もんもんぐんぐん
最初にそれを聞いたのは、夜の二時だった。
壁の向こうから、低く、湿ったような音がした。
――もんもんぐんぐん。
寝ぼけているのかと思ったが、耳を澄ますと確かに続いている。
規則的なようで不規則、呼吸のようで呼吸ではない。
生き物の気配はあるが、動物の声とは違う。
壁紙の裏側で、何かが膨らんだり縮んだりしているような、そんな音だった。
翌朝、管理会社に電話した。
「壁の中で何か鳴っている」と言うと、担当者は笑いながら「ネズミでしょう」と答えた。
だが、あれはネズミの音ではない。
ネズミはもっと軽い。乾いた。
あの音は湿っていて、重く、どこかで脈打っている。
夜になると、また聞こえた。
――もんもんぐんぐん。
昨日より近い。
壁の向こうではなく、壁そのものが鳴っているように感じた。
耳を当てると、わずかに温かい。
壁が温かいという事実に気づいた瞬間、背筋が冷えた。
翌日、壁を叩いてみた。
コン、と乾いた音が返ってくるはずだった。
しかし、返ってきたのは鈍い、肉を叩いたような音だった。
叩いた部分が、わずかに沈んだ気がした。
その夜、音はさらに大きくなった。
――もんもんぐんぐん。もんもんぐんぐん。
呼吸のような、心臓のような、胎動のような。
部屋全体がそのリズムに合わせて揺れているように感じた。
眠れない。
音が頭蓋の内側に入り込んでくる。
翌朝、壁紙の一部が膨らんでいるのに気づいた。
直径十センチほど、丸く盛り上がっている。
触ると、やはり温かい。
押すと、ゆっくりと押し返してくる。
私は管理会社に再度電話した。
「壁が膨らんでいるんです」
担当者は面倒くさそうに「湿気でしょう」と言った。
湿気で押し返してくる壁があるものか。
その夜、膨らみはさらに大きくなった。
もはや壁紙が耐えきれず、薄く裂け目ができている。
そこから、かすかに赤いものが見えた。
肉のような、内側から光を吸うような赤。
――もんもんぐんぐん。
音は膨らみから直接響いていた。
私は恐怖よりも、奇妙な期待を抱いていた。
この壁の向こうに何がいるのか。
何が生まれようとしているのか。
翌朝、裂け目はさらに広がり、赤いものが露出していた。
それは脈打っていた。
壁の中に、巨大な心臓のようなものが埋まっている。
そんな馬鹿な、と頭では思う。
だが、目の前の現実はそれ以外に説明がつかない。
私はスマホで写真を撮ろうとした。
その瞬間、赤い肉がピクリと動いた。
まるでこちらを意識したかのように。
――もんもんぐんぐん。
音が変わった。
呼吸のようなリズムに、わずかな抑揚が混じった。
言葉のような、意思のような。
私はスマホを下ろした。
撮ってはいけない気がした。
この存在は、光を嫌う。
記録されることを嫌う。
そんな直感があった。
その夜、私は眠れなかった。
音はもはや壁だけでなく、床からも天井からも響いていた。
部屋全体が、巨大な生き物の体内のようだった。
私はその中心にいる。
――もんもんぐんぐん。もんもんぐんぐん。
音が私の呼吸と同期し始めた。
吸うときに膨らみ、吐くときに縮む。
私の心臓の鼓動と重なり、区別がつかなくなる。
翌朝、壁の膨らみは消えていた。
裂け目も、赤い肉も、跡形もなく。
壁紙は元通り、乾いた白い面をしていた。
叩くと、普通の壁の音がした。
私は安堵した。
夢だったのかもしれない。
そう思いたかった。
だが、部屋を出ようと玄関に向かったとき、足元で何かが鳴った。
――もんもんぐんぐん。
床が、わずかに膨らんでいた。
昨日の壁と同じ形で。
同じ温度で。
同じリズムで。
私は立ち尽くした。
音はゆっくりと、しかし確実に大きくなっていく。
――もんもんぐんぐん。もんもんぐんぐん。
部屋全体が呼吸している。
私を包み込むように、育てるように、あるいは飲み込むように。
そのとき、私は気づいた。
あの音は、外から聞こえていたのではない。
私の体の奥で、ずっと前から鳴っていたのだ。
壁はただ、それを映していただけ。
もんもんぐんぐん。
もんもんぐんぐん。
音は私の鼓動と完全に一致した。
私は深く息を吸った。
部屋もまた、同じタイミングで膨らんだ。
もう逃げられない。
いや、逃げる必要はない。
これは共鳴だ。
同化だ。
帰還だ。
私はゆっくりと目を閉じた。
音は優しく、温かく、私を包み込んだ。
――もんもんぐんぐん。
それは、世界の胎動だった。




