第18話 夢の設計図
水瀬先輩と食事をした翌日、私は久しぶりに街の大きな文房具店へ向かった。
今までなら「無駄遣いはできない」と自分に言い聞かせ、すぐにスーパーの消耗品売り場へ向かっていたはずだ。けれど、今は違う。自分自身の未来を形作るための「道具」を選ぶという行為そのものが、私にとっての儀式だった。
少しだけ上質な糊、色鮮やかなマスキングテープ、そして、真っ白で厚みのある新しいノート。それらをレジに差し出すとき、私は背筋を伸ばし、迷いのない足取りで店を出た。
帰宅し、母の気配がリビングにないことを確認してから、私は自室のドアに鍵をかけた。
これまでは、このノートは「苦しみ」を吐き出すための防波堤だった。けれど、今日の私は違う。ページを開き、先週の雑誌から切り抜いた写真を丁寧にレイアウトしていく。
柔らかな光が差し込むキッチン。小さくても温かなソファ。そして、私好みの温かみのあるオレンジ色の照明。
雑誌から切り抜いたその理想を、真っ白なページに糊で貼り付ける。指先で空気を押し出すように丁寧に押さえると、写真の風景が私の心の中に定着していくようだった。糊が乾くまでの間、その静かな写真を見つめていると、頭の中にコーヒーの香りと、穏やかな時間の流れがはっきりと映像として浮かび上がる。
『私の家』
そうタイトルを書き、その下に、私の望む条件を強い意志を込めて箇条書きにする。
駅からは徒歩10分以内。
日当たりの良い窓があり、朝の光で目が覚める場所。
コーヒーをゆっくり楽しめる、私だけの小さなテーブル。
誰の顔色も窺わなくていい、静寂と自由があること。
書き連ねるたびに、胸の奥で芯が強くなっていくのを感じる。かつての私にとって「一人暮らし」は、ただの「逃避」だった。けれど、この設計図を描いている今の私にとって、それは「私がどう生きるか」という高らかな宣言だ。
ページをめくる。隣には、いつか行ってみたいと思っていたカフェのショップカードを貼り、その横に感想を添える。これは、私の未来を具体化するための、現実的な「設計図」だった。
まだ物件も、十分な貯金もない。憧れと想像だけの、頼りない足取りかもしれない。
それでも、ノートの中に広がるこの世界は、母の毒が届かない、誰にも汚されない私の「聖域」だった。私はもう、母の機嫌を損ねることを恐れる子供ではない。自分の理想に向かって、静かに、確実に歩みを進める「設計者」なのだ。
『ここは、私の未来の入り口』
ノートの端にそう書き加えた時、部屋のドアが規則正しくノックされた。
「咲希、温かい紅茶淹れたわよ。少しお話ししましょう?」
ドア越しに聞こえる母の声。
かつての私なら、その言葉に反射的に安らぎを覚え、すぐに駆け出していたその声が、今は驚くほど遠くに聞こえる。
私は引き出しの中のノートにそっと手を触れた。そこには、母のいない場所で、自分の好きな服を着て、好きな色の光の中で笑っている私がいる。
私の中に、折れない芯ができている。
母の紅茶は、甘い香りで私を麻痺させようとするだろう。けれど、私はもう、その味に惑わされることはない。
私は立ち上がり、ノートを隠した引き出しに静かに鍵をかける。カチリというその音は、私を守るための確かな響きだった。
鏡の前で一度大きく深呼吸し、母の待つリビングへ向かうための「娘の顔」を整える。けれど、その仮面の裏にある瞳は、もう誰にも屈することのない、冷徹で力強い輝きを宿していた。




