第11話 塗り潰された境界線
カフェで過ごした琥珀色の時間が、嘘のように遠ざかっていく。重い扉を開け、実家の自室に入った瞬間、外気とは違う、どろりとした淀んだ空気が私を飲み込んだ。
ノートを広げようとして、私はふと、自分の心の奥底に沈んでいた古い傷跡に触れた。今、私がどうしてこれほどまでに「誰かの顔色」を窺い、自分を主張することを恐れるのか。その根源にある、あの記憶だ。
あれは小学校二年生の秋のことだった。
休み時間、ジャングルジムから落ちて左腕を骨折した。痛みで泣きじゃくる私を、担任の先生やクラスの友人たちが慌てて囲んでくれていた。「大丈夫?」「痛いね」と投げかけられる優しい言葉の数々。あの日、私は初めて「私という存在が、誰かに大切にされている」という温かな感情に包まれていた。
けれど、その光は母の到着とともに、暴力的に遮断された。
「どういう管理をしているんですか! 娘に何かあったらどうするんですか!」
母は、泣き腫らした顔の私を背中に隠すようにして、先生に向かって鬼のような形相で怒鳴り散らした。そして、心配そうに様子を窺っていた友人たちを冷たく射抜き、「あなたがたが突き飛ばしたんでしょう! あっちへ行きなさい!」と、凍りつくような大声で突き放したのだ。
私はただ、成す術もなく立ち尽くした。みんなの顔から笑顔が消え、困惑と恐怖が広がっていくのが見えた。
あの日から、先生の私を見る目は「腫れ物に触れるような」敬遠へと変わり、友人たちは私と関わることを恐れるようになった。私は、誰からも関わってもらえない、教室の片隅の孤独な子供になった。
「咲希、あなたを守れるのはお母さんだけよ。世界中が敵になっても、お母さんだけはあなたの味方だから」
そう言って、母は満足げに私の髪を撫でた。
それは守護ではなかった。母は私から世界を奪うことで、私という存在を完全に自分の庭へと囲い込んだのだ。私の怪我という痛みを、母は「他者との断絶」という特権に変え、私を外の世界から引き剥がしてしまった。
私は、その時の母の微笑みが忘れられない。自分の望む通りに、私が誰にも頼れない、自分一人では何もできない「従順な操り人形」になったことを、心から喜んでいたあの横顔。
――私は、守られていたんじゃなかった。ただ、世界から切り離されていただけなんだ。
カフェの店内で、マスターや他の客と交わした挨拶。あの時はただ震えるほど嬉しかったけれど、今の私には分かる。あの頃、私が誰とも言葉を交わせなくなったのは、恥ずかしかったからではない。母が、私と世界の間に引かれた「境界線」を、暴力的な愛という名目で踏み荒らしたからだ。
私の世界は、母によって塗り潰されていた。
逆らうことは、母の愛を失うこと。母を失えば、私は一人では生きていけない。そうやって巧妙に仕組まれた「愛という名の罠」に、私は二十四年間も囚われ続けていたのだ。
私はノートを胸に抱きしめる。
母の過剰な守りは、私を弱らせ、誰の助けも借りられないようにするための、もっとも卑劣な支配術だった。
もう、二度と騙されない。
母の言葉が、私の心臓を縛る鎖だったなら、今こそそれを断ち切る時だ。
私の腕は、母の所有物ではない。私自身のものだ。誰が何を言おうと、私自身のものだ。
私はゆっくりと、深く呼吸をした。誰にも踏み荒らさせない、私だけの境界線を、今このノートの上に、一文字ずつ書き刻んでいく。




