第十一話 夜霧
夜霧が遠方の山々を隠していき、先程まで空高く光っていた月は、霧に包まれその姿をかすませる。
ヴァルディナ城も飲み込まれ、その輪郭がうっすらと残るばかりとなる。
所々、窓から漏れる光が滲み、霞んだ世界にその灯だけが、存在感をわずかに残す。
──そのヴァルディナ城の一角。ジークフリートは、父であるアウグスト元帥の執務室を訪ねていた。
通訳者アンネリーゼの、正式な任命許可を取りに来ているのだ。
「ジーク、マティアスの娘を前線に連れて行くつもりか?」
アウグスト元帥の声は低く落ち着いており、確認だけを求めているようだ。
「軍務資料局所属の通訳です。任務に必要な人材であり、軍属として正式に帯同させます」
渡されたアンネリーゼの調査資料に目を通しながら、アウグストの眉間のシワは一層濃くなる。
(軍務資料局の通訳官か……軍属での遠征は今回が初めて……)
アウグスト元帥の、少しの表情の変化も見逃すまいと、ジークフリートは鋭いまなざしを向ける。
「タラモン語の通訳者を務められる国所属の人員が、彼女しかいません」
タラモン語の通訳者がいない理由は、アウグスト元帥には痛いほど分かっている事情だ。
過去の救済であり、地獄への入り口であった圧政の選択は、今も色濃くその影を残している。
父親世代が過去に下した決断を、戻ってやり直す事はできない。
やり直せていたとしても、それが今よりマシになっていたかは誰もわからない──
現実として今ある事だけが真実なのだ。
「ジークお前は、かの地で何をするつもりだ」
アウグストの言葉に元帥としての言葉と、私情が混ざっていると感じたジークフリートは、ふっと笑い、それまでの公的な態度を崩すように話し始める。
「向こうの様子を、実際見てみないとわからないなぁ」
「でも……」
「必要だと判断したら、その時は、今度こそ根絶をしてくるよ」
その言葉に空気がはりつめ、卓上の燭台に揺れる炎がチリっと音を立てて静かにゆらぐ。
感情のない声とその冷え切った瞳に、父であるアウグストですらゾッとする。
普段通りの微笑みはジークフリートの中では崩れないようだ。
それが彼にとってどのような意味を持っているのか──
「……っと、いう事で、この通訳者の任命書の欄に印をもらえるかな?」
ジークフリートは紙をスッと差し出す。
先ほどの『根絶』の言葉は業務の一環であり、特別な事でもないと主張するかのように、砕けた話し方を続ける。
アウグストの表情は感情に乏しく、常に難しい顔を崩さない。
他人にはその本意が読み取れない表情のまま、差し出された紙を受け取り、視線を落とすが、思考は別の事を考える──
ジークフリートに、感情が無いわけではないとアウグストは知っている。
何も感じずに根絶を行えるほど、強くはないと解っているのだ。
傷は見えていないようで確実にその心を蝕む。
まだ壊れ切っていない今であれば……とアウグストは言葉に出す。
「ジーク……戻れなくなるぞ」
その言葉にジークフリートは一瞬目を丸くするが、次の瞬間、盛大に笑い出す。
「あはは、そんな事……」
そこまで言うと、ジークフリートの顔から表情が消える。
「最初のひとりの時点でもう戻れないでしょう?」
何をいまさらと刺すような瞳を向ける。
この役目に生まれた時点で、犠牲はついて回るだろうと、それが自分の役割なのだと自らを納得させるように思うのだ。
ジークフリートは、余計な雑念を吐き出すようにふっと息を短く吐くと、試すような声色で話し始める。
「上官に対しての、こんな態度が許されるのは、息子だから許してるの?」
その言葉を受けてアウグストは眉間にしわを寄せ、ジークフリートの言葉の意味を探るように見つめる。
(ジークはどこまで勘づいているのだ……)
(いや……ずっと前から、もう気が付いているのかもしれない)
そう思うアウグストもまた、自身の役目を演じ切らなければならない。
「立場を逸脱していると分かっているなら、自重しなさい」
声に重みはあるが、そこには窘めるような様子はない。
アウグストは先ほどの任命書に視線を落とし、承諾の印を押し、ジークフリートの方へと紙をよせる。
ジークフリートは、アウグストの言葉を軽い笑みで受け流し、印の押された任命書を机から流れるような手つきで回収した。
「ふふ、ありがとう」
ジークフリートは態度を改めるつもりは無いようだ。
「承認ももらったし、明日も早いからもう行くよ」
そういうとジークフリートは、父アウグストを変わらぬ様子で見た後敬礼をし、ドアへ向かって歩を進める。
アウグストは複雑な心境を抱え、その姿を目で追った。
ジークフリートは父の視線を背中で感じながら、父が隠している事、それをはっきりさせられないもどかしさが募る。
(止める事は、あなたにはできない)
(言ってしまえば楽になるのに……)
見送るアウグストの視線もまた、複雑な心境を抱えている。
視線の先の、その姿がドアの向こうへ消える一瞬、ジークフリートの眉尻が下がり、申し訳なさそうな表情が滲んだように見えた。
それは幻だったかの様に、もうその場には残されていない。
記憶へ刻まれた残像に、アウグストは息を飲んだ──
火がくべられた暖炉の熱は感じられず、部屋の空気はどこか冷えていた。
わずかな温もりの中に、言葉にしがたい冷たさが静かに沈殿している──
最後まで読んでくださりありがとうございます。
彼らが何を選び、どう進むのか、見届けていただけたら幸いです。




