妖精姫は真紅の薔薇を夢見る
アリアンナ視点です。
乳母のベスが深緑のビロードのカーテンを開けると、眩いばかりの陽が寝室に降り注いだ。寝不足の目にその光がしみて、思わずシーツに潜り込んだ。ベスはそんな私に構わず、朝の準備を整えて行く。二度寝というはしたない真似は許してくれないみたいね。観念して、私も寝台から降りた。
「昨日の嵐が嘘のようね。空気がとても澄んでる。」
「嵐が埃を根こそぎ連れてってくれたのでしょう。さあ姫様、お顔を洗ってきて下さいまし!」
「私、少し寝不足なのに。もう少し甘やかしてくれてもいいでしょう?」
私がそう言えば、ベスは広げられたままのチェスボードの存在をちらりと見てから笑った。
「また陛下がいらしたのですね。でも姫様はもう淑女なのですから、ちいちゃい子供のようにお寝坊はいけませんよ?」
そんな風に言いながらもベスは私をちいちゃい子供のように扱うのに。はぁいと間延びした返事をして、薄手のガウンを羽織った。私が本格的に起きたのがわかったのか、他の侍女たちが今日のドレスを数着持って現れた。今日は滑らかなシャンパンゴールドの軽やかな一着を選んだ。
「ねぇベス、今日の予定は?」
「今日はご公務はお休みですよ。昨日の雨で道もぬかるんでますし、本日の外出は控えるようにと陛下の言い付けでございます。」
「お父様ったら過保護すぎると思うの。」
「姫様のような娘を持つ父親ならば誰もが過保護になるものですよ。」
「まぁ、私がお転婆だって言いたいの?」
「あれまぁ、違いましたか?」
くすくす笑うベスの目には確かに私に対する愛情が見えて、とても嬉しくなる。昨夜チェスを持って現れたお父様だってそう。何も言わないけれど、私を案じて来てくれたのだろう。幼い頃の私は嵐を大層怖がったから。
そしてお父様はそんな私を抱きしめて宥めてくれた。誰にも言っていないけれど、私はもう嵐は怖くない。窓を叩きつける突風を悪魔の呼び声だなんてもう思わない。だって嵐はお忙しいお父様を運んで来てくれる。私を甘やかしてくれる優しい夜だ。
ソファにかけて、冷たい果汁を飲み干した。幾分頭がはっきりした。ちらりと窓辺に目をやると、青空に淡いピンクの薔薇が映えて一幅の絵のよう。
「ジェシー、あの薔薇を取り替え忘れてるわ。昨日と同じだもの。」
「あっ姫様、申し訳ございません。ただいま新しい花を用意させます。」
「えっどうして?ガルディクス様からのお花を飾ればいいでしょう?」
毎朝私はガルディクス様が贈って下さった花を眺めながら1日を始める。お父様と同じようにお忙しい方で日々短い逢瀬しか叶わない。だから彼の心がこもった花に慰めを得るのだ。
「それ、が。本日は届いていないようで…。もしかしたら使用人たちが忘れているのかもしれません、確認してまいります!」
気まずそうにジェシーが私を伺いながら話す。すぐにも駆けていきそうな彼女を引き止めた。
「待って、いいの!もしかしたら、花が嵐で散ってしまったのかもしれないし。それに、私はピンクの薔薇が好きなの。もう1日飾っていたいわ。」
お父様とのチェスに夢中だったけれど、外は酷い嵐だったのだ。きっと都中の花が舞っただろう。だから、ガルディクス様からの花がなくともおかしなことじゃない。一瞬浮かんだ不安を私は押し込めた。
やっぱり杞憂だったようで、昼過ぎには登城していたガルディクス様が訪ねてくださり散策のお誘いを受けた。残念ながら庭は少しぬかるんでいるようで、コンサバトリーに向かうことにした。
「姫、足元に気をつけて。」
「…ありがとうございます。」
差し出された力強い腕に手をかける。嬉しくて、でも恥ずかしくて思わず俯いてしまった。私ってば、いつもこう。ガルディクス様といると平常を保てない。
道中の庭の薔薇は、かなりが散ってしまったようだった。可憐な花弁が泥にまみれ落ちている様子が物悲しい。綺麗な真紅の薔薇だったのに。私の視線に気付いたのかガルディクス様が慰めるように背にそっと手を置いてくれた。そんな小さな気遣いで、天にも昇る心地になる。
猫脚のソファに向かい合わせで掛けた。ガラス越しの陽光に照らされるガルディクス様は、少し疲れて見えるけれど本当にお美しい。初めて会ったその時から、私は彼から視線を外すことができなかった。お姉様の婚約者だと、知った後もなお。
「今日は帝国の紅茶をご用意しました。もうスーリュアに来られて一月が経ちますでしょう?」
「心配りありがとう。ちょうどそろそろ恋しく思っていたところなんだ。」
ふんわりと全てを包み込むように微笑むこの方が私は好きだ。大国の後継なのに決して驕らず、凛と立っているのに親しみやすさも忘れない。強くて眩しくて、そして慈しみを忘れないこの方に私は愛されたい。
「ガルディクス様、今夜の夜会は参加されると伺いました。あ、あの、宜しければ、また踊って頂けますか…?」
「もちろん。僕こそ、誘いたいと思っていたんだ。」
そんな台詞に舞い上がりそうになる。今朝方感じた不安なんて、あっという間に吹き飛んだ。私はなんて単純なのだろう。
「ただ、やっぱり婚約者が臥せってる時に浮かれるのは良くないからね。すぐに退出する予定ではあるけれど。」
舞い上がった心が一瞬にして落ちる。そうだ。お姉様が臥せっている。だからこそガルディクス様は最近夜会に見えなかったのに。この方は、本当にお優しい。それはとても尊敬すべき点なのに、私の心がチリリと痛んだ。
「…そうですね。お姉様が早く良くおなりになるといいのですけれど。」
私は、酷い。確かにお姉様の身を案じているのに、でもどこかでこのままでいられたらなんて思ってしまう。だって、治ってしまったら。それ以上考えたくなくて、醜い心を洗い流すように紅茶を飲んだ。
「そう言えば、今朝は花を贈れなくてごめんね。離宮の庭の花が散ったり折れたりして、酷い有様で。」
「そ、そんな!気にしないで下さい!私、昨日頂いたピンクの薔薇がとても気に入っているのです。長く飾れてむしろ嬉しくて。」
「良かった。それならまた同じものを贈るよ。今度はもう少し濃いめの色合いにしようか。君の綺麗な髪によく似合うような。」
ガルディクス様に褒められて、髪まで熱を持ったように感じてしまう。私を見つめる瞳には確かに好意を感じられる。この方と私は、きっと同じ想いでいると信じられる。たとえ、真紅の薔薇を贈って下さらなくても。
「ねぇ変じゃない?」
ああもう、何度目の問いかけだろう。みんなも呆れたかしら。
「変なもんですか!この世で一番お美しいですよ、姫様は。さて仕上げにこちらのネックレスをつけましょうね。」
少し大人っぽく見られたくて、今日は赤のドレスを纏った。いつもよりも少し多めに露出している肩が心許ない。ベスが取り出した装身具は、お父様が贈って下さった真珠だ。三連になったそれは、見ているだけでも素敵だ。一番のお気に入り。
「本当に?ちょっと冒険しすぎたかしら、はしたないと思われない?」
「はしたないどころか気品溢れる姿だよ、リア。」
姿見の前で何度も確認する私に突然男性の声がかかった。ここまで来られる人なんて限られている。
「まぁ、ユージンお兄様、レディの支度を覗くなんてひどいっ!」
やっぱり扉にもたれながら私を楽しそうに眺めていたのは、再従兄弟のユージンお兄様だった。私のエスコートは、基本彼にお願いしている。
「レディならそんなに頬を膨らませない。ほら、機嫌を直して?私のお姫様。」
「もう、子供扱いしないでったら。」
いつもいつもユージンお兄様はこうやって私を揶揄う。けれど結局は優しくて、私は彼が大好きだ。今日もユージンお兄様は完璧な装いだ。華美すぎず、けれどどこか遊び心のある。柄付きのクラバットなんて、きっと他の男性がしたら滑稽に見えてしまうのにユージンお兄様にはよく似合っている。
「ごめんごめん、でも本当に綺麗だよリア。今日の君と踊るために男たちは長蛇の列に並ばざるを得ないね。」
そう言ってユージンお兄様は私の手に口付けを落とした。
「ふふ、私はガルディクス様と踊れればそれでいいの。」
「…リア、君も分かってるとは思うけど、これ以上ガルディクス殿下に近づいてはいけない。」
急にユージンお兄様が真剣な顔をして言った。彼には何度もこの事で諌められている。でも、だって、私はガルディクス様と踊りたい。私の無言の反抗を感じたのか、ユージンお兄様は続けた。
「彼はリリアン王女の婚約者なんだよ?リアがどうやっても陛下は許さないよ。」
「そ、そんなの分からないじゃない!」
確かにお父様は私がガルディクス様と一緒にいるのを好ましく思っていない。何度も私の気持ちをお父様に伝えたけれど、お父様は頷かなかった。今まで私のお願い事はなんでも叶えようとしてくれたのに。
「陛下は許さない。リア、陛下は君と私が結ばれることを期待している。そうすれば君はこのままスーリュアに、陛下のそばにいられる。今の君は初恋に目が眩んでいるだけだ。本当は分かってるんだろう?ガルディクス殿下と結ばれる道はないと。」
「…ひどい、ひどいわお兄様。お兄様には私の気持ちなんて分からない。」
違う、こんな事が言いたい訳じゃない。ユージンお兄様を傷付けてしまう。なのに、口から出てしまった。分かっている、お姉様が快復したら、お父様は急ぎ婚約の儀を整えるだろう。そうなったら、私はもうどうにも出来ない。
けれど、レヴィエルお兄様が言ったようにガルディクス様と私がもしそういう仲になれば。そうすればお父様は認めざるを得ないかもしれない。帝国がどうしてもお姉様の血統を求めるならば、私は側室でもいい。初恋に目が眩んでいるんじゃない。この恋は、私の生涯唯一の恋だって確信しているのだから。
どうしようもなく焦がれる相手に他にも妻がいるなんて、きっと辛い。それでも心が私だけを向いていれば、私はそれだけできっと幸せになれる。お父様がお母様だけを愛したように。そして今でも愛しているように。
「私は、君の兄じゃないよ。」
ユージンお兄様が辛そうに顔を歪ませた。分かってる。ユージンお兄様が私に特別な想いを寄せてくれていること。それでも、駄目なの。私が欲しいのはガルディクス様からの想いだけ。それ以外どうやったって心に入っていかないの。
「…ごめんなさい、お兄様。」
だから私は、そうとしか言えなかった。




