夕暮れの下校路
夏の終わりでも告げるように、5時を回った空はほんのりと薄暮に染まっている。
昼間のじんわりとした蒸し暑さも消え、今はずいぶんと心地良い。いっそ肌寒いくらい。
アスファルトに伸びていく自分の影を眺めながら、私――柊由香子と、
幼馴染である岩岡祐介は夕暮れの下校路を並んで歩く。
私達はともに電車通学なので、部活動が終わった後はこうして駅まで一緒に帰ることが多い。校門を出るタイミングが偶然重なった時なんかは自然とそうなる。
ただなりゆきで、帰る方向がおんなじだから、別々に歩くのも変だから、「一緒に帰ろっか」とそうなる。そこになんの不自然さも無いはずだ。
本当は、こうなるようにいつもコッソリ待ち伏せているのだけれど。
……なのに。いつもは嬉しくて仕方が無いこの下校時間も、今日はなんだかもやもやと気分が晴れない。それはきっと祐介も同じ。表情を見れば分かる。
……原因は分かっている。昨日の部活動でのこと。
突然、早苗ちゃんという女の子を連れて来て。可愛いヒロインのイラストを描いてもらうはずが上手くいかなくて。結局「ごめんなさい」という言葉だけを残して彼女は去っていってしまった。
あの出来事が一日たった今でもどんよりとした曇天のように胸中を覆っている。
「早苗ちゃん、大丈夫かしら?」
沈黙が居たたまれなくて思わず零した言葉に、祐介は「さあな」とぶっきらぼうに答えるだけ。まあ、そりゃそうよね。そう答えるしかない。
だって、大丈夫かなんて本人にしか分かりっこないし、そもそも今の私達には、
彼女が今どこにいるのかすらも分かっていないのだから。
今日の放課後のことだ。漫研の部長さんが血相を変えて訪ねて来た。「奥村さんを知らない?」という要件だったけれど、当然早苗ちゃんとは昨日部室で別れたきり会っていない。
話を聞くと、どうやら早苗ちゃんは今日学校に来ていないのだという。しかし、いつも通りの時間に自宅は出ているらしく……つまり行方が知れない。
昨日の経緯を部長さんに伝えると、「そんなに思いつめていたなんて」と彼女は唇を噛んでいた。結局、何か分かったら連絡するとだけ伝えてお引き取り頂いたのだけれど、その後も執筆作業に集中することが出来ず、今日は早めに部活を切り上げることになった。
「……やっぱり昨日のことが原因なのよね?」
「だろうな」
「えっと……ショックのあまり世を儚んで……なんてないわよね?」
「おいおい縁起でもないこと言うなよ。絵については以前からやめようとは考えていたみたいだし、今更駄目だったぐらいでそこまで思いつめないだろ?」
「そう……そうよね。大丈夫よね?」
しつこいほどの確認の言葉に、祐介は曖昧に頷くだけ。
私だってこの考えが飛躍し過ぎていることなんて分かっている。
でも彼女が見せた実力は本物だった。
技術だけを表面的になぞったものとは違う、確かな基礎の上に積み上げられた実力であることが、素人の私にもすぐに分かった。あれだけのイラストを描けるようになるまで一体どれだけの労力と時間を費やしてきたのか。
それなのに彼女はいま、それだけ心血を注いできたもので挫折を味わい、諦めようとまで追い詰められたのだ。最悪の事態もありえるのではないか。そんな想いが頭の隅にこびりついて剥がれない。
(それなのに天津さんは――)
そう。そもそもこうなったのは我が文芸部の問題児、天津爾瑚が発端だったはずだ。
可愛いヒロインを書くために可愛いヒロインを描いてもらう、そんな馬鹿馬鹿しい思い付きに早苗ちゃんは巻き込まれ、更なる苦しみを味わうことになった。
なのに、あの子は昨日のことなんてもう忘れてしまったかのようだ。早苗ちゃんのことを話題に上げることもなく、部活動の終了とともにそそくさと帰ってしまった。
本当に無責任だと思う。自分勝手過ぎると思う。
祐介はどう思っているのだろうか。
私と同じように怒りを覚えているだろうか。
呆れているだろうか。
それとも――?
最近の祐介は良く分からない。表面上は天津さんに冷たくあたっているけれど、嫌っているのかと思えばそうでもない。「今から漫画研究部に頼みに行く」なんていう天津さんの我儘にも嫌々ながら付き合ってあげている。てっきり拒否すると思っていたのに。
本当はライトノベルの話をする相手となんて接点すら持ちたくないはずなのに。
――だって、あんなことがあったのだから。
前触れ無く蘇った昔の記憶に、意図せず眉間に力がこもってしまう。
と、その時だった。
「――おい、由香子」
ふいに声を掛けられ、思考の世界から引き戻される。
「え? な、なに?」
「ほらあそこ」
小声になっている祐介を怪訝に思いながらも、その視線を辿っていくと――
「ひいっ! なにあれ!」
「馬鹿、声が大きい!」
思わず口を手でふさぐけれど、本当は今すぐにでも叫び出したかった。
だって、私達から15メートルほど離れた先、電信柱の影に隠れているのは、
丈の長いトレンチコートを羽織った60代ぐらいの見知らぬおじさん、だった。
白髪交じりの茶髪と彫りの深い顔立ちは、恐らく日本人ではない。
年配者とは思えぬ体格の良さがコート越しにもハッキリと分かり、パッと見た印象は昨日早苗ちゃんが描いていたようなダンディズム溢れるおじ様。だけど、細い電柱に隠れながらこちらをチラチラと伺っている挙動不審さがその全てを台無しにしてしまっている。
――怪しい! 怪しすぎるでしょ!
明らかな不審者の登場に思わず周囲を見回すが、私達の他には誰もいない。
しまった。この辺りは住宅街ではあるものの、この時間帯は人通りが少ない。部活動の無い生徒は既に通り過ぎ、部活動がある生徒はまだ校内にいる。
いつもより早めに下校したのが裏目に出てしまった形だ。せめてこの先の大通りまで出れば人通りがあるのに。
視線を戻すと、不審者と目が合ってしまい、思わず悲鳴が漏れそうになった。
――い、いま、笑った、わよね。
瞳はきょろきょろと落ち着きないのに口元だけニンマリ笑みを浮かべた、わよねぇ?
なにあれ怪しい。怖い。気持ち悪い!
なにより前がぴったりと閉じられたトレンチコート……
……ま、まさか、あの下って――
「ね、ねえ祐介? あの下……」
「ああ……何も着ていない、かもな」
いやああああああああああああああああっ!
想像なんてしたくないけれど、思わず浮かんでしまったイメージ映像に全身が総毛だった。そんな汚らわしいものなんて見たくない。私が見たいのは祐介だけ。そうよ、見たいのは祐介の…………。……うへへ。
「お、おい由香子、大丈夫か? 怖いのは分かるがしっかりしろっ」
おおっといけない。少しだけトリップしていたみたい。
涎をぬぐいながら「問題ないわ」とだけ返しておく。
「どうする? 引き返すか?」
祐介の提案に首肯し、私達がゆっくりと振り返ろうとした――
その時だった。
「――っ! マ、マテエエエエエエエェェェェェ!」
突如、重厚なバリトンボイスを響かせながら、不審者の男が猛然と走り寄って来た。
ええええええええええええぇぇぇ!?
な、なんなの!? もしかして私達が逃げようとしているのを察して――
電柱の影から躍り出たその身体は予想以上に巨体で。ガッシリと引き締まっている身体からは、力では叶わない相手であろうことが容易に出来てしまう。
そんなのが良く分からないことを叫びながら猛然と駆け寄ってくるのだから怖いなんてものじゃない。しかも不審者! 変態! 露出狂おおおおおおお!
あまりの恐怖に足がすくみ、この場から今すぐに逃げ出したいという意思とは裏腹に、私の身体はピクリとも動いてくれない。い、いやあああああああああああああああああぁぁぁぁ!
「由香子おまえは逃げろ!」
私を庇うかのように前に出た祐介が、不審者を睨みながらそう叫んだ。
ーーその時の私の心境が、皆さんにはお分かり頂けるだろうか。
な、なにこれ! やばい! ちょーカッコイイんですけどぉぉぉぉ!?
内心興奮しながら「でも祐介は!?」と不安げに問いかけると、
「俺がここで食い止める!」
くっはああああああああああああぁぁぁぁぁ!
なにこれなにこれっ! やばいですよこれはっ!
そうなのよ。そうなんですよ。いつもは冷めてるくせに、こういう時には頼りになる奴なんですよ! わたし知ってましたっ!
映画のワンシーンみたいな展開に胸は高鳴り、頬は熱くなり、いっそクラクラしてくる。
「おい由香子どうした!」
「気を……失いそう……でふ……」
「まだ何もされてないのに!?」
いやいや十分されましたよお。胸にガツンと響くいい一撃もらっちゃいましたよお。一発KO右ストレート! 試合終了カンカンカーン! ってな感じですよおおおおおぉぉぉ!
頬を緩ませまくっている私を見て、本気で困惑の表情を浮かべる祐介。
――はっ。い、いけない。今は非常事態なのよ。いくらなんでも状況を弁えなさ過ぎでしょわたし!
なにより祐介に――空気の読めない馬鹿女――とだけは思われたくない!
私は小さく咳払いして気持ちを落ち着かせると、
どんな時でも余裕を失わないデキる女であることを証明すべく、
口元に手を添え、
あえての上から目線で、
告げた!
「お可愛いこと……」
「なにが!? 由香子様はなにさせたいんだよ!」
より驚愕の表情を浮かべる祐介。あ、あれ? なにかマズったかしら?
そんなことをしている間にも不審者との距離は縮まっていき、
「(由香子、お前は安全な場所まで逃げて――警察を呼んでくれ)」
その囁き声に込められた緊張感に、さすがに私もふざけている場合ではないと大きく頷く。やがて、ずしゃああ、という激しい足音を鳴らしながら私達の前で立ち止まる不審者。
「お、俺達になんの用だよ!?」
祐介が発した怒声を受け、男は口をパクパクと何度も開閉させる。
「ア……う……そ、その……アあ……あウあ……」
ひいいいっ!? やばい。これ本当にやばい。だってもう目つきがやばいもの。忙しなく眼球をギョロギョロを動かす姿はどう見てもまともな精神状態ではなく、話すら通じないかもしれない。
祐介も同じことを感じたのか、視線だけで私を振り返ると――小さく頷いた。
瞬間、胸が高鳴る。
その視線に込められているのは私への信頼だ。
頼んだぞ、とそう語りかけてくる眼差し。
私の中で真っ赤な炎が――凛――と燃え上がる。
や、やってやろうじゃないっ。
そうよ、私がやらなきゃ。私が祐介を助けなきゃ!
動きまわる不審者の視線が私達から逸れるタイミングを見計らい、祐介が叫ぶ。
「いけえええええ!」
その叫び声を置き去りにし、私は助けを呼ぶべく、来た道を全力で引き返した
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