第68話 相原ユウの翠
第三層での撤退訓練は、思っていたより地味だった。
魔物を倒すわけではない。
深い階層へ挑むわけでもない。
ただ、決めた地点まで進み、危険を確認し、合図を出して、決めた退避地点まで戻る。
それだけ。
それだけなのに、相原ユウは最初から喉が乾いていた。
「ユウ、顔が硬いぞ」
リーダーの石動レンが振り返って言った。
「す、すみません」
「謝るところじゃない。硬いなら硬いって言え」
「……硬いです」
「よし」
何がよしなのか、相原には分からなかった。
けれど、少なくとも昨日までとは少し違った。
今までは、怖いと言えば足を引っ張る気がした。
慎重すぎると言われれば、自分が弱いだけのように思えた。
だから、何でもないふりをした。
でも今日は違う。
怖いなら怖いと言う。
危ないと思ったら合図を出す。
それが訓練の目的だった。
相原は、左手に小型記録端末を持ち、右手で腰の短剣に触れた。
短剣は、ほとんどお守りみたいなものだ。
実戦でうまく使えたことはない。
魔物が近づいてきた時、短剣を抜く前に体が固まったこともある。
それでも、持っていないともっと不安だった。
第三層の通路は、低ランク探索者向けの訓練場所としてよく使われる。
壁は灰色の石材で、ところどころに管理局の補修跡がある。
天井は低く、足音が反響しやすい。
魔物の出現数は少なく、危険度も高くない。
それでも、相原にとっては十分怖かった。
先頭は盾役の熊谷ダイチ。
その後ろに石動。
中央に相原。
最後尾に弓使いの高峰サナ。
昨日、黒瀬透真と一緒に決めた配置だった。
相原は前衛ではない。
後方観察と記録補助。
魔物の癖。
通路の変化。
退避地点。
仲間の状態。
それを見る役割。
戦わない役割。
最初に聞いた時、相原は少しだけ情けないと思った。
でも、黒瀬は言った。
戦うだけが役割じゃありません。
その言葉が、頭の中に残っている。
外れスキルと呼ばれた鑑定士が言うと、変に重かった。
「第一退避地点、B-2まで進む」
石動が言った。
「ユウ、記録」
「はい。現在、第三層入口から八十メートル。前方、分岐なし。足音反響、強め。視界、良好」
言葉にすると、少しだけ落ち着いた。
怖いものを怖いままにしておくと、どんどん大きくなる。
でも、名前をつけると少し小さくなる。
足音。
視界。
分岐。
退避地点。
ひとつずつ確認する。
それだけで、相原の中の恐怖は輪郭を持った。
高峰が後ろから言った。
「ユウくん、いい感じ」
「本当ですか?」
「うん。私、最初そんなに見れてなかったよ」
お世辞かもしれない。
でも、相原は少しだけ嬉しかった。
その時、通路の奥から、かすかな音がした。
かり、と石を掻くような音。
相原は足を止めた。
熊谷も止まる。
「聞こえたか」
「はい」
相原は耳を澄ませた。
また、かり、と音がする。
魔物だ。
たぶん、低ランクの爪鼠。
小型で素早いが、一体なら危険度は低い。
ただし、群れで来ると厄介。
相原は端末に記録する。
「前方、爪鼠らしき音。一体……たぶん一体です」
石動が頷く。
「ダイチ、前へ。サナ、援護準備」
「了解」
熊谷が盾を構え、前へ出る。
相原はその後ろで、通路の奥を見た。
影が走る。
小さい。
速い。
爪鼠が一体、壁際を這うように近づいてくる。
熊谷が盾を出す。
石動が剣を抜く。
高峰が矢を番える。
訓練通り。
大丈夫。
そう思った瞬間、相原の足元で小石が転がった。
ほんの小さな音。
爪鼠の動きが変わった。
壁際から、天井へ跳ぶ。
「あ」
相原は声を出すのが遅れた。
爪鼠は天井を蹴り、熊谷の盾を越えた。
石動が反応する。
しかし、剣の角度が合わない。
高峰の矢は、味方に当たる危険があって撃てない。
爪鼠は相原の顔面へ飛び込んできた。
体が固まる。
短剣を抜け。
避けろ。
声を出せ。
どれも間に合わない。
爪が目の前に迫る。
「ユウ!」
石動の声。
次の瞬間、熊谷の大きな手が相原の肩を掴み、後ろへ引いた。
爪鼠の爪が相原の頬を掠める。
熱い痛み。
高峰の矢が飛び、爪鼠を壁に縫い止めた。
静寂。
相原は、息ができなかった。
「ユウ、大丈夫か!」
石動が駆け寄る。
相原は頬に手を当てた。
指に血がつく。
浅い。
浅い傷だ。
でも、心臓が痛いくらい鳴っている。
「すみません」
口から出たのは、それだった。
「すみません、俺、反応できなくて」
高峰がすぐに言う。
「謝らなくていい。傷見せて」
「でも、俺が音に気づいたのに、ちゃんと言えなくて」
「ユウ」
石動の声が少し強くなった。
相原は肩を震わせた。
怒られる。
やっぱり使えないと思われる。
そう思った。
でも、石動は言った。
「止まるぞ」
「え」
「撤退条件。負傷者が出たら撤退。浅くても負傷は負傷だ」
相原は言葉を失った。
「でも、これくらい」
「これくらい、で続ける練習じゃない。戻る練習だ」
熊谷が短く言った。
高峰も頷く。
「そうそう。今日は戻る練習。ユウくんが悪いんじゃなくて、私たち全員で一回失敗したってこと」
「全員で……」
相原は呟いた。
自分だけの失敗だと思っていた。
音に気づいたのに、言えなかった。
動けなかった。
足を引っ張った。
でも、石動たちは「全員で失敗した」と言った。
「戻る。B-2じゃなくて入口まで」
石動が指示を出す。
「ユウ、記録できるか?」
相原は慌てて頷いた。
「できます」
「じゃあ、今の失敗を記録しろ。爪鼠は足元の音に反応して天井へ移動。熊谷の盾を越えた。次に同じ状況があったら、どうする?」
次に同じ状況があったら。
その言葉に、相原の中で何かが動いた。
怖い。
痛い。
失敗した。
でも、次。
次がある。
相原は震える指で端末に打ち込んだ。
「足元の小石、音に反応。爪鼠、天井経由で盾を越える可能性。対策……盾役は上方向警戒。観察役は天井移動を即時報告。弓は射線確保のため、後方右側へ位置取り」
高峰が少し笑った。
「いいね。次は私、右に寄る」
石動も頷く。
「俺は盾を越えた後の迎撃に構える」
熊谷が言う。
「盾を少し上げる」
相原は頷いた。
まだ怖い。
でも、頭が動き始めていた。
戻りながら、相原は何度も今の場面を思い返した。
小石の音。
爪鼠の反応。
天井へ跳ぶ角度。
熊谷の盾の高さ。
石動の剣の位置。
高峰の射線。
怖かった映像が、少しずつ手順に変わっていく。
失敗が、ただの失敗ではなくなる。
次にどうするか。
その形になっていく。
入口まで戻ると、相原はようやく息を吐いた。
頬の傷には簡易処置がされた。
たいした怪我ではない。
でも、心はまだざわついていた。
「今日はここまでにするか?」
石動が聞いた。
優しい声だった。
以前なら、相原はその優しさに甘えたかもしれない。
いや、逆に「大丈夫です」と無理をしたかもしれない。
でも今は、少し違った。
相原は自分の手元の記録を見た。
失敗。
対策。
次。
「もう一回だけ、同じルートをやりたいです」
自分の声に、自分で驚いた。
石動たちも少し驚いた顔をする。
「無理してないか?」
「無理はしてます」
相原は正直に言った。
「でも、今なら覚えてます。さっきの失敗を。忘れる前に、もう一回やりたいです」
高峰が石動を見る。
熊谷も黙って頷いた。
石動は少し考えた後、言った。
「分かった。ただし、入口からB-2まで。負傷したら即撤退。二回危険を言ったら止まる」
「はい」
相原は頷いた。
二回目。
同じ第三層の通路。
同じ灰色の壁。
同じ反響する足音。
でも、相原の見え方は少し変わっていた。
一度目は、ただ怖かった。
二度目は、怖さの中に形があった。
この角を曲がると、足音が強く反響する。
この床の小石は踏むと音が出る。
この通路幅なら、高峰の射線は右後方がいい。
熊谷の盾は正面だけでなく上も意識する。
「現在、入口から七十メートル。前方、爪鼠の音の可能性」
相原は言った。
今度は早かった。
石動が低く返す。
「了解」
「足元の小石、踏まないでください。音に反応して天井へ移動する可能性があります」
熊谷が一歩、足の置き場を変えた。
「了解」
高峰が右後方へ移動する。
「射線取ったよ」
影が走る。
爪鼠。
同じだ。
壁際を這うように来る。
相原の心臓が跳ねる。
怖い。
でも、見える。
「天井、来ます!」
声が出た。
爪鼠が跳ぶ。
熊谷が盾を少し上げる。
完全には防げない。
だが、軌道がずれた。
石動の剣が、そのズレた先に置かれている。
爪鼠は自分から刃に飛び込む形になった。
高峰の矢が追撃する。
爪鼠は床に落ち、動かなくなった。
相原は、息を止めていた。
倒したのは石動と高峰だ。
相原ではない。
相原は短剣すら抜いていない。
それでも、今の戦闘に自分が関わったことは分かった。
「ユウ」
石動が振り返る。
「今の、助かった」
相原は何も言えなかった。
助かった。
自分が。
役に立った。
高峰が笑う。
「ほらね。観察役、向いてるじゃん」
熊谷も短く言う。
「次も同じように言え」
相原は、ようやく頷いた。
「はい」
その時だった。
相原の指先に、淡い光が滲んだ。
翠色。
若葉のような、静かな色。
だが本人には見えていない。
ただ、端末の画面が一瞬だけ乱れた。
記録映像に、薄い緑のノイズが走る。
「今、何か……」
相原は端末を見た。
高峰が覗き込む。
「映像乱れた?」
「たぶん」
石動が眉をひそめる。
「ダンジョン内だし、たまにあるだろ」
相原もそう思おうとした。
でも、どこか引っかかった。
さっきの瞬間。
一度失敗した場面が、頭の中で手順に変わっていた。
どう動けばいいか。
誰に何を言えばいいか。
何を見ればいいか。
自分でも驚くくらい、はっきりしていた。
偶然。
たぶん偶然。
でも。
「ユウ、どうする?」
石動が聞いた。
「B-2まで進むか?」
相原は頬の傷に触れた。
少し痛む。
怖さも残っている。
でも、戻る条件はある。
止まる合図もある。
そして、次に同じことが起きたら、たぶん前より少しだけ動ける。
「進みます」
相原は言った。
「ただ、B-2で一度戻る判断をしたいです」
石動は笑った。
「了解。観察役の判断を採用する」
観察役。
その言葉が、少しだけ胸に残った。
前衛ではない。
強い攻撃役でもない。
でも、役割がある。
B-2までは、予定通り進めた。
途中で小型魔物が一体出たが、今度は危なげなく対処できた。
相原は戦っていない。
ただ、見て、伝え、記録した。
でも、石動たちはその情報を使った。
B-2に着くと、石動が言った。
「ここで一度戻る判断だな」
相原は地図と記録を見比べた。
残り時間。
魔物の出現数。
自分の集中力。
頬の傷。
高峰の矢の残数。
熊谷の盾の傷。
全部を見る。
「戻りたいです」
相原は言った。
少し緊張した。
でも、石動はすぐに頷いた。
「よし。戻る」
それだけだった。
責められない。
呆れられない。
置いていかれない。
ただ、戻る。
その当たり前が、相原には少しだけ眩しかった。
入口へ戻る途中、相原は何度も背後を振り返った。
魔物が追ってくるわけではない。
ただ、自分がちゃんと戻れていることを確認したかった。
ダンジョンの入口を出た瞬間、相原は膝から力が抜けそうになった。
石動が肩を叩く。
「初回撤退訓練、終了」
高峰が笑う。
「お疲れさま」
熊谷が言う。
「記録を黒瀬に送れ」
「あ、はい」
相原は端末を開いた。
黒瀬透真へ、訓練記録を送る。
『第三層撤退訓練、終了しました。第六層は延期になりました。観察役として参加しました。爪鼠の動きを一度失敗して、二度目で対応できました』
送ってから、少しだけ迷った。
そして追加する。
『映像に、緑っぽいノイズがありました。関係あるか分かりません』
送信。
すぐに既読はつかなかった。
相原は端末をしまった。
その時、施設の隅にいた男が、こちらを見ていた。
帽子を深くかぶり、作業員のような服を着ている。
管理局職員にも見える。
ただの通行人にも見える。
男は、相原たちがこちらを見る前に、視線を外した。
その手元には、小型の記録端末がある。
相原の端末に走った緑のノイズ。
同じタイミングで、男の端末にも淡い翠の波形が記録されていた。
男は小さく呟く。
「確認。翠、未成熟。成長傾向あり」
その声は、誰にも届かなかった。
男はすぐに通信を切り替える。
「対象、想定より早く適応しています」
通話の向こうから、低い声が返る。
『確保は?』
「今は護衛がいます。黒瀬透真との接点も確認済み」
『なら、焦るな。翠は育つほど価値が上がる』
男は短く返事をした。
相原は、その会話に気づかない。
石動たちと一緒に、訓練後の反省をしている。
怖かったこと。
言えたこと。
言えなかったこと。
二度目にできたこと。
次に試すこと。
その全部を、一つずつ記録している。
自分が誰かに見られているとも知らずに。
相原ユウは、初めて失敗をただの失敗で終わらせなかった。
その小さな成長は、仲間たちにとっては喜ばしいものだった。
黒瀬透真にとっても、おそらくそうだろう。
だが、別の誰かにとっては違う。
翠は、育つ。
そして育つものは、狙われる。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、相原ユウ視点の回でした。
第65話で出てきた「翠」の兆し。
今回はそれが、撤退訓練の中で少しだけ形になりました。
相原は強い探索者ではありません。
前衛で魔物を倒せるわけでもなく、派手な攻撃能力があるわけでもありません。
それでも、一度失敗した状況を記録し、二度目に手順へ変えることができる。
それが彼の小さな強さです。
今回の訓練では、相原だけでなく、石動たち先輩パーティーも少し変わりました。
「怖いなら来なくていい」ではなく、怖いまま進むために、戻る条件を作る。
ただし、相原の翠はすでに誰かに観測されています。
成長する力は、味方にとっては希望ですが、敵にとっては価値のある対象でもあります。
ここから少しずつ、色を巡る動きが表へ出てきます。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマークと評価で応援していただけると嬉しいです。




