第10話 台本にない結末
宰相邸を出た朝、空気は春の匂いがした。
冬の間ずっと灰色だった王都の空に、薄い水色が差している。石畳に残った霜が朝日に溶けて、靴の裏がわずかに滑った。
私はエレオノーラ・フォン・シュヴァルツハイム。
いや——もう「フォン・シュヴァルツハイム」を名乗る必要があるのかどうか、わからない。婚約は解消された。父との関係は断たれた。宰相の娘という肩書きは、今日から意味を持たない。
荷物は小さな旅行鞄ひとつ。母の形見のショールと、着替えと、ナターリエに借りた本を二冊。それだけ。宰相邸に置いてきたものの方がずっと多い。ドレスも宝飾品も書斎の書類も——全部、あの家のものだ。
母の実家の領地に向かう。王都から馬車で三日の小さな領地。母の名義で残っていた土地。そこで何をするかは、まだ決めていない。
「考えたことがありません」
半年前、レオンに聞かれたときの自分の声を思い出した。
計画が終わったら何をするか。三年間、考えなかった。考える余裕がなかったのではない。考えたくなかったのだ。計画の先に何があるか想像すると、そこには——誰もいなかった。
◇◇◇
馬車に乗る前に、手紙のことを思い出した。
昨日、辺境伯領グリューネヴァルトから届いた手紙。レオンの実家だ。
中身は辺境伯——レオンの父親——からの書簡だった。「息子の婚約相手として、シュヴァルツハイム家のご令嬢をお招きしたい」。
レオンは知らないだろう。あの人の父親が勝手に送ったものだ。辺境の貴族は王都の貴族より率直だと聞いていたが、ここまで直截だとは思わなかった。
手紙を読んだとき、おかしなことが起きた。
頬が熱くなった。
宰相の娘として二十一年間培った冷静さが、辺境伯の一通の手紙で揺らいだ。馬鹿馬鹿しい。これは政略の一種だ。辺境伯が宰相家との繋がりを求めて——。
いや。違う。
宰相家との繋がりなら、もう意味がない。婚約は解消され、父との関係も断たれた。私には政治的な価値がない。辺境伯がそれを知らないはずがない。
では、なぜ。
答えは一つしかない。レオンだ。レオンが実家に何か言ったか、あるいはレオンの様子を見た父親が察したか——。
考えるのをやめた。計算で答えが出る問題ではない。
◇◇◇
同じ朝。辺境伯邸の裏口で、レオンは荷物を詰めていた。
——役目は終わったんだろう。
あの夜、エレオノーラが言った言葉が、一週間ずっと頭の中で回っている。
役目。偽装。計画。全部終わった。
終わったなら、俺はもうあの人の隣にいる理由がない。理由がない。合理的に考えれば、ない。
……だから何だ。
俺は合理的な人間じゃない。剣を振って、馬に乗って、辺境の野原で育った男だ。計算なんかできない。あの女みたいに三年先の盤面を読むことも、法律の穴を見つけることもできない。
でも。
あの人が肖像画の前で母親のショールを撫でていた指を覚えている。計画が崩壊した夜に初めて敬語が崩れた声を覚えている。「考えたことがありません」と小さく言った横顔を覚えている。
全部、台本にないことだ。台本にないことだけが、本物だった。
剣帯を腰に巻いた。旅装に着替えた。荷物は小さい。辺境の人間は荷物が少ない。
父が廊下ですれ違いざまに言った。
「行くのか」
「ああ」
「そうか」
それだけだった。辺境伯の男は揃って口下手だ。だが父は、俺が何をしに行くか、全部わかっている顔をしていた。
「役目じゃなく来る」——この台詞を、門の前まで歩く間に七回練習した。声に出すと照れるので、口の中で。
七回練習して、まだ耳が熱かった。
◇◇◇
馬車を待つ間、宰相邸の門の前に立っていた。
朝の日差しが石畳を温め始めている。門柱にはシュヴァルツハイムの紋章——鷲と百合——が刻まれている。この紋章を見るのも、これが最後だ。
足音が聞こえた。
石畳を踏む、重い足音。革靴ではない。軍靴だ。剣帯の金具がかちゃりと鳴る音。
振り返る前に、声が聞こえた。
「役目は終わったんだろう」
レオンの声だった。
門の前に立っていた。旅装だった。背中に荷物を背負い、腰に剣を佩いている。朝日が逆光になって、表情は見えなかった。
「——なら、今度は役目じゃなく来る」
足が止まった。
声が出なかった。何か言おうとして——何も出なかった。比喩も皮肉も計算も、全部消えていた。
「レオン」
名前を呼んだ。それだけで精一杯だった。
レオンが一歩近づいた。逆光から出て、顔が見えた。
耳が赤かった。二年半前、厨房で初めて会った日と同じように。
「お前さ」
レオンの声が少し震えていた。
「計画が全部終わったら何するかって、聞いたことあるだろ」
「……ええ」
「あのとき、考えたことがないって言っただろ」
「ええ」
「今は?」
私は——。
あの日からずっと考えていた。気づかないふりをしていただけだ。
計画が終わったら何をするか。答えはとっくに出ていた。出ていたのに、認められなかった。「計算の外」のものを認めることが、怖かった。
でも今、目の前にあの人が立っている。耳を赤くして、荷物を背負って、旅装で。台本にない姿で。
「考えた」
声が震えた。
「あなたのいる場所に行きたい」
レオンの目が見開かれた。一瞬固まって——それから、ぎゅっと唇を噛んだ。笑いたいのを堪えているような、泣きたいのを堪えているような顔。
「……そう来るか」
「何ですか、その反応は」
「いや、お前がそういう台詞を言うと思ってなかった」
「私だって思っていませんでした」
おかしかった。二人とも、自分が何を言っているのかわかっていないような顔をしていた。
レオンが手を差し出した。
あの手だ。夜会の練習で握りすぎた手。上着をかけてくれた手。馬車の扉を開けてくれた手。押し花を手袋に挟んでくれた手。
「水じゃなくて、手を出す」
第七話の夜——私が泣いたとき、この人は「水、飲むか」しか言えなかった。あのときの不器用さを、この人なりに乗り越えようとしている。
涙が出た。三年で二度目だ。
「また水しか出せないのかと思いました」
「……学習した」
笑った。泣きながら笑った。格好悪い。宰相の娘が——いや、もう宰相の娘ではない。ただのエレオノーラが、門の前で泣いて笑っている。
手を取った。
今度はレオンの力加減が——ちょうどよかった。強すぎず、弱すぎず。あの不器用な人が、加減を覚えていた。
「この台本に、あなたの涙だけ書けなかった」
私の声で、そう言った。計画を立てた三年間、あらゆることを計算した。法律も、証拠も、人の配置も。でもこの人の本気だけは、計算できなかった。
レオンは何も言わなかった。ただ手を握ったまま、耳を赤くしていた。
それでいい。この人は言葉がいらない人だ。
◇◇◇
辺境に向かう馬車の中で、案の定、私は道を間違えた。
母の実家に行くはずが、分かれ道で逆の方向を指示してしまった。御者が困った顔をする前に、隣のレオンが正しい道を示した。
「だから俺が来たんだろ」
「地図を描くのと使うのは——」
「別の能力、だろ。知ってる」
二年半前と同じやりとり。でも、同じ言葉の温度が全然違う。
窓の外を見た。王都を出ると、風景が変わる。麦畑。牧草地。石造りの農家。空が広い。
道端に、青い花が咲いていた。
小さな鈴の形。
「ブラウグロッケ」
レオンが窓の外を見て言った。
「辺境じゃ、どこにでも咲いてる」
「雑草ではないでしょう」
「……ああ。雑草じゃない」
レオンが私の手を見た。私がまだ握っている手を。今度は離さなかった。
窓の外で、ブラウグロッケが風に揺れている。その隣に、黄色い小さな花が一輪。
春告げ草だ。
冬が終わり、春が来ている。
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