第10話 秘密の地図
カフェの扉を開けることに慣れてきた頃、私は駅前の書店へ立ち寄るようになった。
以前の私にとって、書店は「目的のものを買ってすぐに帰る場所」でしかなかった。一人で長く本棚の前を彷徨うなんて、自分には許されない贅沢だとどこかで思っていたからだ。けれど、今は違う。私は「私だけの場所」を増やすための地図を探しに来ているのだ。
文具コーナーで自分に似合うペンを一つ選んだ帰り道、ふと並んでいる雑誌の山が目に留まった。
特に目的があったわけではない。ただ、隣の街のカフェでも探そうか、と軽い気持ちで『癒しのカフェ巡り』という本を手に取った。レジへ向かおうとしたその時、その隣に並んでいた一冊の雑誌が、ふと視界を捉えて離さなかった。
『心と暮らしを整える、小さな部屋の作り方』
何気なくページをめくった瞬間、心臓が跳ねた。
そこには、私の知っている実家の澱んだ空気とは全く違う、柔らかい光と風が満ちた空間が広がっていた。自分好みのソファ、使い込まれた木のテーブル、淹れたてのコーヒーの湯気。ページをめくるたび、色鮮やかな「自由」が私の心に流れ込んでくる。
「……いいなあ」
喉の奥から、独り言のようなため息が漏れた。
それは、ただのインテリア雑誌ではなかった。かつて私が、「そんなことは夢物語よ」と母に切り捨てられて、心の奥深くに埋めていた「私の未来」そのものだった。
ぱらぱらと捲る指が止まらない。一ページめくるごとに、今の息苦しい実家との対比が鮮明になり、胸の奥が熱く疼く。今の私には、この雑誌の一ページ一ページが、自分を救い出すための「道しるべ」のように見えた。
気づけば、私はその雑誌と『癒しのカフェ巡り』を、迷いなく抱きしめていた。
家に帰り、私はすぐに雑誌をカバンの奥深くに隠した。母がリビングでテレビを見ている隙に自室へ滑り込み、ドアに鍵をかける。毛布を頭から被り、隠れるようにしてページを開く。
隠れて読んでいる背徳感と、自由な部屋を夢見るワクワク感が混ざり合って、胸の鼓動がうるさいほどに速い。
『次は、あそこに行こう』
ノートの端に、カフェガイドの名前を書き写す。それは、この街を攻略するための秘密の地図作りだった。
今の実家はあまりに息苦しい。でも、この雑誌とカフェガイドさえあれば、私はどこにでも行ける。この雑誌の中の部屋は、いつか私が手に入れる「本当の家」の設計図になる。そう思うだけで、世界が少しずつ明るく見えてきた。
迎えた休日。私は朝一番に家を出た。
背後で母が「そんなに外ばかり出て、何が楽しいの?」と声を飛ばしたが、刺さるような痛みはもうない。
カバンの中には、カフェガイドと、昨日熟読した部屋の切り抜き、そして私のノートが入っている。
ガタン、ゴトンと揺れる電車に乗りながら、窓の外の景色を眺める。
私は心から思った。
私の人生は、もう誰にも渡さない。この地図を頼りに、私は私だけの場所を見つけに行くのだと。琥珀色のコーヒーの香りがする未来へと、私は確かに歩き出している。




