もんもんぐんぐん
何かに呼ばれたような気がして、目を覚ました。
そこは見覚えのない、白っぽい部屋だった。消毒液の匂いがした。
——
「目が覚めましたね。具合はどうですか? どこか痛みますか?」
白衣を着た女性が話しかけてくる。
「いいえ、どこも痛くありません。ここは病院ですか? 私はどうしてここに?」
私の質問に、女性は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、全て済みましたので問題有りません。先生を呼んで来ますね」
そう言うと村田さん(ネームプレートに書いてあった)は部屋を出ていく。パタパタという足音が印象的に響いた。
全て済んだとは一体なんのことだろう? 病気にかかった覚えはない。すると何か事故に巻き込まれたのか? だが身体のどこにも怪我は無い。ただ、なぜか一抹の寂しさを覚えた。見知らぬ病室で一人だからかもしれない。
つらつらと考え事をしていると、扉が開かれ村田さんと、医者らしき男性が入ってきた。
「こんにちは、斎藤さん。私は主治医の宮本です」そういうと黒縁のメガネの位置を直した。「お加減はいかがですか? どこか痛むとか、吐き気がするとかは?」
宮本先生の口調は柔らかく、口角も上がっているが、メガネの奥の瞳は真剣な色をたたえている。
「体は特に変わりないように思えます。それだけに、何故ここにいるのかが分からない事が気になっています」
私の答えに先生は、うんうんと何度も頷いてみせた。
「斎藤さんは自宅前で倒れていたところを発見され、搬送されてきたのですよ。覚えがありませんか?」
自宅前……。いくら考えてみても、自分がどうしていたのか全く思い出せない。一番新しい記憶は、いきつけの居酒屋で飲んでいたところだ。それも今となっては何日前なのか分からなかった。
「今日は何日ですか? 私はどれくらいで退院できるのですか? それと——」
立て続けに繰り出される私の質問に、根気よく付き合ってくれる宮本先生。話をしているうちに私も段々と落ち着きを取り戻していった。
病院の消灯時間は早い。看護師さん達が、夜も忙しそうにしている音が伝わってくる。私はスマホを取り出し、動画を見ている間に寝落ちしていた。
だれ? だれかが私を呼んでいる。どこかで聞いたことがある、とても懐かしい……。
「斎藤さーん。お早うございます。朝の検温の時間です」
「あ、おはようございます」
朝の担当は昨日の夜勤からの引き続き、村田さんだった。
「朝食のあと手続きが済み次第、退院となりますので、後ほど書類をお持ちいたしますね」
「はい、お世話になりました」
——
久々の自宅は何だか広く感じられた。狭い病室にいたからかもしれない。
病院の朝食だけでは物足りず、昼には少し早いがお腹が減ってしまった。食材を買い出しに行くのには億劫で、私は出前を頼んだ。いつもいく近所の蕎麦屋さん。
「はい、いいえ? 一人前で」
何度も店に食べに行っていたと思うのだが、私はそんなに大食漢だと思われていたのだろうか?
まあいい、出前が届くまでの間に、シャワーでも浴びるとしよう。
目覚めてからずっと付きまとう寂寥感。胸にポッカリと空いた大きな穴。
鏡の中の自分が、どこか文句言いたげな目をしているのが納得いかず顔を背けた。
——
翌日、外来の待合室は思いのほか空いていた。呼ばれるまでの数分間、私は自分の胸に手を当てて、あの寂寥感の正体を確かめようとしていた。何も掴めない。当たり前だ、手で触れて分かるようなものではないのだろう。
「斎藤さーん、斎藤群音さんどうぞ」
診察室に入ると、宮本先生はいつもの柔和な笑みで私を迎えた。だが目は笑っていない。
「では、少し検査をしましょうか。楽にしていてくださいね」
先生が私の額に、見慣れない機器を軽く当てる。ひんやりとした感触。
「ちくっとしますよ」
その瞬間だった。目の奥でチカチカと光が明滅し、頭の奥で何かがはじけ、全てが繋がった。
――違う。奪われたんだ。
断片的な映像が、堰を切ったように流れ込んでくる。この診察室と同じ場所。同じ機器。同じ、微笑みを浮かべた宮本先生。私は横たわり、抵抗する力もなく、何かを引き抜かれていく感覚があった。もんもん。私の愛しい同居人——それが、根こそぎ引き剥がされる瞬間。悲鳴を上げたはずなのに、声は誰にも届かなかった。
目の前が真っ白になり、次に気がついたときには、あの病室のベッドの上だった。
「――あなたは」
声が震えた。
「私から、もんもんを、奪ったんですね」
宮本先生の表情から、初めて柔和な仮面が剥がれ落ちた。眼鏡の奥の瞳が、こちらを静かに見据えている。
「思い出されましたか。……想定より早い」先生はカルテを閉じ、椅子に深く座り直した。「ええ、その通りです。私たちは、あなたからもんもんを摘出しました。本来であれば、処置を受けた方がそれに気づくことは、まずないのですが」
「どうして、こんなことを」
問い詰める私の声に、先生は淡々と答えた。
「もんもんは、この世界にあってはならないものなのです」
抑揚のない口調が、かえって不気味だった。
「もんもん因子を持つ者は、発見され次第、処理する。それが決まりですから」
「処理……」
「ご安心を。あなたの生命そのものに危険はありません。処理されたのは、あくまで因子だけです」
先生は眼鏡の位置を直す。指先が、フレームの端にそっと触れた。
「本来、処置を受けた相手に悟られぬよう配慮しているのですが――今回は、上手くいかなかったようですね」
そう言った瞬間、先生の眼鏡が、不気味な光を帯びたように見えた。実際には、ただ蛍光灯の光が反射しただけなのかもしれない。けれど、その一瞬、レンズの奥の瞳が本当に感情を持っているのか、疑わしくなるほどだった。
私は椅子から立ち上がろうとしたが、足がすくんで動かなかった。
――ぐんぐん。
また、あの声が聞こえた気がした。今度ははっきりと、自分自身の内側から。
「もんもんを返してください……! もんもんを、返して!」
自分でも制御できないほどの声量だった。喉が裂けそうなほど叫んでいた。
診察室のドアが勢いよく開き、村田さんを含めた数人の看護師が駆け込んでくる。
「斎藤さん、落ち着いてください! 斎藤さん!」
両腕を掴まれ、押さえつけられる。それでも私は暴れることをやめられなかった。頭の中で、何かがぐんぐんと膨れ上がっていくのを感じる。それは怒りとも、悲しみとも違う、もっと根源的な――欠落そのものが訴えかけてくるような衝動だった。
「返して……お願いだから、返して……」
叫び声は、いつの間にか嗚咽混じりの懇願に変わっていた。押さえつける手の力は緩まない。視界の端で、宮本先生が椅子に座ったまま、こちらをじっと観察しているのが見えた。動揺している様子はない。むしろ、何かを確認するような、静かな眼差しだった。
「――やはり、想定より進行が早い」
先生が小さく呟いたのが聞こえた。まるで私の狂乱など見えていないかのように落ち着いた声。
「村田さん、鎮静を」
「はい、先生」
腕に冷たい感触が走る。針が刺さる、鈍い痛み。
徐々に、身体から力が抜けていくのがわかった。視界がぼやけ、看護師さんたちの声が水の中で聞くように遠くなっていく。
意識が完全に途切れる直前、私は最後の力を振り絞って、宮本先生を睨みつけた。
「……あなたたちに、何が分かるの」
声は、もう自分のものとは思えないほど掠れていた。
「もんもんが、ない世界で、生きるのが……どんなことか」
先生の表情が、一瞬だけ揺れた気がした。憐れみなのか、後悔なのか、それとも別の何かなのか。確かめる前に、私の意識は闇に沈んだ。
——
「目が覚めましたね。具合はどうですか? どこか痛みますか?」
白衣を着た女性が話しかけてくる。
「いいえ、どこも痛くありません。ここは病院ですか? 私はどうしてここに?」
私の質問に、女性は優しく微笑んだ。




