第96話 透真の怒り
黒瀬透真は、ロロの初撃を読んだ。
以前より、ずっと見えていた。
浪華色街で初めて向き合った時、ロロの紅黒はほとんど悪夢だった。
殺意が見えたと思えば、攻撃は別の場所から来る。
危険を読んだ瞬間には、もう体が吹き飛ばされている。
嘘を探しても、嘘ではなく、その場の快楽で動いている。
だから、読めない。
いや、読んでも意味がなかった。
読みの外側で動かれる。
透明が構造を捉えた瞬間、ロロはその構造を遊びで崩す。
透真はあの時、普通に負けた。
何かを守ったわけでもない。
作戦勝ちしたわけでもない。
負けた事実を利用して、ミナトが情報を流し、相原たちの逃げ道に変えてくれただけだ。
自分自身は、ただ負けた。
その事実は、今も透真の中に残っている。
けれど、今は前より見える。
ロロの殺意が、どこに置かれているか。
攻撃の実線が、どこを通ろうとしているか。
黒が認識をどこへずらしているか。
紅がどの瞬間に跳ねるか。
以前より、分かる。
分かるのに。
透真の呼吸は、乱れていた。
◇
地下通路の空気は湿っていた。
湾岸倉庫街へ続く古い搬送路。
壁には錆びた配管が走り、天井の蛍光灯は半分ほど死んでいる。
床には薄く水が溜まり、ロロの足元だけが、妙に明るく見えた。
ロロは笑っている。
いつものように。
無邪気に。
人が壊れる瞬間を楽しみにしている子どものように。
「透明くん」
ロロは言った。
「今日は、前より綺麗に濁ってる」
透真は、答えなかった。
答えれば、声が荒れると分かっていた。
澪の未公開記録。
闇オークション。
透明認証。
真贋確認。
商品。
その単語が、頭の中で何度もぶつかっている。
澪が残したかもしれないもの。
姉が死ぬ前に、何を見て、何を恐れ、何を残そうとしたのか。
それを、誰かが売ろうとしている。
七曜会は管理のために欲しがる。
アルカディアは楽園設計のために使おうとする。
四大名家は色相管理に取り込もうとする。
浪華色街の残党は高値で転がそうとする。
誰も、澪を見ていない。
記録。
資料。
鍵。
商品。
名前を変えながら、同じことをしている。
死者の声に値段をつけている。
「どいてください」
透真は言った。
「やだ」
ロロは即答した。
軽い声だった。
「時間がないんです」
「知ってる」
「なら」
「だから楽しいんじゃん」
ロロは首を傾けた。
「君、急いでる。怒ってる。焦ってる。見えてるのに、ちゃんと見てない」
透真の奥歯が鳴った。
ロロは、それを見て嬉しそうに笑う。
「いいね。透明が濁ると、ちゃんと人間っぽい」
「……黙れ」
「あ、いい」
ロロの目が細くなる。
「今の声、すごくいい」
次の瞬間、ロロが踏み込んだ。
透真の鑑定が走る。
殺意は右。
攻撃は左。
紅は足元。
黒は肩口。
ロロの体は正面。
なら、本命は左からの打撃。
透真は右へずれた。
前回なら反応すらできなかった速度。
だが、今は避けられる。
そう思った瞬間、ロロの膝が腹に入った。
「っ、ぐ……!」
肺から空気が抜ける。
透真の体が壁に叩きつけられた。
読めていたはずだった。
殺意も、攻撃も、色の流れも。
なのに、外した。
ロロは笑う。
「早い」
透真は壁に手をつき、息を吸おうとする。
「前より見えてる。けど、決めるのが早い」
ロロは、ゆっくり近づいてくる。
「君、見えた瞬間に答えにしてる。急いでるから。怒ってるから。澪の記録が売られちゃうから」
「その名前を」
透真は顔を上げた。
「お前が、言うな」
「言うよ」
ロロは笑った。
「だって、それが一番濁るんでしょ」
透真の視界が狭くなる。
駄目だ。
分かっている。
ロロは煽っている。
怒りを引き出している。
読みを荒くさせようとしている。
それが分かっているのに、怒りは消えない。
澪の名前を、ロロが楽しそうに口にした。
それだけで、冷静でいられる自分の方が嫌だった。
透真は、壁を蹴った。
逃げるためではない。
ロロを抜くために。
この先へ行くために。
ロロの殺意は背後にずれる。
攻撃は正面に見える。
黒が視線を左へ引き、紅が右足に集まる。
なら、右から来る。
透真は左へ飛んだ。
だが、ロロは動かなかった。
ロロが動かないまま、透真だけが左へずれる。
そこへ、通路の壁に跳ね返った水滴が視界を塞いだ。
小さな一瞬。
その一瞬で、ロロは透真の足元にいた。
「二回目」
ロロの拳が、透真の胸に入る。
痛みが遅れて来た。
体が床を転がる。
地下通路の水が、頬に冷たい。
透真は咳き込む。
血の味がした。
「前より読めてるのにね」
ロロの声が降ってくる。
「前より間違えてる」
透真は床に手をつく。
立たなければ。
行かなければ。
この先に、澪の記録がある。
記録が売られる。
誰かが買う。
誰かが使う。
その前に。
「ほら」
ロロが言った。
「また、僕を見てない」
透真の動きが止まった。
ロロはしゃがみ込み、顔を覗き込む。
「君、僕を見てるようで、僕の後ろばっかり見てる。澪の記録のことばっかり考えてる。だから読みが薄い」
「……」
「前は弱かったけど、ちゃんと僕を見てたよ」
ロロは、本当に楽しそうだった。
「今日は違う。僕の向こうにある餌を見てる」
透真は何も言い返せなかった。
その通りだった。
ロロを鑑定している。
危険を読んでいる。
殺意のズレも、紅黒の揺れも、前より見えている。
だが、心はずっと通路の先にある。
闇オークション。
澪の記録。
透明認証。
売られる前に。
奪われる前に。
その焦りが、目の前のロロを薄くしている。
ロロは、それを見逃さない。
透真は、立ち上がろうとした。
その手を、ロロが踏んだ。
骨が軋む。
「っ……!」
「透明くん」
ロロは、明るく言う。
「君、今すごく人間だよ」
「何が」
「大事なものがあると、見えなくなる」
透真は歯を食いしばる。
痛みで、視界が白くなる。
それでも、意識の奥では鑑定が動いていた。
ロロではない。
通路の先。
オークション会場。
そこに置かれた、黒瀬澪の未公開記録断片。
直接見えているわけではない。
だが、透明認証という言葉に反応するように、細い糸のような違和感が伸びている。
透真だけを呼ぶように。
見つけて。
その祈りが、本物かどうかは分からない。
白老が作った物語かもしれない。
ミズチが加工した記憶かもしれない。
カラスマが値段をつけるための餌かもしれない。
それでも、そこには一部だけ、本物が混じっている気がした。
いや、気がしただけではない。
鑑定が、ひび割れるように表示を吐く。
対象:MIO-PRISM断片
嘘:これはただの商品である
危険:透明誘導
祈り:見つけて
状態:真贋混在
備考:感情反応過多。観測不安定。
真贋混在。
全部が本物ではない。
全部が偽物でもない。
混じっている。
透真は、ロロに踏まれた手を動かせないまま、奥歯を噛んだ。
怒りをぶつければ、またロロに読まれる。
焦れば、また判断を誤る。
けれど、ここで何もしなければ、澪の断片は商品として流れる。
透真は、痛みの中で息を整えようとした。
冷静にはなれない。
怒りは消えない。
だが、怒りをそのままロロへ向けるのをやめた。
ロロを倒すためではない。
会場へ走るためでもない。
ただ、記録を見るために。
守るために。
透明を、細く伸ばす。
地下通路の先。
分厚い壁の向こう。
非公開取引室。
黒いケース。
その中に、破損した記録断片がある。
オークションの参加者たちは、それを商品として見ている。
七曜会は管理対象として。
四大名家は制度資料として。
浪華色街の残党は転売品として。
アルカディアは物語の餌として。
透真だけが、そこに別のものを見る。
澪の声。
澪の思考。
澪が残そうとした継ぎ目。
透明認証は罠だ。
だが、罠だからこそ、透明へ通じる穴がある。
透真は、その穴へ鑑定を差し込んだ。
【透明認証要求】
【観測反応確認】
【対象:黒瀬透真】
【記録断片:一部反応】
【競売処理:部分停止】
遠くで警告音が鳴った。
会場のざわめきが、壁の向こうからかすかに伝わる。
透真には見えた。
記録断片の一部が、競売リストから外れる。
完全に奪ったわけではない。
持ち帰ったわけでもない。
会場にある記録の大部分は、まだそこにある。
だが、七秒にも満たない音声断片のうち、本物に近い一部だけが、透明認証によってロックされた。
商品として流れる前に。
誰かの所有物になる前に。
透真の観測が、そこへ楔を打った。
ほんの一部だけ。
それでも、守った。
「へえ」
ロロが足をどけた。
透真は床に倒れたまま、荒く息をする。
「今、何したの?」
透真は答えない。
答えられない。
ロロは、目を輝かせている。
「すごいね。怒ってたのに、そこだけ透明だった」
透真は、血の味を飲み込んだ。
「澪を」
声がかすれる。
「売らせない」
「全部は守れてないよ」
「一部は守った」
「それでいいの?」
「いいわけない」
ロロは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、もっと濁るね」
その言葉と同時に、ロロの気配が変わった。
遊びの熱が、少しだけ引いた。
代わりに、もっと鋭いものが来る。
透真の鑑定が警告を出す。
危険。
殺意。
接近。
ロロは、透真を壊して遊ぶだけではなくなった。
殺すつもりだ。
透真は動こうとした。
だが、体が動かない。
痛み。
疲労。
そして、記録断片に観測を差し込んだ反動。
ロロの手が、透真の首へ伸びる。
殺意は右に見える。
攻撃は左に見える。
紅は正面に跳ねる。
黒は背後へ回る。
全部がズレている。
見える。
見えるのに、もう避けられない。
ロロの指が、透真の喉へ届く。
その瞬間。
ロロの右腕が、いつの間にか斬れていた。
透真は、何が起きたのか分からなかった。
ロロも、一瞬だけ分からない顔をしていた。
斬られた腕が、床に落ちる。
血が遅れて噴き出す。
ロロは自分の腕を見て、それから通路の奥を見た。
そこに、一人の老人が立っていた。
痩せた体。
古びた服。
腰に下げた刀。
いつからいたのか分からない。
どうやって近づいたのかも分からない。
ただ、そこにいた。
ロロは、痛みより先に笑った。
「なに、今の」
老人は答えなかった。
透真は床に倒れたまま、その姿を見上げる。
敵か。
味方か。
なぜここにいるのか。
何者なのか。
何も分からない。
ただ一つだけ分かる。
ロロの腕は、いつの間にか斬れていた。
そして、その老人はまだ、刀を抜いたようにすら見えなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
透真とロロの再戦でした。
透真は、以前よりロロの紅黒を読めるようになっています。
けれど、澪の記録を餌にされた怒りで、読みを急ぎすぎました。
見えている。
でも、早く決めつける。
読めている。
でも、その読みを疑えない。
透明が濁ると、鑑定はむしろ危うくなる。
その結果、透真はまたロロに敗北しました。
ただし今回は、完全に何もできなかったわけではありません。
澪の記録の一部だけは、透明認証を逆に使って競売処理から外しました。
そしてロロが透真を殺そうとした瞬間、老人が現れました。
次回は、この老人が何者なのかが描かれます。
ロロは強い興味を持ち、透真はその異様さを目の当たりにしていきます。




