第95話 澪の記録、売られる
黒瀬透真は、その朝、二つの警告を受け取った。
一つは、灰原ナギからだった。
【透真】
【白老は、帰る扉のない楽園を作ろうとしてる】
【ミズチに、私の街の一部を取られた】
【澪の記録も、たぶん餌】
【来てほしい。でも、一人で来ないで】
【私は、装置になりたくない】
文章は短かった。
けれど、ナギが自分から外へ助けを求めてきたという事実だけで、透真は息を止めた。
ナギは、外へ出る存在ではない。
少なくとも、これまではそうだった。
彼女は休息街区にいて、誰かが来るのを待つ。
疲れた人を休ませる。
願望を見せる。
それでも帰る扉を残す。
そのナギが、助けを求めた。
しかも、白老という名前を出して。
ミズチに街の一部を取られた、と言って。
澪の記録も餌だ、と警告してきた。
透真は、端末を握りしめた。
指先が冷たくなる。
ナギの街に、アルカディアが触れた。
休息街区の構造を奪った。
帰る扉に関わる情報を持っていった。
それは、ただの侵入ではない。
ナギの救済を、白老の楽園設計に利用するための準備だ。
戻る道のある休息を。
戻る必要のない楽園へ変えるための。
透真は、ナギへ返信しようとした。
大丈夫か。
今どこまで侵食されている。
リアは無事か。
七曜会は何をしている。
ミズチは何を持っていった。
聞きたいことはいくつもあった。
だが、文章を打つ前に、もう一つの通知が届いた。
送信者は、鴉羽ミナト。
短い文面だった。
【澪の未公開記録が闇オークションに出る】
【罠】
【絶対に一人で動くな】
【俺も信用するな】
透真は、画面を見たまま動けなくなった。
澪の未公開記録。
闇オークション。
その二つの言葉が、頭の中で結びつかない。
いや、結びついてほしくなかった。
黒瀬澪の記録。
姉が遺したもの。
管理局に隠され、神楽坂も全ては知らず、アルカディアに一部を奪われ、白老の手元にあるかもしれないもの。
それが売られる。
商品として。
値段をつけられて。
欲しい者が競り落とすものとして。
透真の中で、何かが音を立てて冷えていった。
怒りは、熱いものだと思っていた。
だが違う。
本当に深い怒りは、冷たい。
手足から温度を奪い、視界を狭め、言葉を消す。
透真は、ミナトから続けて送られてきた情報を開いた。
【出品名:MIO-PRISM断片】
【形式:限定闇オークション】
【真贋確認:透明認証必須】
【出品者:匿名/アルカディア系経路濃厚】
【参加予定:七曜会関連監視線、四大名家代理、浪華色街残党代理、複数企業系情報屋】
【会場:非公開。経路解析中】
【繰り返す。罠。動くな】
透真は、最後の一文を見つめた。
動くな。
そう書いてある。
ミナトが、わざわざそう書いた。
ミナトは軽い。
いつも冗談みたいに話す。
肝心なところをごまかす。
けれど、本当に危ない時は短くなる。
余計な飾りを消す。
だから、この警告は本物だ。
罠。
動くな。
俺も信用するな。
透真は、端末を伏せた。
医療施設の個室は静かだった。
白い壁。
薬品の匂い。
簡易ベッド。
窓の外には、管理局の臨時施設の中庭が見える。
ここは安全な場所のはずだった。
少なくとも、外よりは。
七曜会の監視はある。
管理局の管理もある。
ロロのような相手が簡単に入ってこられる場所ではない。
佐伯ユズルも、近くにいる。
だからこそ、透真は分かっていた。
ここにいれば、自分は保護される。
同時に、遅れる。
誰かの判断を待つことになる。
佐伯に相談する。
管理局が確認する。
七曜会へ共有される。
危機評価が入る。
透明認証の扱いが議論される。
澪の記録が、本当に澪のものか調べられる。
その間に、オークションは進む。
澪の記録に値段がつく。
誰かが落札する。
七曜会なら管理するために。
アルカディアなら楽園設計を完成させるために。
四大名家なら色相血統管理へ利用するために。
浪華色街の残党なら高額転売のために。
目的は違う。
だが、やることは同じだ。
澪の記録を、自分たちのものにする。
透真は、立ち上がった。
背中が痛んだ。
ロロに叩き落とされた痛みは、まだ完全には消えていない。
体は重い。
頭も、まともに働いているとは言い難い。
それでも、座っている方が無理だった。
「……売るなよ」
声が漏れた。
「澪を、売るな」
◇
佐伯ユズルは、透真の様子がおかしいことに気づいていた。
扉が開く前から、透真には分かっていた。
廊下の足音。
端末を確認する間。
息を整える気配。
佐伯は、急いでいる。
けれど、焦っていると見せないようにしている。
扉がノックされた。
「黒瀬くん」
「はい」
「入ります」
佐伯が入ってくる。
顔色が悪い。
手には端末。
そして、その画面にはミナトからの情報と同じ単語が映っていた。
MIO-PRISM断片。
闇オークション。
透明認証。
透真は、佐伯が何を言うか分かっていた。
「知っています」
先に言った。
佐伯の表情がわずかに変わる。
「誰から」
「ナギと、ミナトさんから」
「ナギさんも?」
「白老とミズチが動いています。ナギの街の一部も取られた」
佐伯は目を伏せた。
「繋がりましたか」
「繋がってます」
透真は言った。
「澪の記録を売る。ナギの帰還扉を解析する。七曜会は揺れてる。火野さんが死んだ。日向さんの白が揺れた。白老は物語を流し込みやすくなった」
「黒瀬くん」
「はい」
「一人で動かないでください」
透真は佐伯を見る。
その言葉は、命令ではない。
お願いに近かった。
佐伯は、七曜会とは違う。
危険だから拘束する、とは言わない。
管理対象だから保護する、とは言わない。
それでも、止めようとしている。
「動かないと、どうなりますか」
透真は聞いた。
「管理局で確認します」
「確認してる間に売られたら?」
「七曜会にも共有して、オークション会場を特定します」
「七曜会が先に確保したら?」
「交渉します」
「アルカディアが持っていったら?」
佐伯は答えなかった。
透真は、少しだけ笑った。
笑ったつもりだった。
でも、たぶん笑えていなかった。
「澪の記録なんです」
「分かっています」
「分かってない」
言ってから、自分でもきつい言い方だと思った。
だが、止められなかった。
「佐伯さんが悪いって言ってるわけじゃない。でも、分かるわけないんです。澪の記録が売られるって、俺にとってどういうことか」
「黒瀬くん」
「澪は死にました。記録は隠されました。理由も、全部は知らされていない。管理局は隠した。アルカディアは利用した。神楽坂さんは背負った。七曜会は今なら管理したがる。四大名家は色相の血統とか制度に使う」
透真の声は震えていた。
「今度は売られるんですか」
佐伯は何も言えなかった。
「澪が見たものも、考えたことも、残そうとしたものも、全部、誰かが値段をつけて買うんですか」
「それを止めるために、こちらも動きます」
「遅い」
透真は即答した。
佐伯の顔が苦しくなる。
それでも言葉は止まらなかった。
「遅いんです。管理局はいつも遅い。遅くても必要なのは分かってます。手続きがないと駄目なのも分かってます。でも、今回は待てない」
「待てないと思わせるための罠です」
「分かっています」
「ロロがいる可能性もあります」
「分かっています」
「白老は、あなたが動くことまで読んでいる」
「分かっています」
「なら」
「それでも行く」
部屋が静まり返った。
佐伯は、透真をまっすぐ見た。
怒ってはいない。
失望もしていない。
ただ、どう止めればいいか考えている顔だった。
「黒瀬くん」
「はい」
「澪さんが、あなたに一人で死にに行ってほしいと思いますか」
その言葉は刺さった。
透真の胸の奥を、正確に刺した。
澪ならどう思うか。
澪なら、止めるだろう。
危ないから行くなと言う。
自分の記録のために死ぬなと言う。
誰かに相談しろと言う。
それは分かっている。
分かっているのに、透真は言った。
「澪なら、記録を誰かに全部渡すなって言うと思います」
佐伯の表情が変わった。
透真は続ける。
「まだ聞いたわけじゃない。でも、そう思う。だから、俺が見に行く」
「見るだけで済む相手ではありません」
「分かっています」
「あなたは怒っている」
「はい」
「怒っている時の鑑定は、危うい」
「分かっています」
「本当に分かっていますか」
透真は答えなかった。
分かっている。
だが、分かっていても止まれない。
それが一番危険なのだと、頭のどこかでは理解していた。
佐伯は、端末を操作した。
「ミナトさんに接続します」
「待ってください」
「待ちません」
佐伯は珍しく強く言った。
「あなたが行くと言うなら、最低限、単独行動は避けます」
その時だった。
透真の端末が震えた。
送信者は、ミナト。
【会場、割れた】
【送る】
【ただし行くな】
【俺が行く】
【お前は佐伯の横にいろ】
位置情報が添付されている。
都内湾岸部。
古い国際物流倉庫を改装した、会員制オークション会場。
表向きは希少探索品の非公開取引会。
裏では、記録媒体、違法契約書、能力者ログ、ダンジョン内死亡映像まで扱う闇市場。
透真は、その位置情報を見た。
佐伯も見た。
次の瞬間、佐伯が言った。
「こちらで部隊を」
「間に合いません」
「黒瀬くん」
「間に合わない」
透真は、位置情報を保存した。
佐伯が動く。
端末制限をかけようとしたのだろう。
だが、その前に、透真の鑑定が勝手に表示を吐いた。
対象:MIO-PRISM断片
嘘:これはただの商品である
危険:透明誘導
祈り:見つけて
色相:透明/紫/黒/白
備考:真贋未確定。感情反応過多。単独接触危険。
祈り。
見つけて。
その表示を見た瞬間、透真の判断は折れた。
罠だ。
分かっている。
偽物かもしれない。
アルカディアが作った祈りかもしれない。
澪のものではないかもしれない。
それでも、見つけて、という祈りが表示された。
透真は、もう座っていられなかった。
◇
会場には、さまざまな人間が集まっていた。
透真はまだそこにいない。
だが、情報は流れている。
七曜会の監視線は、すでに外側を押さえ始めていた。
水城リョウが契約経路を確認し、金剛サクヤが取引権限の流れを追う。
日向アキラは直接動いていない。
火野ガクの死後、七曜会はまだ完全には立て直せていない。
それでも、澪の記録が出るとなれば放置はできない。
七曜会にとって、透明と紫は危険すぎる。
管理しなければならない。
澪の記録が透明能力の構造に触れているなら、なおさら。
アルカディア残党側は、表には出ていない。
だが、出品経路そのものが彼らの影だった。
白老の楽園設計。
ミズチの記憶処理。
カラスマの情報工作。
彼らは記録をただ売りたいわけではない。
記録を欲しがる者たちを、同じ場所へ集めたい。
透真を動かしたい。
七曜会を動かしたい。
ミナトを揺らしたい。
澪の記録を、物語の中心に置きたい。
四大名家の代理人も来ていた。
白鷺家は白と透明の関係に興味を持つ。
黒宮家は記録の流通経路とカラスマの影を追う。
九条家は記録が財団やセイラへ与える影響を警戒する。
翠川家は相原ユウの翠との関連を探る。
彼らにとって、澪の記録は死者の遺品ではない。
色相能力の制度化に使える資料だった。
血統。
管理。
承認。
支援。
治療。
研究。
どの言葉を使っても、根は同じだ。
色を持つ者を、どう扱うか。
浪華色街の残党代理も紛れ込んでいた。
彼らは一番単純だった。
高く売れるものを買う。
買えなければ盗む。
盗めなければ情報だけ抜く。
澪の記録が本物なら、どこかの組織が必ず高額で買う。
透明認証が必要なら、透明本人を連れてくればいい。
その程度の認識だった。
誰も、黒瀬澪という人間を見ていない。
記録。
資料。
鍵。
商品。
交渉材料。
それぞれが、別々の名前で澪を呼んでいる。
そのどれもが、透真には許せなかった。
◇
ミナトは会場近くの高架下にいた。
端末を片手に、複数の監視網を切り替えている。
自分が送った位置情報を、透真が見たことは分かっていた。
佐伯にも渡った。
管理局が動く。
七曜会も動く。
それでいい。
本来なら、それで透真の単独行動は防げるはずだった。
だが、ミナトは自分の判断の甘さを分かっていた。
透真は来る。
止めても来る。
いや、止めたから来る可能性すらある。
澪の記録。
透明認証。
祈り。
そのどれか一つでもあれば、透真は動く。
それを分かっていて、情報を送った。
送らなければ、透真は遅れる。
送れば、透真は来る。
どちらも間違いだ。
だから、ミナトは最悪の中でまだ逃げ道が残る方を選んだ。
「ほんと、嫌な教材だよ」
ミナトは呟く。
カラスマの顔が浮かぶ。
透真を売れ。
澪の記録を渡す。
あの取引は、まだ終わっていない。
ミナトは断っていない。
断らなかった。
その事実が、自分でも気持ち悪い。
端末が震える。
佐伯から。
【透真くんが部屋から消えました】
ミナトは目を閉じた。
「……やっぱり」
最悪。
だが、想定内。
ミナトはすぐに別回線を開く。
【黒瀬透真、単独行動開始】
【推定経路:湾岸線地下通路】
【目的地:オークション会場】
この情報を誰に流すか。
佐伯にはもう流れている。
七曜会にも、時間の問題で捕捉される。
カラスマには流さない。
ロロにも流していない。
だが。
ロロは情報を買う相手ではない。
面白い場所へ、勝手に来る。
ミナトは、画面を睨んだ。
「頼むから、今だけは来るなよ」
◇
透真は一人で歩いていた。
地下通路。
湾岸倉庫街へ続く、古い搬送路。
正規の道ではない。
ミナトの情報網に残っていた、使われなくなった業務通路だ。
管理局の車を使えば止められる。
七曜会の監視網を通れば捕まる。
だから、透真は一人で抜けた。
自分でも馬鹿だと思う。
ナギは、一人で来ないでと言った。
ミナトも、動くなと言った。
佐伯も止めた。
たぶん、リアが知れば怒る。
セイラは呆れる。
カナタは、最悪の契約だと言う。
神楽坂なら、止めるだろう。
それでも、足は止まらない。
透真の中にあるのは、正義ではない。
冷静な判断でもない。
怒りだ。
澪の記録を売るな。
澪を、商品にするな。
それだけだった。
鑑定は何度も警告を出している。
危険。
透明誘導。
感情反応過多。
単独接触危険。
分かっている。
だが、表示はもう、透真を止めるものではなくなっていた。
むしろ、急がせていた。
危険なら、なおさら。
誘導なら、なおさら。
澪の記録がそこにあるなら、なおさら。
地下通路の先に、薄い明かりが見える。
出口。
その向こうに、オークション会場がある。
透真は足を速めた。
その時、通路の奥から拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
軽い音。
楽しそうな音。
透真の背筋が冷えた。
この音を、知っている。
「やっぱり来た」
暗がりの先に、ロロがいた。
壁にもたれ、片手を上げている。
まるで待ち合わせに少し遅れた友人を迎えるような顔。
笑っている。
無邪気に。
最悪に。
「透明くん」
ロロは言った。
「今日は、前より綺麗に濁ってる」
透真は息を止めた。
ロロ。
紅黒。
火野ガクを殺した男。
透真を一度、普通に負かした男。
相原をさらい、浪華色街へ連れていった災害。
どうしてここにいる。
誰が情報を流した。
カラスマか。
白老か。
ミナトか。
それとも、ロロ自身が嗅ぎつけたのか。
考えるべきことはいくつもある。
だが、透真の中で一番強かったのは、別の感情だった。
邪魔だ。
ロロが笑う。
「その顔、いいね」
透真の鑑定が走る。
対象:ロロ
嘘:待っていただけ
危険:紅黒接近
祈り:もっと壊れて
色相:紅黒
備考:攻撃軌道と殺意の位置が一致しない。感情反応により読み精度低下。
前より見える。
ロロの紅黒のズレ。
殺意と攻撃軌道の分離。
嘘ではなく、快楽で動く危険。
分かる。
前より読める。
なのに、透真の呼吸は荒い。
怒りが邪魔をする。
澪の記録が売られる。
その会場が、この先にある。
その前に、ロロがいる。
透真は、足を止めなかった。
「どいてください」
ロロは笑った。
「やだ」
短い返事。
それだけで、戦いは始まった。
透真は、鑑定表示を睨む。
殺意は右。
攻撃は左。
紅は前。
黒は後ろ。
読む。
今度は読む。
前とは違う。
そう思った瞬間、ロロが嬉しそうに言った。
「急いでるね」
透真の足元で、赤黒い影が跳ねた。
「怒ってる透明、すごく見やすいよ」
次の瞬間、ロロの姿が消えた。
透真は、初撃の軌道を読んだ。
読んだ。
だが、判断が早すぎた。
怒りで、読みを確定させるのが早すぎた。
ロロの笑い声だけが、通路に響いた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
澪の未公開記録が、ついに闇オークションへ出品されました。
七曜会は、透明と紫の危険性を管理するため。
アルカディアは、楽園設計を完成させるため。
四大名家は、色相血統管理へ利用するため。
浪華色街の代理人は、高額転売のため。
それぞれ目的は違いますが、澪の記録を「何かに使うもの」として見ている点では同じです。
そして透真は、それに耐えられませんでした。
ナギからの警告。
ミナトからの情報。
佐伯の制止。
全部あったのに、透真は単独で動いてしまいました。
次回は、透真とロロの再戦です。
透真は以前よりロロの紅黒を読めるようになっています。けれど、澪の記録を餌にされた怒りで判断を急ぎ、また敗北します。
ただし今回は、澪の記録の一部だけは守ります。
そしてロロが透真を殺そうとした瞬間、爺刀が現れます。




