第五-一話 休憩
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部活が終わり、ぼくはひとり食堂前の自販機でジュースを買うことにした。
七村とカナタはドリンクの後片付け。ルナはなぜか、部活の終わりになって突然現れた先輩に連れ去られてどこかへ行ってしまった。
「ルナちゃんはねえ……、あの伝説のミタを、再び立ち上がらせる鍵となる存在なのだよ」
なるほど、生気を取り戻したかのように機敏な動きを見せてルナを連れ去る先輩を見て、先生は腕を組み、やはり何を考えているのか分からないいつもの笑みだった。
いつもは美村香奈が言っているような言葉を、ミタ先輩はルナに対して叫んでいたような気がする。
「勝負しょうぶショウブッ、」
その言葉を口に弾ませながら、ぼくはいつもの清涼飲料のボタンを押した。勝負かあ、むかしから負けることが嫌いなやつだったからなあ美村香奈は。ボトルが取り出し口に出てくる音とともに視界の端にやってきたのは、
「おー。おつかれ、美村」
ボトルを手に取ると、ぼくは何気なく声をかける。だけど美村香奈は「うん」と弱弱しい声で言っただけで、ぼくのことには一目もくれず、難しい顔をして自販機の前に立った。
「ああ、」
美村香奈のぼんやりと開いた口から、心の抜けたような声が漏れ出して、
「財布わすれた」
なんじゃそりゃ。ぼくは手にしている水滴の冷たさを思い出す。
「……これ、いるか? まだ開けてないし」
「へ」
と美村香奈は身体をたじろがせ、そのあとぼくが差し出したボトルにようやく視線を注いだ。
「……それ、嫌いなやつ」
「ふーん、じゃあいいか」
「せっかくだからもらっとくけど」
ぼくからボトルを受け取ると美村香奈はさっそくフタを開け、天を仰いで喉を鳴らし、五百ミリリットルのそれを一気に飲み枯らしてしまった。嫌いなやつじゃなかったのかよ。
「……ぷッ、はぁああ~っ! 生き返るわあぁ~!」
「風呂上がりの親父みたいだな」
空のペットボトルが、ぼくの頭の上ですっからかんの音を鳴らした。
「あんったらねえ、私が練習してる間もさ、話ぜーんぶ丸っまる聞こえなんだっての。性格が男とかっ、私だからこうやってペットボトル一発で許してやってるけどねえ、普通の女の子だったら相当なショックを受けちゃうわよそういうの聞いたらさ」
「自分が普通じゃないのは、認めちゃうんですか」
「そう。認めてるからそんなに怒らないの。実際こんな性格なんだから仕方ないでしょうが? 別に変えたいとも思わないし」
「七村は『あれさえ変わればなあ』なんて言ってたけど?」
「七村のために変わる必要なんて、この世のどこに存在するのよ」
ひどい言い様だ。でもこのひどい言い様で、ぼくは美村香奈が普段通りに戻ったのだとほっとした。空のボトルを受け取って、自販機横のゴミ箱へ捨てる。
「……なーんかやけにやさしいじゃない? 気ぃ遣ってくれてるの?」
「そう思う? そんなやさしいやつじゃないよぼくは。それ持たれてると、いつ殴られるか分かんないからなあ」
美村香奈は反射的に右手を振り上げたけど、手の中にペットボトルがないことに気づいて、よそよそとそこから力を抜いた。むっとした顔でぼくを見たところに、
「どうせこの後も、いつもみたくランニングするんだろ? なら、ちょっくら一緒に走らないか?」
「……カイくんと?」
「ああ。ぼくもちょっと、いつもより多めにトレーニングしときたい気分だからさあ」
美村香奈はむっとした顔に力を込める。
「あっやしいー。絶っ対、なんか変な気ィ遣ってくれてるでしょ。……私、今日も上達できなかったもんねえ走り方。別に私は頼んでないわよ、そんなこと」
「……だから、ぼくはそんなやさしいやつじゃないって言っただろ? まあやさしいと思ってもらえたら、ペットボトルも飛んでこなくなるのかな?」
次の瞬間、ぼくの脳天を瓦みたいにかち割ったのはチョップだった。
「気ィ遣ってるって素直に言えよ。そっちのほうがよーっぽど楽だから……まあ、勝手についてきたら? ストーカーって交番に突き出されても知んないけどね」
そう言って先に走り出した美村香奈には、案外すぐに追いついたんだけども。
*
美村香奈が腕時計を確かめる。
午後六時、十一分。ぼくらが走り始めてから約十分。校舎周辺の街灯がそろそろと灯り始めるけど、空はまだまだ明るい青色をしていた。
月の形と一番星が目立ち始めるくらいの時間帯だ。蝉の声は炎の根っこの青さみたいに弱弱しいけど、依然としてこの町の隠されたスピーカーみたいなところから鳴り響いている。
「いつ鳴きやんでるんだろうなぁ、蝉って」
ぼくが独り言みたいに呟くと、美村香奈はまっすぐ前を向いたまま言った。ぼくの斜め前で振り子みたいに揺れているポニーテール。
「そんなの、私に訊かれても知らないわよっ、」
速度に乗ったあとの調子のいい足音が、一定のペースで続いていた。ランニングのときなら、美村香奈のフォームはきれいなものだ。
「蝉に直接訊いてみたら? ……そんなしょうもないお話してる場合じゃないって、鳴いてばっかで全然応えてくれないから」
「……つまり、走ってるときは黙って走れと?」
「分かってんなら黙りなさいっ。ペットボトルがあったら叩いてるし、交番があったら突き出してる」
つまり邪魔ってことですね。とは邪魔になるので口に出さない。美村香奈はまた腕時計を確かめる。そして、スピードを少しだけ上げた。
ランニングコースを三周し終えたあとの、とある部落内の村道に入ったところだった。ぼくと美村香奈が走っている方向の奥から、騒がしいちびっこどもの塊がほどけたりかたまったり、形を変え変え歩いてきた。
だけどその中心には、いつも長い長い虫取り網がつっ立っている。たぶんあれがリーダーか何かだろう。すれちがうぐらいに近づいてみると、騒がしい音の中心から「ギーギー」と死にかけの虫けらみたいな声が聞こえてきて、察しはすぐについた。
「むしとりしょうねんがしょうぶをしかけてきた!」
ぼくがちびっこたちに声をかけると、
「あっ、りかけいのおとこ!」
虫取り網の先をぼくの方へ向けたのは、となりのおばさんちの孫だった。こいつのむしとり武勇伝はおばさんからよく聞かされていて、だからぼくは以前からそんなあだ名をつけて呼んでいる。
「なにやってんのりかけいのおとこ!」
ぼくは足を止めて、心底不愉快な思いになる。りかけいのおとこのグラフィックをご存じだろうか。
「ぼくはメガネもかけてないしロン毛でもないしげっそりしてないし地面にはいつくばってもいない!」
しかし、むしとりしょうねんはぼくの話も聞かず、
「みんな、あいつオレんちのとなりに住んでるやつ。『りかけいのおとこ』って呼べよ」
「……おいおいむしとりしょうねんよ、しょうぶをしかけてやろうか」
「しょうぶ?」
「いいぜ!」とむしとりしょうねんが自慢げに突き出したのは虫かごだった。その中には何かが翅をばたばたさせて、天井にぶつかっては透明の床に着地する。
「オレたちサイキョーのやつ捕まえたんだよなあ、りかけいのおとこはゴキブリしか持ってないんだぜ!」
ちびっこのみなさんから指を差して笑われた。たしかにゴキブリさんとは長い長い闘いを繰り広げているけど決して飼っているわけじゃない。
「ごきぶりのおとこーっ!」
と誰かが叫んで、「りかけいのおとこ」から「ごきぶりのおとこ」と名称が変更し、最終的に「りかけいのごきぶり」になった。トレーナーからモンスターの方に変わっちゃってるじゃねえか。
「ええい鎮まれぇ、むしとりしょうねんどもぉ! ぼくはついさっき伝説のモンスターをゲットしたんだよお!」
「うんこ?」
「ゴキブリって自分のうんこ食べるんだぜ!」
「きったねえーっ!」
こいつらは人の話を全然聞かない。ならばこちらだってお前らの話なんて聞かないことにする。ぼくはちびっこどもの塊を指差して、高らかに叫んだ。
「いけっ、ペットボトル鬼神こと美村香奈よ! ペットボトルでこいつらを叩きのめせ!」
しかし、そのあとぼくが予測していた地点に、鋭いチョップはいつまで経っても降ってこやしなかった。
しばらくの沈黙が過ぎると、むしとりしょうねんの陰から気弱そうな男の子がひょこっと顔を出して、ためらいがちにぼくを見ながら言う。
「ねえねえ。カナって、あのねえちゃんでしょ? 走っていったよ……、ほら、あそこにー」
男の子が指差した道の向こうで、美村香奈の姿はすっかり小さくなってしまっていた。
「りかけいのうんこぉ、フラれてやんの!」
「うっせえわい、フラれてないわっ」
むしとりしょうねんにそう声をかけると、遠くにいる美村香奈の方へ走り出した。
「ばいばい、りかけいのうんこーっ!」
「お前らもう六時だぞー、はやく家に帰れよー」
「ばーか! いまから公民館で『おにひめ』の練習するんですぅーっ!」
なんかバカにされてばっかりだなぼく。なんて思いながらも、そうか、もうそんな時期か。と思い出す。そうすると、もう夏休みも中ごろに入った証拠といってもいいだろうか。
「おにひめ」は町の伝統行事のことだ。こどもたちが町の至るところにある神社を巡って、ちょっとした劇を演じる、そんなささやかな伝統行事。終わったらおこづかいの三千円とお菓子セットがもらえるので、こどもたちはそれに向けて夢中で頑張るのだ。大人の汚さが透けて見えるような、子どもの清らかさが映えて見えるような。
虫かごを掲げてこちらを見送るちびっこどもに手を振って、ぼくは全速力で十数秒、ようやく美村香奈のところへたどりついた。
「……さっすが、りかけいのごきぶりー。しつこいわねー」
美村香奈の声には、少しだけ疲れがまじっていた。
「こうやって走ってるわけだからさ、せめて、たいいくけいのごきぶりにしてくれよ」
ちょっとだけ、間が空いた。走っている間は黙っておけ。そんな注意が頭の中に蘇って、つまりそういうわけなんだと思っていたところに、
「……ねえ、カイくんはさあ、」
美村香奈はそこで言葉を切ると、
「今何周目だっけ」
「えーと、三周め?」
腕時計にちらりと目をやる。
「じゃー。ちょっと、休憩ね」
徐々に徐々にペースをゆるめていって、止まるのをためらうかのようにぎこちなく、回し続けていた両足の裏を地面にぴったりとつけた。神社へ続く階段がある、暗い森の手前だった。
「……ふう。ってか、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
息絶え絶えの言葉にぼくはうなずく。美村香奈はまっすぐ、ほとんどにらむような目つきでぼくのことを見た。
「カイくんは、私がっ……、無駄なことしてると思ってる? さっき言ってた、たいいくけいのごきぶり、みたいにさっ」




