第1話 婚約した瞬間に終わりましたわ
「エウフェミア・エヴァルディ公爵令嬢。そなたを、我が第三子アルベルトの婚約者と定める」
王の厳かな声が、謁見の間に響いた。
高い天井。磨き上げられた白い床。等間隔に並ぶ燭台。居並ぶ貴族たちの視線。
その中央に、七歳の少女が立っていた。
エウフェミア・エヴァルディ。
公爵家の一人娘であり、年齢に似合わぬほど整った顔立ちをした令嬢である。
本来なら、この場は彼女にとって栄光そのものだった。
王子の婚約者。
未来の王妃候補。
公爵令嬢として、これ以上ないほど華やかな立場だ。
だからこそ、少し前までのエウフェミアなら、きっと胸を張っていたはずだった。
けれど。
「――え」
婚約、という言葉が耳に届いた瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けた。
見たこともない景色が、怒涛のように流れ込んでくる。
石造りの城ではない建物。ガラス。電車。信号。スマートフォン。コンビニ。ワンルームの部屋。仕事帰りの疲れた夜。紙パックの飲み物。蛍光灯の白い光。
知らないはずの人生。
いや、違う。
知っている。
それは、自分の前世の記憶だった。
そして同時に、もう一つの記憶が蘇る。
前世で読んだ物語。
王子と、平民出身の少女と、そしてその少女をいびる高慢な悪役公爵令嬢が出てくる話。
婚約者という立場に胡坐をかき、嫉妬に狂い、最後には婚約破棄と断罪を受ける女。
その名前が。
エウフェミア・エヴァルディ。
「うそ、でしょう……?」
喉がひりついた。
血の気が引いていくのが分かる。
だってそれはつまり。
自分はこのままだと、将来、断罪されるということではなくて?
婚約破棄されて。
社交界で笑いものにされて。
大勢の前で罪を並べ立てられて。
家にも迷惑をかけて。
人生が終わる、ということではなくて?
嫌。
無理。
絶対に嫌ですわ。
というか、思い出すのが遅すぎませんこと!?
せめて五歳とか、もう少し前に思い出したかったのですけれど!?
神様、配分が雑ではありませんか!?
「エウフェミア嬢?」
間近から、幼い声がした。
はっとして顔を上げる。
そこにいたのは、金の髪に澄んだ蒼い瞳を持つ少年だった。
アルベルト・ルヴァンシュ第三王子。
自分と同じ七歳。
整った顔立ちに、やわらかな物腰。けれど年齢に似合わぬほど落ち着いた空気をまとっている。
そして前世の記憶が告げていた。
彼は、未来の婚約破棄側の人間である、と。
将来、自分に向かって冷たく言うのだ。
『君との婚約は破棄させてもらう』
と。
駄目ですわ。
顔が良いとかそれどころではありませんわ。
怖い。
怖すぎますわ、この未来の断罪執行人候補。
「顔色が優れません。大丈夫ですか?」
差し出される小さな手。
やさしい声音。
けれど今のエウフェミアには、そのすべてが恐ろしかった。
だってこの子、将来は有能な王子になるのだ。
有能な王子は情で見逃してくれない。
つまり本格的に終わっている。
嫌ですわ。
断罪なんて絶対に嫌ですわ。
どうにかしなければ。
何としてでも、この婚約を解消していただかなければ。
穏便に。できるだけ円満に。家にも迷惑をかけずに。最悪、教会に入ってシスターになるのでも構わない。断罪より百倍ましだ。
そう決意した瞬間。
視界がふっと暗くなった。
「あ」
間の抜けた声が漏れる。
次の瞬間、エウフェミアの身体はぐらりと傾き、その場に倒れ込んだ。
「エウフェミア!」
「お嬢様!?」
「医師を呼べ!」
謁見の間が一気に騒がしくなる。
けれどエウフェミアの意識は、もうそこにはなかった。
最後に見えたのは、驚いた顔の父と母。
それから、静かにこちらを見つめるアルベルト王子の蒼い瞳だった。
婚約の喜びで倒れた少女を見る目ではない。
何か、おかしなものを見つけたような目だった。
その日を境に、エウフェミア・エヴァルディは変わった。
誰もがそう言った。
目を覚ました彼女は、以前とはまるで別人のように静かになっていたのだ。
癇癪を起こさない。
侍女に当たらない。
食事に文句を言わない。
不機嫌そうに眉をひそめることもなく、むしろ静かに礼を言うようになった。
父ヴィクトル・エヴァルディ公爵は困惑し、母ロザリー公爵夫人は何度も娘の顔を覗き込んだ。
侍女たちはおろおろし、医師は「高熱も外傷もない」と首を傾げた。
だが、皆がしばらくすると同じ結論にたどりついた。
婚約という大役を前にして、幼いながらに心を改めたのだろう、と。
違う。
全然違う。
当の本人は、豪奢な天蓋付きの寝台の上で、青ざめた顔のまま現実逃避しかけていた。
「……どうしましょう」
呟いた声は、我ながらひどく弱々しかった。
どうしましょう、ではない。
もう少し建設的に考えなければ。
状況を整理する。
まず、自分は悪役公爵令嬢ポジションである。
このまま高慢に育てば断罪される。
だから悪役ルートは絶対に踏まない。
次に、婚約は可能なら解消したい。
ただし王家相手に露骨な拒絶は危険だ。公爵家にも迷惑がかかる。
つまり必要なのは、慎ましく、穏やかに、しかし確実に 『この令嬢は王妃には向かない』 と思っていただくこと。
そして最悪の場合に備え、教会ルートも確保すること。
……なるほど。
生き残るには、慎み深い令嬢になるしかありませんわね。
少なくとも、今までのような将来悪役令嬢一直線の振る舞いは論外だ。
前世の自分は、どちらかといえば人に強く出られない性格だった。困っている人を放っておけず、面倒事を拾ってしまうことすらあった。
その人格でいけば、たぶん悪役令嬢にはならない。
よし。
やることは決まった。
悪役にならない。
婚約解消を目指す。
最悪でも断罪だけは回避する。
いざとなったら教会へ逃げる。
完璧ですわ。
少なくとも方向性は。
そうしてエウフェミアが拳をぎゅっと握った、その頃。
王城の一室では、アルベルト第三王子が、婚約の場で倒れた公爵令嬢について静かに報告を受けていた。
「婚約の宣言直後に、ですか」
「はい、殿下。急に顔色を変え、そのまま」
「……そうですか」
アルベルトは短く答え、窓の外に目を向けた。
婚約の喜びで倒れた。
そう言ってしまえば、そう見えなくもない。
だが彼には、あの時のエウフェミアの顔がどうしてもそうは思えなかった。
あれはまるで。
祝福を受けた顔ではなく。
何か、恐ろしい宣告を受けた者の顔だった。
七歳の王子は、年齢らしからぬ静かな眼差しで、小さく呟く。
「エウフェミア・エヴァルディ」
その声はやわらかい。
けれどそこには、確かな興味があった。
「あなたは、何をそんなに恐れているのですか」
もちろん、その問いに答えられる者は、まだ誰もいない。
ベッドの上で震えている七歳の公爵令嬢本人すら、
――とにかくこの婚約をどうにかしなければ終わりますわ。
と、青ざめているだけだったのだから。




