むも表情が強張る。
アンネリーゼの様子を見ながら、ジークフリートは淡々と言葉を続ける。
「万全を尽くしても失敗するのが人間だ。俺も風邪くらいひく」
「それでも、その為にしか自分を使えないなら、やるしかないでしょう?」
「俺の場合はそうなだけだよ」
そんなジークフリートの合理的な言葉に、アンネリーゼはどうしても胸が苦しくなる。
(やっぱり、まるで自分をモノのように認識してる……)
それは今回に限らず、あらゆる場面でアンネリーゼが感じていた違和感だ。
そして、ジークフリートはどんな立場の人間に対しても、人として見ている。それは心のある人間にしかできない。けれど自分はモノのように扱う。
これがどれほど心を疲弊させるのかと考えると、苦しくなる。
言動もまるで嫌われようがどうしようが構わない素振りで、役目にだけ生きている。
それは、モノであるような認識で己を縛り付け、人としての普通の感覚をまるで切り離しているようだ。
「少佐はきっと風邪ではなく、命がかかる場面でも気にしない素振りをするのでしょう……」
「他人の事はよく見て最適がわかるのに、少佐ご自身の事は見ないんですね」
「もっとご自分を大切にしてもいいと思います……」
アンネリーゼの真っすぐな問いかけに、まさか自分の事で思い悩んでいる素振りを見せていたとは思わず、ジークフリートは視線を下に逸らした。
そして、短く息を吐くと飄々と答える。
「最近、俺を憐れむのが流行ってるのかな」
そう言って苦笑すると、手元にある書類を数枚選び抜き、二人を呼び出した本題へと移る為に準備を始める。
その事務的な手さばきをアンネリーゼは見つつも、ジークフリートの表情の強張りと、奥底に寂しさが滲んだように見える表情に目が離せなかった。
ハインリヒも、アンネリーゼも、皆同じことを感じている『少佐は自分を使いつぶしている』と。
ジークフリートが無自覚なわけではない。それでも生まれた瞬間から、いやその前から業を背負っている自分は、生きる限り、この心臓が拍動する分だけ自分を使いつぶす他ないと思うのだ。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
彼らが何を選び、どう進むのか、見届けていただけたら幸いです。




