第四話 練習
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おしるこをぐびぐび飲みながらルナと何か話している先生の目の前で、ぼくら部員は動物園の中の猿みたいに走り回った。午前中は基本練習。数々ある陸上の種目にかかわらず、陸上をやるための身体づくりを目的としたようなトレーニングだ。
ぼくらはむかしあったらしいソフトテニス部のコートを借り、そこをいろいろと改造して使用している。
たとえば砂場ゾーンのロングコース。これは先代の顧問が作ったものらしい。足場が容易に崩れる砂の上を走ることで地面を蹴る能力が養えるらしいのだが、当然のごとく疲労がたまりやすい。そのあとは「地獄めぐり」とみんなで称しているサーキット練習だし――ようするに、練習というものは全体的に何から何まで辛いものだった。中でも基本練習は新しいことを教わるワクワク感もなく、単純作業の繰り返しのようなものなので余計に辛い。
でもルナに見られているとなると、ぼくはいつものように「疲れたー」なんて口に出したり、仲間とだべりながらの練習なんてことはできなくなってくる。それがぼくにとっての疲労回復法――というかサボりだったんだけど、今日はそういうのを一切排除して練習に取り組んだ。どうやらいつもと様子が違うと勘付いた七村が
「はは~んそっかぁー、そうだよなあ、ルナちゃん見に来てるもんなぁ」
なんてにやつきながらからかってくることも多々あったけど、それに関しては美村香奈が「いいじゃないの真剣になったんだからバカ二も黙って練習しなさいよっ」とペットボトルで援護射撃を加えてくださったので、今日のところはあのペットボトルに感謝することにする。
――それに、なんてったってぼくは、速くなりたかったのだ。
不純な理由かもしれないけど、ぼくはルナから頼りにされたい一心で、だから速くなりたいと思った。速くなれば頼りにされるかどうかは分からないけど、たしか先生も言っていた――自信をつけるには、努力するしかない。
ぼくはとにかくがむしゃらになって極熱の砂漠を抜けて地獄の業火を浴びて死の行進をさせられて、今の自分を忘れて新しい自分に生まれ変わりたかった。そんな風にぼくが苦行をする光景は、とてもかっこいいとは言いがたいものだっただろう。でもなぜか、そのときはそばでルナが見ていることなんてすっぱりと頭の中から抜け落ちていた。ぼくはルナに頼りにされることだけを考えて、そのためだけに身体を動かしていた。
心が身体を動かしているような感覚。身体がなかったら、この心はきっといつまでも動き回っていることだろうなんて思えてしまうような。
疲れきった身体を無理やりひきずって、心はそれでも止まろうとはしなかった。体力の限界地点は追いかけても追いかけてもぼくから遠ざかっていって――、気が付けば、昼飯時だった。
お昼ご飯は食堂で、何か用事でもない限りはみんなそろって食べる。ルナがいるこの日だっていつもと変わりなく食堂へむかったんだけど、これだけは珍しいことに、まさかまさかの先生のおごりだった。たぶんルナへのアピールなのだろう。休憩中だって、先生としてはありえないくらいに陸上のことについて語って、ルナを必死で口説き落とそうとしてたし――どうやら、この人は本気のようらしい。
お昼ご飯中にぼくらが話すことはと言えば、いつもならとりとめもない、たとえば「あの先生うざいよな」とか「そういやあんときの授業で」とか、なんともいえないくだんない話題ばっかりなんだけど、今日は隣に座っていた女子バレー部のグループに触発されたせいか、自然とそういう流れに会話が移っていった。
つまり今は夏まっさかりってわけで、こうやって高校は夏休みに入っているわけで、女子バレー部のみなさんは「私らがこんなことやってる間に帰宅部は彼氏作ってたりしてんでしょ」「くっだんないね。私はもはや、顧問が彼氏みたいなカンカクだから別にうらやましくないし」「あははははバレーデートバレーデートっ」なんていうような様相で盛り上がっていたのだ。
「都会の子って八割の学生が交際経験あるとか聞いたことあるんだけどさ……、実際のところ、ルナちゃんって誰かと付き合ったことあるの?」
七村がそう訊ねるのを耳にしたぼくは、カツカレーをカレーパンマンのごとく噴き出しそうになった。結局噴き出しはしなかったけど、実際かなりむせた。
「どうしたんだいカイくん青酸カリでも混入してたのかいだったら俺が毒見をしてあげるよ」
そう言いながら、残しておいたカツの一切れに箸を伸ばすカナタくんの行く手を遮る。遮りながらも、ぼくはルナの返答へ聞き耳を立てた。あんまり意識されていたらルナも話しづらいだろうから、カナタくんの相手に一所懸命になっているフリをする。
「いやあ、わたしのところ女子高だから……、そういうのは全然」
と七村の勢いに押されがちなルナの声が聞こえて、
「うそんっ。……ほんとかあ? でもなあ、女子高でもなんかいろいろありそうなんだけどなあ……、そうだナンパとかだったら絶対されたことあるでしょ? ルナちゃんかわいいし」
「えっ、いやぁ……友達はあるみたいだけど、わたしは別にっ、そういうのは全然ないよ……」
とつぜん会話にペットボトルの音がパコッと挿入され、何か言おうとしていた七村の声が途絶える。
「くぅらっ、そんなプライベート情報を出会って早々訊くなっ。ルナちゃん、こんな質問答えなくたって大丈夫だからねー」
「ちょっとお前邪魔すんなって、俺はただ、元同級生がどんな風にアーバンライフを過ごしているか興味があるってだけなんだよ……、あっそうだっ、そろそろ時効ってことで、小学生のとき誰が好きだったかとか教えてくれない? これは香奈もかなり聞きたいだろ?」
「あんたねぇ、興味があったにしても、そういうのはほいほい訊ねられてはい素直に答えますってわけにはいかん話題でしょうが。そんなんならあんたが先に開示してみなさいよ、ギブアンドテイクなら私もオーケーだと思うわ」
「……香奈ちゃんの裏切り者」とルナ。
「あぁっ。じゃあ教えてやろう、俺は小学校の頃、」
「あーっ! やっぱギブアンドテイクでもだめだめだめっ、なぜならお前のデータなんて誰も求めていないから。男のパンツの色なんて誰も興味を示さないのと同じようにっ!」
「超絶ひどいんですけど」
「一番ひどいめにあっているのは誰だかわかるかい」
ここで机に手のひらを叩きつけてとつぜん起ち上がったのは、カナタくんだった。
「そんな話題をここで繰り広げられてもっ、みんなと小学生時代を共にしていない俺がっ、むしょうに寂しくなるだけだろうがぁああ!」
「……それもそうだなあ、みんな、カナタくんのことを考えてやってくれよ」
ぼくは便乗して静かに言う。口げんかを交し合う二人の間で、ルナがいたたまれないように萎縮していたのが気にかかっていたのだ。
そういう話題に対する興味は、ぼくの心の中にもあった。ルナに、好きな人がいるのかどうか。気になって仕方がない自分がいる。もし、ルナに好きな人がいたとしたら――そのとき、ぼくはどんな感情を抱くのだろうか。
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せっかく経験者がやってきてくれたんだということで、午後からの専門技術練習にはルナがコーチとしてちょいちょいと練習に参加してくれた。先生の再三の懇願で、ルナもしぶしぶオーケーを出したのだという。
まずはランニングフォーム。これは自分ひとりではなかなかチェックしづらいもので、しかも自分ひとりだと「これでいいや」と自己満足してしまうことが多く、それがフォームを崩す大きな要因となるらしい。
だから他の人に見てもらいながら調節していくのが一番良い方法なんだけど――うちの陸上部には先輩ぐらいしかまともな経験者がいない。その上この先輩はめったに練習にやってこないので、ぼくらはどんなフォームが正しいのか、自分のフォームがどうおかしいのか、イメージをあいまいにしたまま練習を続けてきたのだった。そこでルナは一人一人のフォームをチェックして、ぼくらが今まで気づかなかった点を指摘してくれた。
ちなみにぼくの場合、別にフォームが悪いというわけじゃなく、だけど短距離走に必要な筋肉があまり鍛えられてないらしい。速くなる余地はまだまだある、と添えられた言葉にぼくはほっとした。
「カイはどっちかというと持久走向きだとわたしは思ったんだけど……、でもやりたい種目をやるのが一番だし、家に帰ったら教えてあげるよ、短距離仕様の筋トレ」
その時、ぼくにはルナと接しにくいような気持ちがまだあった。思ったより本格的なルナの指摘に内心では感心しつつも、ぼやぼやとした相づちで応えるばかりのぼくに、ルナは早めにアドバイスを切り上げて次の美村香奈の方へと移っていった。
そう去られてみてから、ぼくは自分の態度に嫌悪感を抱く。ルナのアドバイスは細に入る、なかなか参考になるものだった。ルナはちゃんと練習風景を見ていてくれていたのだ。
でも、ルナへの疑心がなかなかぬぐえない。何をどう疑っているのか自分でもよく分からなかったけど、ぼくはいろいろと心配だった。ルナに対する様々な心配が複雑にまざりあって、それは掴みどころのない不安を作る。
午前中みたいな基本練習ならとにかく走ってそれを忘れられたんだろうけど、頭脳の方も重点的に使う技術練習にとって、それは霧のような障害になった。だから午後にならったことは、正直、あんまり頭に入ってきていない。
そういう風に苦汁を呑んでいたのは、どうやらぼくだけじゃないようだった。
ルナが美村香奈につきっきりになっていたのは、ルナにとって美村香奈が気分的にも関係的にも一番気軽に接すことのできる相手だから――という理由だけではない。
美村香奈は、練習量だけなら比べるまでもなくこの陸上部の中でピカイチだと思う。たぶんバカ三がやつにペットボトルで叩かれても嫌な気になれないのは、そういう点において感心しているからで、でもその努力が報われているかどうかといわれると、ぼくらは素直にうなずくことはなかなかできない。
おそらく女の子走りをする人々の中では世界一速いだろう。女の子走りにしては異常な速さだ。それは間違いない。その点においては、努力が報われているといってもいいのかもしれない。間違いなく努力は徒花なんかではなく、あの速さは努力が結実したものだった。
でもやっぱり、女の子走りを卒業しないと好成績を残せないのが、陸上というやつなのだ。
「性格は男なのに身体つきとか動作は女の子として最強だもんなあ。イッツモッタイナイとはこのことだよ、ほんと」
二人の練習風景を眺めながら、七村がぼやくように言う。ルナが理想のフォームをモーションしてみせて、停止した状態だと美村香奈はそれを真似できるのだが、走り出すとやっぱり
「きゃぴんっ、きゃぴんっ、きゃぴんっ、きゃぴんっ、」
七村がふざけて擬音を付け加え、
「周りにかわいらしいカラフルな星の映像効果でもつけてあげたいね」
カナタくんが夢の世界にトリップしたようなうっとりした顔で言った。
本来ならばこの直後、二人の頭とおまけにぼくの頭をペットボトルがすかんと一発強襲してくるはずなんだろうけど、
「ごめんルナちゃんっ……、もっかい、教えてもらっていい?」
地獄耳の美村香奈は、まるでそれが聞こえていないようにこちらを無視してルナにすがりつく。
「ぽよんっ、ぽよんっ、ぽよんっ、ぽよんっ、」と再び七村で
「ビキニで夏の砂浜を走らせてみたいよね」とカナタくんで
ぼくは、膝に手をついて再びスタートラインに汗水を染みこませる美村香奈の方に、すっかり気をとられていた。