紺碧の境界線、あるいは逃避行の果てに響く「最期のスタンダード」
パリの石畳は、敗者に鞭打つために凍てついている。
ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ。
再生の産声を上げたはずのその音は、一夜明ければ、またもや冷酷な現実の重圧に押し潰されようとしていた。
資金難。団員の離脱。そして、伝統という名の「死臭」を撒き散らす保守層からの無言の圧力。
僕は、借り物のタクトを握りしめることもなく、ただ愛用のフルアコの弦を虚ろに弾き、夜の帳が降りるのを待っていた。
「……フン。やれやれ。天才の再建計画も、所詮は砂上の楼閣だったというわけか」
僕は、窓の外に広がるセーヌの濁流を見つめ、毒づいた。
エリート学生などという皮を被り、完璧主義という名の武装を解かずに生きてきた僕にとって、この「ままならなさ」は、航空機事故の記憶と同じくらい、僕の肺を圧迫する。
かつてボストンという座標に僕を縫い止めていたのは物理的な恐怖だったが、今、僕を縛り付けているのは、己の無力さという名の透明な鎖だ。
だが、その沈黙を切り裂くのは、いつだって「彼女」の身勝手な共鳴だった。
「キミ。……そんなところで、宇宙の迷子みたいな顔をしてどうしたんですか?」
メグ・ポッター。
僕の平穏を蹂躙し、僕の論理を瓦礫に変え、それでもなお、僕が「接続」を絶つことのできない、壊れた青い傑作。
彼女は、ボストンから持ち込んだ『スペース・ごろ太』のぬいぐるみを小脇に抱え、僕の部屋のドアを蹴り開けて入ってきた。
「……メグ。ノックくらいしろ。それに、今はキミの相手をしている暇はない」
「暇なんて、銀河の塵を掃いて集めればいくらでも作れますよ。それより、キミ。……逃げたいんでしょ? この『座標』から」
彼女の青い瞳が、僕の深淵を覗き込む。
玖渚友の静謐さと、残酷なまでの純粋さを宿したその視線。
彼女には、僕がどれだけ言葉で武装しても、その内側に潜む「臆病な少年」の姿が丸見えなのだ。
「逃げる? 僕が? 笑わせるな。僕は、このマルレを欧州ジャズ界の革命児に変えるためにここに来たんだ」
「あは。……嘘つき。キミのギター、今にも泣きそうな『My Funny Valentine』を奏でてますよ。悲しくて、美しくて、でも、どこにも行き場がない音」
メグは、ピアノの前に座ると、僕の論理を解体するように、暴力的なまでの不協和音を叩きつけた。
それは、僕が構築しようとしていたマルレの新しいサウンドを、さらにその先へ……誰も足を踏み入れたことのない「混沌の向こう側」へと誘う、悪魔の誘惑。
「キミ。……二人で、銀河の果てまで逃げちゃいましょうか。楽譜も、歴史も、伝統も……全部、スペースデブリにして捨てちゃって」
彼女の指が、鍵盤の上で躍る。
奏でられるのは、僕と彼女が最初に出会ったあの日、ゴミ溜めの中で響いていた、あの圧倒的なジャズ・スタンダードの変奏。
だが、その音色には、以前にはなかった「焦燥」と「別れ」の予感が滲んでいた。
「……何を言っている。キミは、シャルル・オクレールの指導を受けて、プロの荒波に出る準備をするんだろう?」
「プロ? ……ああ、あの『型』という名の檻のことですか。そんなの、キミがいなきゃ、ただの退屈な葬式ですよ。私は、キミが奏でるノイズの中でしか、息ができない」
メグの笑みが、月光に照らされて青白く輝く。
それは、世界を救う聖女のようでもあり、すべてを道連れにする魔女のようでもあった。
僕は、衝動的にギターを手に取った。
彼女の奔放なピアノに、僕の冷笑的な言葉を、音に変えてぶつけるために。
論理と数学で固めた僕のフレージングが、彼女の野生の感覚に侵食され、見たこともないような「青い炎」となって燃え上がる。
共鳴。
それは、救いであると同時に、破滅へのカウントダウンだ。
「キミ。……聞こえますか? 終わりの始まりを告げる、テンション・ノートが」
メグの演奏が、絶頂に達した瞬間。
彼女は、ふいと鍵盤から手を離した。
室内に残されたのは、耳に痛いほどの静寂と、彼女が残した「さよなら」の残響。
「……メグ?」
「……壊れてる。だから、キミが必要だった。でも、キミはもう、私がいなくても、銀河を一人で飛べる羽を手に入れちゃったみたいだから」
彼女は、無邪気に、そして残酷に笑った。
その瞳には、一滴の涙も浮かんでいなかったが、僕には、彼女の魂が、粉々に砕け散る音が聞こえた気がした。
彼女は、僕の返事を待たずに、部屋を飛び出していった。
『スペース・ごろ太』を抱えたその背中が、パリの闇に溶け込んでいく。
「……待て、メグ! まだ話は終わっていない!」
僕は、ギターを放り出し、彼女を追って石畳を駆けた。
だが、そこには、ただ凍てついた風が吹き抜けるだけで、彼女の「青い余韻」はどこにも残っていなかった。
ル・マルレの再建。
欧州ジャズの革命。
そんな高邁な理想が、今、彼女という一人の少女の不在によって、砂のように崩れ落ちていく。
僕は、夜のパリの真っ只中で、立ち尽くした。
かつてボストンで、飛行機に乗れない自分を呪っていた僕。
今、翼を手に入れ、どこへでも行けるはずの僕は、守るべき「座標」を、自らの傲慢さで見失ってしまったのだ。
「……やれやれ。欠陥品同士、最後まで仲良くゴミ溜めで共鳴していればよかったんだ」
僕は、誰にも届かない言葉を、夜空に吐き捨てた。
空には、銀河の塵のような星々が冷たく光っている。
僕たちのジャズ・スタンダードは、まだ、完結していない。
未完成のスコアを抱えたまま、僕は、彼女が消えた「青い迷宮」へと、足を踏み出すしかなかった。




