第三十二話 後悔先に立たず
「お前、お前、お前ぇぇぇぇぇっ!」
鮮血に塗れた床、壁、自分、相手。あぁ、これは後の掃除が大変になるな、だなんて思っているこの時の自分は、いつの間にネジが落ちてしまったんだと。
俺は自分を嘲り笑い、妹にもそうしてもらおうと、そうされるべきなのだ。
義妹は、俺の中じゃ本当にかわいい自分の妹だ。今でもそう思ってる。腹違いだからと、血がきちんと繋がっていなくても。だから、こいつだけは許せなかったんだ。
義兄は、イデーの兄は、イデーが自分を本当の兄と知らないからと、他人ぶって彼女を連れ、────いや、兄だと明かして、城に連れて行って、身を売らせる気だったんだ。それを知って、いつの間にか俺は手を赤く染めていた。
鬼として、身売りに出せばどうなるかはしれている。欲求のはけ口だけじゃないだろう、きっと角を折られる。いたぶられる。
こいつだけは許せなかった。
「お前がやったことが、どれだけ馬鹿なことかわかっているのか──」
「────煩いっ! 私はイディを守る、そう決めたんだもの! 姉としての責務を全うして、何が悪いのよッ!」
「ふざけるなッ! お前とあいつは血なんて繋がっちゃいねえんだよ! 俺が兄だ、お前は一生姉だなんて口に出すんじゃねぇ!」
頭の中に、口の近くに、まだ振動が残ってる。イディの見開いた目に、視界に、俺が映っていないのも分かってたのに。
イディはすでに、こいつが本当の兄だと、俺はまがい物の姉なんだと知った後だった。それだけで、俺達の間柄はあんなにも歪むことになるだなんて、このときは思わなかったんだ。
「スペット…………なんで、兄さんを殺したの?」
「わ、わたしは。違うの、姉さんの話を聞いて…………兄さんは、あなたのことを悪い大人に渡そうとしていたのよ。だから、姉さんは……わたしは」
「いつも、皆から似てないって言われてたの! 兄さんの方が似てるって、そっちの方が似てて、兄弟に見えるって! スペット、僕の小さな幸せすら奪った嘘つきの、出来損ないの鬼!」
「……イディ、わたしは」
「死んでない、死んでないよ! 兄さんは死んでないの!」
「姉さんは、本当にイディを妹だと思ってたの。イディもそうでしょ────」
琥珀色の双眸が、濁って歪んで、俺を見据え、睨み、恨んでいる。首を締めて、ただひらすらに私を消そうとした。叫び続けた。
もはや、スペクターという人物は最初からいなかったのだと。
毎日のように、俺の首を締め、殴り、蹴られた。
「イディ?」
あるとき、イディが家に帰ってこなくなった。最近は茨の森の魔物も活発に動くようになっているから、外には極力出ないよう言われていたはずなのだ。特に、夜には禁止されていたのに。
イディを探そうと、俺は躍起になって外のそこらじゅうを駆け回った。
そして、誰もが予想できる結果に陥るわけだ。
「ぶ」
急に足の力が抜け、転びこんで地に伏す。
足を抉られたのだと気付くのに、時間はかからず、俺は歯を食い縛った。更に多くの魔物を呼ぶことになるのを避けようとしたからだ。
まどろむ視界の中、謝罪を一言思い浮かべれば、急に体が浮く。
「────」
「おー、こりゃまた派手に食ったな。ったく、アタシのテリトリーで何してるんだか」
「…………は」
「生きてたか。ショック死してなくてなにより。鬼は強いね、アンタ大丈夫か? いや、大丈夫じゃないか。ごめんごめん、すぐ終わらすよ」
足をタン、と地面に付けただけで、何匹も潜んでいた魔物が一気に雷鳴に貫かれる。そしてその光で、俺の視界に魔女の姿がはっきりと映りこんだ。
針の魔女、ペロネー。茨の花畑をテリトリーとする、姉貴肌な少女。
「妹を探してたのか。たしかに、ちょっと前に森の中に入ってった鬼の女の子は見かけたな」
「お願いします、行かせてください」
「そうは言ってもなぁ……んじゃ、アタシが着いてく」
鬼だからと、応急処置だけで俺は手当を中断させ、走る。ペロネーに先導してもらいながら、俺はイディの元に着いた。
イディも俺と同じように、魔物に襲われていた。今度は倍の魔物が囲んでいる。
「これ、使えよ。アタシにアンタの力を見せてくれ」
眼帯を掻きつつ、渡されたのは槍だった。それを握り、素早く動く。
殆どを殺したすぐ後に、俺とイディの首根っこを掴んでペロネーが駆け出した。撤退の二文字だけを短くこぼし、魔物達が目を見張る程速く走って村のすぐそこまで着く。
※ ※ ※
────そういや、ペロネーに認められて、水竜に付いてた鎖とかイディに付けられて。そこで決心ついて、兄さんになろうと奮闘したんだっけか?
「…………お」
身を起こした俺に、エンチーシスが勢い良く抱き着いてくる。周囲を確認すると、エリザが寝ているのが見えた。そして、状況を飲み込む。というより、理解する。
「アルブスは」
「……アルブスさんもスペクターさんも、かなり深手を負ってしまいました。でも、ミラジェイさんのことは撤退させるに落ち着いて、今はイデーさんの到着を待っています」
「イデーが来るの、皆も分かってたか」
「匂いがしたんだ……へへ、無事で良かったよ」
無事、か。
────連絡も寄越さずに放置して、出来損ないの鬼であり姉の俺に、イディはどんな言葉を? どんな態度でこられるだろうか。
「ふぅ……アルブスも無事で良かった。勿論、エンティもな」
十数分待って、イディの気配を感じて立ち上がる。俺の横で支えようと続くエンティに短く感謝を伝えつつ、イディの顔を見る。
「────スペット」
「よっ、イディ」
顔を引きつらせるな。少しでも私に戻るのはやめろ。期待はするな。俺は俺のままでいいんだ。俺のままでいれば、イディは俺を見てくれるはずだから。
捨てられたくない、捨てない、俺は。
イディが、俺の腕をつかんで引き寄せる。
首の鎖じゃない、腕を。
※ ※ ※
スペクターの瞳から、光が消えていく。
まるで、何か絶望の前触れを感じたかのように。イデーの顔をずっと見つめている。イデーは、少し目を潤わせて、スペクターを見上げた。
「────僕、もうひどいことしないから。……もう、否定しないから。責めないから。許してだなんて言えないけど、どうか……」
「イディ」
「……死なないで」
「…………」
「スペット?」
ピクリと反応し、スペクターは目を少し細めて、ゆっくりと笑みを作る。
「分かった分かった、{俺は死なねぇ。イディを残して、行くわけ無い}だろ?」
戻ろうぜ、とスペクターが明るく振る舞うのを、アルブスが耳を伏せて見ていた。
そしてエンチーシスに近寄り、囁く。アルブスの言葉に、彼は目を見開いて身震いする。彼女の心情の機微に、アルブスは不安と予感を抱く。




