18.マーティン家の日常
「あらノアちゃん、来てたのね。いらっしゃい」
「…どうも、お邪魔してます」
ルークの部屋でのんびりとセルジュが淹れた紅茶を飲みながらノアは苦笑いしていた。ルークから、今日はソフィが家にいないと聞いていたのに何故いるのだろうか。ちらっとルークに視線をやると、彼も肩をすくめて首を横に振った。どうやら何故妻がここにいるのか、彼にもわからないらしい。
「ソフィ、今日は遅くなるって言ってなかったかな?」
「ええ。でもちょっと、陣痛が酷くて先に抜けてきちゃったわ」
ルークは慌ててソファから立ち上がりソフィの傍によると肩を抱いて二人掛けのソファに促した。
「あれだけ無理はしないようにって言っただろう?まったく、君はちょっと目を離すとすぐにどこかへ行ってしまうんだから…」
「先輩方、いつのまに二人目を?ああ、おめでとうございます」
「ありがとう、 ノアちゃん」
ルークがソフィの横に座り、彼女のお腹を優しく撫でながら口を開く。
「フィルが女神の儀のときに、弟ができるって教えてくれてね。もしやと思ってその後すぐに検査してもらったら、本当だったんだよ」
「へぇー。そりゃすごい」
神童の力に感心しながら頷いていると、ソフィが小さく唸った。ルークは不安そうにその背中をゆっくりと撫でる。
「大丈夫かい?部屋で休んでおいたほうが…」
ルークの心配そうな顔に、ソフィは首を振った。
「部屋でじっとしてるとね、余計に辛いの。何かで気を紛らわせておいたほうが楽なのよ」
ソフィはノアを見て困ったようにほほ笑んだ。
「ごめんなさいね、お仕事の話でしょう?私がいないほうがいいかしら」
「いや。別に構いませんよ」
ノアが手元の紙束をヒラヒラさせながら平然と言い放つ。
「仕事の話って言っても国王のわがままですから、むしろこっちがお邪魔してすいません」
「国王様のわがまま?」
ルークがはてなを浮かべて首を傾げた。ノアは苦々しそうに紅茶を口にして潤す。王城を出てくるときに言われた言葉を思い出してイラつくのを隠せないでいた。
「”リアムがいなくなって寂しい、仕事が手につかない。そうだ、同じ思いをしているはずのルークは今頃どうやって気を紛らわせているのだろうか。ちょっと様子を見てきてくれ”って言われたんですよ。まったく、国王ともあろうお方が何言ってんですかって感じですよねぇ…って、先輩?」
ノアははたと気づく。ルークが俯き、首から耳まで真っ赤にして小刻みに震えているのだ。ルークは国王を崇拝している。自分の言葉に失礼があっただろうかと思いを巡らせていると、ソフィがぷっと吹き出したのが聞こえた。視線を移すと口に手をあて必死に抑えてはいるが、こらえきれていない笑いが漏れている。
「あのねノアちゃん。ルークは、いえルークも実は、フィルがいなくなってすごく落ち込んでるのよ…ぷっ…」
「はあ?ルーク先輩が?」
学生時代、非常に優秀で冷静沈着、しかしいつも優しげな笑みを浮かべていたルークからは考えられない。常に女子生徒だけでなく、男子生徒までもを虜にしたあのルークがよもや息子のことで取り乱すなど、ノアには想像がつかなかった。
ソフィはどこか嬉しそうにルークの脇をつつく。
「原因はフィルからの手紙に、ルークのことがあまり書いていないことなのよ。私とは文通してるから体調を気遣ってくれたりするんだけど、あの子の手紙、毎回セルジュの名前が出てくるのよねぇ」
セルジュと聞いて先ほどの青年を思い出す。紅茶を入れるやいなや、丁寧にお辞儀をして部屋を出て行った。部屋から出る際に少しだけ鋭い視線を感じたが、おそらく前にフィルをからかったことが原因だろうと思われる。
「なのに自分の名前が一つも書かれてないから、拗ねてフィルに会いに行くって言いだしたの。まあ、無理やり止めたんだけどね」
ソフィは笑顔を浮かべたまま拳を握る。女性らしい小さな拳だが、それが見た目と相反していることをノアは身をもって知っている。無理やり、という言葉に冷や汗をかきながらノアはルークに目をやった。彼はわずかな間に立ち直ったようで苦笑いをしていた。
「先輩も親バカだったんですねぇ」
しみじみとしているとルークが恥ずかしさを紛らわすように咳をした。そしてふと思い出したように手をぽん、と叩く。
「そういえばノアのことも手紙に書いてあったんだよね、ソフィ」
ソフィもああ、そうだったわと言ってすぐに頷いた。あの少年はいったい自分のことをどんなふうに書いているのか。気にならないと言えば嘘になる。
「ノアちゃんに追いかけられる夢を見て最悪の一日になったとか、学校でノアちゃんの名前が入った表彰状を見て嫌な気分になったとか書いてあったわね。ああ、あと騎士団と聞いて真っ先に思い浮かべたのがセルジュじゃなくてノアちゃんだったから自分に喝を入れたともあったわねぇ」
「はあ?」
ソフィは嬉しそうに話しているがノアには彼女の真意が見えない。
あの少年にはおそらく嫌われているだろうと思っていたがそれにしても酷い言い様だ。大体、あの少年の夢に自分が登場したとしても自分は何も悪くないではないか。
無意識の内に唇を尖らせ、足を揺する。
「ひっでーなぁ」
そんなノアにルークはにやりと口の端を上げる。意地悪な顔だ。
「フィルに嫌われるようなことをしたんだろう?あの子は理由もなく人を嫌ったりしないからね」
親バカなのはわかっていたがフィルが機関へ行ってからさらに拍車がかかったようだ。仮にも国王の使いであり元後輩のノアに対して決めつける言い方はないだろう。
「いやいや、確かにちょっと脅かしたりはしましたけどね?たった一回ですよ」
実際ノアは、なぜ自分が警戒されているか知っている。あえてそうなるように、フィルには挑発する言動をとっていたからだ。
あの少年はどこか大人びた雰囲気を持ってはいるが、無表情のその下では普通の子と同じような感情があると直感で思った。それは今まで人を観察し見極めることでその人物がどんな過去を辿ってきたのか、また今後自分の利となりうるのか判断してきたノアだからこその直感であった。
現に5年間傍で見てきたフィルの両親や側近、屋敷の者たちはフィルの臆病さにまったく気づくことなく今に至る。なんとなくだがフィルがそれを知られたくないのだろうと思いノアもわざわざ周りに言うことはない。しかし彼が中身はただの子供だと知っているため、大人びたことをしようものなら全力でからかうつもりである。そのためのガキ呼ばわりでもある。お前はまだガキなんだよと、安易に伝えているのである。まあ、手紙の内容からすると全く伝わっていないように思われるが。
「いいじゃないの~。ノアちゃんがお友達になってくれたおかげであの子すごく表情を出すようになったのよ。今はまだ嫌な顔ばっかりだけど、そのうちもっと感情豊かに育ってくれるわよ」
ふんふん、と機嫌良さそうに鼻歌を歌うソフィに脱力感を誘われる。そんなに呑気でいいのか、母親よ。
「…あー、そういえば機関の生徒会長と会ってきました」
話題を変えようと先日のことを思い出す。部下と久々に訪れた機関は、若いころの青春を思い出させるでもなく、ただただ早くここから出たいと思っただけだった。しかし一つの収穫があった。それが生徒会長である。
「へぇ?君が他人に興味を示すなんて珍しいね。生徒会長?って、今の子は貴族だったかな?」
「一応、西を治めてるそれなりの貴族です。ただ西の現領主はかなりの豪遊だそうで、覚悟して行ったんですけどねぇ…」
ノアは言葉を切ってマシューを思い出す。愛想笑いを浮かべ媚びるわけでもなく、かと言って緊張しすぎることもなく、傲慢に振る舞うこともない。先に調査していた彼の父親とは似ても似つかない男であった。また態度だけでなく、言動を見ても学生にしては隙が無い。ノア率いる深淵の騎士団とはまだまだ比べ物にならないが、あの歳にすれば上出来である。
「もし機関側についたらと思うと数十年後が怖かったんで、先に唾つけときました。あいつは『うち』に入団させます。調べたらフィルとも交流あるらしいんで、取り込むにはちょうどいいかと」
ノアの言葉にルークは目を丸くする。
「何年ぶりの入団者だい?ここ数年は募集もしていなかっただろう?世間では謎に包まれた国王直属の騎士団って呼ばれているくらいだ。そんなに強いのか?」
ノアは首を振る。否定だ。
「現時点では、最弱ですよ。まあうちにいれば嫌でも鍛えられるんで、そこは心配してません。しいて言うなら『裏切らない眼』をしてたってとこでしょうか。絶対に俺の命令に背かない。だからこそこっちも信頼して仕事を任せられる。そうでしょう?」
にやりと笑うノアは極悪人にしか見えない。だがノアの言葉を、その言葉通りに受け取ってはならないことを知っているルークは笑った。
「つまりは君が信頼してもいいと思えるくらいには、お人よしで常識人で、素直そうな子だ…ってことだね。よかったねノア。後継者が見つかって。これで深淵の騎士団も安泰だ」
ノアは眉を寄せて、だがどこか恥ずかしそうに鼻をすんと鳴らした。どうみても拗ねている。
「あいつを後継者にするのはいつになるのやら。言ったでしょう。まだ使えたもんじゃないです。これからじっくり鍛え上げていかないと、あんなに素直じゃ裏をかかれてこの国はすぐ滅んじゃいます。まあ……期待してないと言えば、嘘になりますが」
学園一の天才だと言われている生徒会長・マシューを『使えたもんじゃない』、『最弱』と評することができるのは、ノア自身が学生時代に天才の名を欲しいままにしていたからだ。しかし彼の場合は性格に難があったせいでマシューのように崇められることはなかった。先輩であるノアとソフィもまた、学生時代は天才だと呼ばれていた。天才の周りには天才が集まる。それは必然であった。
それまで黙ってなりゆきを見守っていたソフィが首を傾げた。
「ノアちゃんの教育は怖いからねぇ。学生のときの弟子は何人が再起不能になったかしら?」
「そんなに怖いですかね?ただ根性がなかっただけじゃないですか。現に今の騎士団の連中は、皆俺の『教育』についてこられた奴ばっかりですし」
「君の教育についていくことができた数少ない『変人たち』だね」
ルークが訂正を入れてくるが気にしない。過去の犠牲者たちは本当に根性がなかっただけの者たちだ。自分から弟子入りを志願してきたのに、3日もしないうちにどこかへ消えた。そんな半端な覚悟で自分と同じ特訓ができるかと、嫌悪感を抱いたのを覚えている。
その点深淵の騎士団の連中は文句も言わずに自分の特訓に付き合ってくれる者たちだ。決して口には出さないが信頼している仲間である。
ノアは自分が持ってきた紙をポケットにしまい、カップを手に持つ。そして紅茶が入っていないことに気が付いた。思わずチッと舌打ちする。彼は紅茶が大好きで、さらにセルジュが入れる紅茶が大のお気に入りであった。
「…先輩、あの使用人くれませんかね?」
そんなノアに、ルークはにこっと笑って首を横に振った。
「何言ってるんだい。セルジュはフィルのお気に入りなんだ。今さら彼を手放すなんて…手放す、なんて……」
はっとしたように言葉を切るルークに、ソフィの目がきらりと光る。
「ルーク、余計なこと考えてないでしょうね?セルジュがいなくなったらフィルが悲しむわ。もしあの子が帰ってきてセルジュがいなかったら、きっとあの子はあなたを恨むでしょうね。『父上がセルジュをどこかにやってしまった』って。頭のいい子だもの、この家の最高権力者が誰なのかちゃーんとわかってるわ」
ソフィの冷たい視線に冷や汗をかきながらルークは、ははっと声を上げた。
「セルジュはマーティン家でフィルに仕えてくれている優秀な使用人だ。たとえ君でも、引き抜きはご遠慮願いたいね」
ちょっと迷ったくせにと思いながらノアははあ~とため息をついた。空のカップをくるくると弄びながらしょんぼりしているノアに(ルーク目線)、ルークは首を傾げる。
「君のところにだって優秀な使用人がいるだろう。彼らに淹れてもらえばいいじゃないか」
ルークは首を横に振る。
「違うんですよ、違うんです。あいつらは使用人なんて可愛いもんじゃないです。俺の寝込みをここぞとばかりに襲ってくるようなやつらには、いつ毒を盛られるか気が気じゃないんですから」
「はは、大げさだなぁ」
夫婦そろって冗談だろうとほほ笑んでいるのを見てノアはちらっと視線を天井に向けた。そこには真っ白な高い天井と決して嫌味ではないシャンデリアが光っている。だがノアはその先の、天井裏を意識していた。いつも使用人と称してノアのそばにいるあの男は、恐らく今もいつノアの命を奪おうかと考えながら天井裏で息を潜めているのだろう。
「……そろそろ帰らないと。ご馳走様でした」
音一つ立てず立ち上がる。つられてルークとソフィも立ち上がろうとするが、ノアは手で制して止めた。
「そこから出るんで、見送りはいいです」
言葉通り窓の縁に足をかけ、ノアは窓から出る前にふと思い出したように振り返った。ソフィのお腹をじっと見つめて口を開く。
「ガキが生まれたらまた来るんで。連絡よろしくお願いします」
ソフィがくすっと笑うのと、ノアの姿が消えるのは同時だった。そしてその直前に、ドアがノックされマーティン家の執事長であるジョセフとセルジュが入ってきた。
セルジュはノアが飲み干したカップを片付け、二人の紅茶を入れなおすべく静かに作業し始める。ジョセフは分厚い資料を脇に抱えていた。
「ノアちゃんったら、あんなに日頃つんつんしてるのに相変わらず子供が好きなのねぇ」
「そうだね。フィルが生まれたときも真っ先に飛んできたんだった」
夫婦がニコニコと笑う。ジョセフが静かに口を開いた。
「それもあるとは思いますが、恐らくルーク様とソフィ様がいらっしゃるからだと思います。ノア様はあなた方二人に大変好意を抱いておりますから。このように定期的にノア様が足を運ぶのも、このマーティン家の屋敷だけだと噂になっております」
「やだ、可愛い子!」
ソフィがきゃっきゃっとまるで少女のように喜ぶ。
「彼って少し周りに誤解を与えてしまう言動をとるけど、いい子だからね。学生のときからそうだったよ。だから『先輩』って言われてお願いされるとつい許してしまうんだよなぁ…」
困った風に言っているがルークの表情はどこか嬉しそうだ。そんな主をみてジョセフはふむ、と頷いた。
「お喜びのところ申し訳ないのですがルーク様。仕事の書類が大量に溜まっております。こちらに承諾のサインを」
脇に抱えていた大量の書類を静かにルークの目の前に置く。そして懐から一枚の封筒を取り出してソフィに差し出した。
「こちらはフィル様からでございます」
「まあ、フィルから!」
嬉しそうに受け取ると大事そうに封を開け、読み始めた。かたやルークはその様子をうらやましそうに見ながらジョセフにサインを促されしぶしぶペンを動かす。
少しして手紙を読み終わったソフィがふぅ、と一息ついた。
「どうだった?」
待ちきれないとばかりにルークが聞く。ソフィはうーんと迷って顎に手を当てる。そしてルークをちらっと見て口を開いた。
「さっきノアちゃんが言ってた生徒会長さんのことが書いてあったわ。すごくかっこよくていい人なんですって」
「なんだって」
息子がどんどん外の世界に行ってしまうことを目の当たりにし、若干落ち込んだ風のルークは、ふとセルジュに目を止めた。彼は紅茶を入れるべくカップを持ち上げたまま固まっていた。
「どうしたんだいセルジュ?」
はっとしてセルジュはぎこちなく行動を開始する。
「な、なんでもございません。申し訳ございません」
セルジュもまた、自分の主人であるフィルが外の世界に興味を持つことは嬉しいことだったがそれと同時にどこか寂しさを覚えていた。
まだ幼いフィルが機関へ出発する前に抱き着いてきたことを昨日のことのように覚えている。その彼が、この短期間で自分の知らない時間を過ごしていることに少し気持ちがざわついたのだ。
「セルジュはまだいいよ。今回の手紙にもなにか書いてあるんじゃないのかい?」
「ええ。セルジュの紅茶が恋しいですって。ふふ、セルジュに対しては本当に甘えん坊なんだから」
ソフィの言葉を聞いて、セルジュは本気で機関へ出向こうかと一瞬考えてしまった。だがすぐに思いとどまる。ジョセフの威圧的な笑みがセルジュを貫いていたからだ。
昔からジョセフは何でもお見通しだったため、おそらくセルジュがフィルの元へ行こうと思ったのも筒抜けだろう。
「きっと私には相変わらず何もないんだろう」
ルークが拗ねている。身内しかいないこともあってか、あからさまに不機嫌な声を出している。
「そんなことないわよ~」
「え」
ルークが固まり、ソフィがその手に手紙を渡した。読んでみろと促す。恐る恐る文字を追っていくと、確かに最後に一言父上へ、と書いてあった。
ー父上へ
お体にお気をつけください。
たった2行だったが息子からの言葉だ。嬉しくないわけがない。二度、三度と読み目頭を押さえた。そして決意したようにソフィと目を合わせる。
「ソフィ、この手紙を私にくれないか」
「え、嫌よ」
即答する妻にルークは肩を落とす。
「これは私とフィルの手紙だもの。どうしてもフィルからの手紙が欲しいのなら、自分で書いてみたらいいじゃない?」
それができれば苦労はしない。ルークだって何度か手紙を送ろうと思ってペンを執ったが、そのたびに鬱陶しいと思われないだろうかという考えが頭をよぎり、結局今まで送らなかったのだ。
また父親の威厳というものがある。フィルにはいつまでも「尊敬する父」という存在であってほしいと思うのだ。だから自分が寂しくて手紙を出すなど、父としてのプライドが許さなかった。
そんなルークにソフィは一言。
「これだから男って面倒なのよねぇ」
その言葉はなにもルークだけでなく、セルジュの心にも突き刺さっていた。そんな二人とは裏腹に、執事長のジョセフはまったく表情を動かさず、ほほ笑んだまま静かに一度、頷いたのだった。




