もんもんぐんぐん
昨今、SNSなどにおける、辛口批評なるものに対して、『もんもん』とした気持ちが高まってきている。
その『もんもん』の正体がなんなのか、自らの思考を深めると共に、整理する必要があると考え、筆を執ることにした。
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まず最初に『辛口』とは、強い言葉で作品を批判することではない。作品の、より深い技術的・構造的な層まで踏み込み、多くの要素を検証する批評のことである。
誤字脱字や文法上の誤り、不自然な表現など、比較的表層的な問題を指摘するだけなら、批評の対象は限られている。
そこからさらに、文章構造、情報の配置、場面構成、読者の認知負荷、キャラクター造形、物語構造、伏線、ジャンル上の機能などまで検証していけば、当然ながら指摘する項目も増えていく。
その結果、指摘された側の負荷が高くなり『辛口』と感じられる要因となる。
ただし、指摘が多ければよいという意味ではない。その指摘が、批評者の設定した基準から見て妥当であることが前提となる。したがって、『辛口』という言葉を考える際には、批評の深さと、批評に使われる言葉の強さは分けて考える必要がある。
「この描写は長すぎる」という意見を、「こんな冗長な描写を読ませる意味が分からない」と言い換えたとしても、伝えている内容が同じなら、批評としての情報が増えたわけではない。強くなったのは語気だけである。
その言葉を選んだ理由を示すことができるのか? そうでなければ、その強い言葉は単に自分の判断を強く見せるための手段になってしまう。(精神修養も兼ねているんだという主義ならそれもいいだろう)
「強い言葉づかい」と「批評として厳密であること」は別の問題である。批評の厳しさは言葉ではなく、どの基準から、どこまで具体的かつ根拠をもって作品を検証するかによって決まる。
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作者と批評者が共有すべきなのは、ゴールではなく、スタート地点である。
では、そのような批評は、どのように成立するのだろうか。
小説に対する批評とは、作品の欠点を探し出し、批評者が考える「正しい小説」へと修正することではない。
作品をどのような基準から読むのかを明らかにし、その基準に照らして作品がどのように機能しているのかを検証することが重要なのだ。
そのためには、作者と批評者の双方が、批評を行うための前提を明らかにする必要がある。
作者が最初に伝えるべきなのは、作品の入口となる、ジャンルと想定するターゲット層。必要であれば、文章表現を見てほしいのか、構成を見てほしいのか、キャラクターを見てほしいのかなど、批評してほしい範囲を示せばよい。作品の内容や作者自身の意図を細かく説明するは必要ない。
一方、批評者が最初に伝えるべきは、『自分が何を基軸として作品を読むのか』だ。
たとえば、誤字脱字や文法を中心に見る批評者もいる。文章構造や小説作法を見る者もいれば、ストーリー構成、キャラクター造形、読者への伝わり方、ジャンルとしての成立、WEBに特化していたり、商業作品としての基準などを重視する者もいる。
ここで重要なのは、どの基軸が唯一正しいかということではない。批評者が何を基準に作品を評価しているのかが、作者に分かることである。
逆に、そのスタート地点が揃っていないまま、「キャラクターをもっと掘り下げるべきだ」「この描写は冗長だ」「こういう書き方をするべきだ」と言われても、その判断がどこから生じたものなのか分からない。
それでは、批評者自身の好みを、作品に対する一般的な正解として提示しているだけになりかねない。
スタート地点が同じであれば、そこから出てきた内容について、作者は作品の意図を批評者に説明する必要はない。
作品を読んだ人がどう受け取ったのかということ自体が、その作品によって生じた一つの結果だからである。
作者が「こういう意図で書いた」と考えていても、読者が別の意味に受け取ったのであれば、「そう伝わった」という事実そのものは変わらない。
もちろん、一人の読者の受け取りが作品の唯一の正解になるわけではない。しかし、「本当はこういう意味だから、その解釈は間違っている」と作者が読者の受け取りを否定してしまえば、作品が実際にどう読まれたのかを検証する機会を失ってしまう。
意図と異なる受け取りが生じたなら、それを問題として修正することもできるし、そのような読み方も成立する作品として受け入れることもできる。どちらを選ぶかは作者の判断である。
作者と批評者が共有すべきなのは、ゴールではなく、スタート地点である。
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そして、批評者自身もまた批評される対象でなければならない。
作者だけが「審判される側」で、批評者が一方的に「審判する側」に立つ必要はない。
「あなたは何を基準にそう判断したのか」
「なぜ、その基準をこの作品に適用するのか」
「その提案によって作品はどう変わるのか」
「なぜ、この言葉遣いを選んだのか」
こうした問いは、批評者にも向けられてよい。これは批評者を攻撃するという意味ではなく、批評という行為そのものを検証するということである。
『辛口批評』を謳うだけの知見、根拠が備わっているのかというのは重要なことだ。
そして作者は、その批評を自分の作品に取り入れるかどうかを自由に判断すればいい。褒められなくて落ち込む必要性はこれっぽっちもない。元々そういう趣旨ではないからだ。
辛口批評とは、厳しい口調で作品の批判し、正解を決めるためにするのではない。
作品をどう読むのか、その読みが何に基づくのかを明らかにし、その観点から深く掘り下げる。結果として作者が作品の行方を判断する、その材料を提供することだ。
その材料を、どう活かすか、あるいは殺してしまうかは作者次第だ。
繰り返しになるが、そのために必要なのは、作者と批評者がスタート地点を共有することである。
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ここまで書いたところで、辛口批評について、私の中で整理がついたように思える。
スタート地点の共有、これが成されているかどうかが重要だということだ。
だが何よりもまず、批評される作品が無ければ話は始まらない。
ぐんぐん書き、もんもんと悩む。今日も明日も、その繰り返しだ。




