第14話 お父様は理屈で囲ってまいります
翌日の午後、エウフェミアは屋敷の書庫へ向かいながら、小さく息を吐いていた。
お父様が書庫へ呼ぶ。
この時点で、だいぶ珍しい。
ヴィクトル公爵は普段、娘を愛してはいるが、母のように細やかに言葉を交わす方ではない。だからこそ、こうして個別に時間を取る時は、たいてい何か意図がある。
しかも最近は、家族全体がじわじわと
「婚約者としてのエウフェミア」
を固めにきている気配がある。
お母様はやわらかく核心へ寄せてくる。
お父様は、おそらくもっと直線的だ。
気をつけなければならない。
今日の目標はひとつ。
王妃向きではなく、静かな立場を好むと、それとなく伝えること。
そしてできるなら、
「この婚約は少し重すぎる」
という印象を理屈で残すこと。
感情では押し返せない相手には、理屈で隙間を作るしかない。
完璧である。
少なくとも、考え方としては。
書庫へ入ると、ヴィクトル公爵は大きな机の前に立っていた。
壁一面の本棚。磨かれた机。差し込む午後の光。静かで落ち着いた空間だ。
なるほど。
話をする場所としては、とてもやりにくい。
感情に流されず、理屈が強そうだからである。
「来たか、エウフェミア」
「お呼びいただき、ありがとうございます、お父様」
エウフェミアは慎ましく礼をした。
ヴィクトル公爵は頷き、向かいの椅子を示す。
「座りなさい」
「はい」
椅子へ腰かけると、父はしばらく娘の顔を見ていた。
無言が長い。
その沈黙だけで少し緊張する。
やがてヴィクトル公爵は、まっすぐに言った。
「お前は最近、随分と変わった」
来ましたわね。
「教会、孤児院、交流会、教育の場。どこでもお前の評判は悪くない」
「……恐縮でございます」
「恐縮する必要はない。事実だからだ」
正論で押してくる。
やりにくい。
「だが私は、評判そのものより、別のことを見ている」
エウフェミアは少しだけ顔を上げた。
「別のこと、でございますか」
「お前が、何を避けようとしているのか、だ」
ひやり、とした。
それはかなり近い。
かなり近いところへ来ている。
もちろん、前世の記憶も断罪未来も見えているはずはない。だが父は父なりに、娘が何かから距離を取ろうとしていることを察しているのだろう。
ヴィクトル公爵は淡々と続ける。
「前のお前は、もっとまっすぐに欲しがる子だった。気に入らないものには顔に出たし、欲しいものは欲しいと言った」
エウフェミアは少しだけ視線を落とした。
それは、まだ前世の記憶が戻る前の、自分自身だ。
悪い子だったわけではない。
けれど、あのまま育てば断罪ルートへ入っていたかもしれないのも確かだ。
「今のお前は違う」
ヴィクトル公爵の声は静かだった。
「欲しがるより、引く。前へ出るより、下がる。褒められても受け取らず、役目を語っても、まず重さを口にする」
図星である。
すべてその通りだ。
婚約解消のために、そうしているのだから。
「それ自体が悪いとは言わん」
ヴィクトル公爵はそこで区切った。
「だが、必要以上に退くことは、周囲に判断を預けることでもある」
エウフェミアは、ほんの少しだけ息を止めた。
それは前世の自分にも刺さる言葉だった。
波風を避けようとして退く。
場を乱さないように下がる。
結果、誰かの決定に流される。
思い当たる節は、ある。
かなりある。
でも、今はそれでいいと思っている部分もある。
婚約という大きすぎる流れから外れたいのだから。
「……お父様」
「なんだ」
「もし、退いた方がよい立場というものも、あるのではございませんか」
エウフェミアは慎重に言った。
「前へ出ぬ方が場が穏やかに収まることもございますでしょう?」
これなら自然だ。
前へ出たがらない。静かな立場を望む。そういう印象になるはずだ。
だがヴィクトル公爵は、すぐに否定も肯定もしなかった。
「ある」
まず認める。
嫌な予感がする。
「だが、それは“退くべき場所”を見極めた上での話だ。ただ怖いから退くのとは違う」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
怖いから退く。
まさにそれが、自分の根っこにある部分だからだ。
断罪が怖い。
婚約破棄が怖い。
物語の悪役令嬢ルートが怖い。
だから退きたい。
その通りすぎて、反論しづらい。
ヴィクトル公爵は娘の表情を見つめ、わずかに声音をやわらげた。
「私はお前に、無理に前へ出ろと言いたいわけではない」
「……はい」
「ただ、自分が本来立つべき場所からまで退くな、と言っている」
またそれだ。
お母様も似たようなことを言っていた。
でも父の言葉は、母よりずっと骨太で、逃げ道が少ない。
「婚約者という立場も、学ぶことも、教会へ行くことも、すべて含めて今のお前の場所だ」
エウフェミアは、膝の上でそっと指を組んだ。
理屈としては正しい。
今の自分の立場は、確かにそこにある。
だが、その立場の先に断罪があるかもしれないのだ。
こちらには前提情報が違う。
だから父の正論が、そのまま正解にはならない。
「……お父様は」
エウフェミアは、少しだけ勇気を出して尋ねた。
「わたくしが、この婚約を重いと感じることを、弱いとは思われませんか」
これはかなり本音だった。
弱い。
逃げたい。
怖い。
その感情を、弱さと切り捨てられるかどうかは気になっていた。
ヴィクトル公爵は、思いのほかすぐに答えた。
「思わん」
エウフェミアは、少しだけ目を瞬いた。
「重いものを重いと分かるのは、弱さではない。分からずに軽く扱う方が危うい」
その言葉には、少しだけ救われる。
だが、父の話はそこで終わらなかった。
「だが、重いからといって、最初から捨てる前提で見るのも違う」
ぎくり、とした。
そこまで見えておりますの?
いや、見えているわけではないだろう。だが自分が婚約そのものから心を離そうとしていることは、十分に伝わっているのだ。
ヴィクトル公爵は机の上に置いていた一冊の薄い本を手に取った。
「これは、私が若い頃に読んだ統治に関する書だ」
そう言って、本を開く。
「そこにこうある。『重責とは、担える者にのみ集まるのではない。担う過程で器が定まる』」
エウフェミアは、思わず小さく眉を寄せた。
嫌な理屈だ。
かなり嫌な理屈だ。
つまり今できなくても、担う中でふさわしくなっていけばよい、という話になる。
それでは婚約解消の理屈が弱くなる。
「もちろん、すべての者が同じ器になるわけではない」
ヴィクトル公爵は本を閉じた。
「だが最初から“自分には向かない”と決めつけるのは早い」
やめてくださいませ、お父様。
その正論はかなり効きます。
エウフェミアはしばらく沈黙した。
父の言葉は、情ではなく理でくる。
だからこそ厄介だ。
正しいことを言われている感覚が強いぶん、自分の逃げたい気持ちの方が未熟に見えてくる。
しかし、こちらには断罪未来という前提がある。
その一点だけで、単純な正論では割り切れないのだ。
「……わたくしは」
エウフェミアは、ゆっくり口を開いた。
「華やかな場所や高い立場そのものに、憧れているわけではございません」
これははっきり伝えておきたい。
野心で婚約者の座にしがみついているわけではないと。
するとヴィクトル公爵は、静かに頷いた。
「それは分かっている」
あら。
そこは分かっているのですね。
「お前が今、地位や華やかさそのものを欲していないことはな」
ヴィクトル公爵は娘を見つめる。
「だが、それは欠点ではない」
またそこですの。
「むしろ、立場に酔わない者の方が、立場を誤らずに済むこともある」
だめでしたわ。
野心がないことすら加点要素ですわ。
どうしてこうなるのだろう。
エウフェミアは、顔には出さずに深く疲れた。
結局、お父様もお母様と同じだ。
自分が逃げようと出した札を、
「それもまた資質」
として拾い上げてしまう。
しかも父の場合、それを理屈で固めてくる。
非常にやりにくい。
「……ひとつだけ、覚えておきなさい」
ヴィクトル公爵は最後に、低く落ち着いた声で言った。
「お前が重いと感じるなら、それは真面目に見ている証だ。そこは否定せん」
「はい」
「だが、重いものを見たからといって、最初から自分の手の外へ置こうとするな」
また図星だった。
婚約も、未来も、できれば自分の手の外へ置いてしまいたい。
その本心に近いものを、父は言い当ててくる。
「持つか、下ろすかは、見たうえで決めればいい」
エウフェミアは、しばらく答えられなかった。
その言葉は、妙に重かった。
見ずに逃げるな。
ちゃんと見てから決めろ。
前世の自分にも、今の自分にも刺さる。
「……はい、お父様」
やっとそれだけ返す。
会話が終わり、書庫を出る頃には、エウフェミアは思っていた以上に疲れていた。
叱られたわけではない。
婚約を強く押しつけられたわけでもない。
それでも疲れたのは、お父様の理屈がかなり真っ当だったからだ。
正論は強い。
特に、こちらの逃げたい気持ちへ正面から当たってくる時ほど強い。
自室へ戻ると、エウフェミアはすぐに机へ向かった。
婚約解消に向けた方策一覧を開き、書き足す。
婚約は重いが憧れてはいないと伝える
→立場に酔わない資質だと評価
退くべき場もあると理屈で返す
→見極めを考える真面目さとして処理される
お父様は理屈で逃げ道を塞ぎにくる
そこまで書いて、エウフェミアはペンを置いた。
「……お父様は強いですわね」
お母様は感情に寄り添って囲う。
お父様は理屈で逃げを正当化させない。
王子は静かに観察しながら、最初から逃がす気がない。
包囲網が厚い。
かなり厚い。
その時、こんこんと扉が叩かれた。
「お嬢様、セシルでございます」
「どうしましたの」
「明日の午前、奥様が小さなお客様をお招きになるそうです」
小さなお客様。
その言い方に、エウフェミアは少しだけ顔を上げた。
「お子様方もいらっしゃるとか」
あら。
それはもしかして、またヒロイン候補探しの機会ではなくて?
貴族の子女か、あるいは教会関係かは分からないが、少なくとも新しい顔ぶれが来る可能性はある。
婚約解消の直接的な糸口にはならずとも、物語の本筋へ繋がる人物がいれば話は別だ。
「……分かりましたわ」
返事をしつつ、エウフェミアは少しだけ気持ちを立て直した。
まだ終わってはいない。
ヒロイン候補さえ見つかれば、流れは変えられるかもしれない。
少なくとも本人は、そう希望を持ち直した。
一方その頃、王城では。
アルベルトが机に向かっていたところへ、側仕えが静かに告げた。
「本日、エヴァルディ公爵と令嬢が書庫で話をされたそうです」
「そう」
短く返しながら、アルベルトはペンを置く。
「詳しくまでは分かりませんが、令嬢はお部屋へ戻られた後、しばらく静かに考え込んでおられたとか」
その報告に、アルベルトはほんのわずかに目を細めた。
また何か、退く理由を探したのかもしれない。
あるいは逆に、退けない理由を突きつけられたのか。
どちらにせよ、今の彼女はひとりでかなり多くを抱えている。
「……本当に、真面目な方だ」
七歳の王子は小さく呟いた。
逃げたいのに、投げ出さない。
重いと思っているのに、完全には背けない。
その在り方が、ますます彼の興味を深くする。
「だからこそ」
アルベルトは静かに窓の外を見た。
「私の隣に置きたいのですが」
その願いが、エウフェミアの望みと完全に逆方向であることは、もはや説明するまでもなかった。




