表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/6

星を喰らう簒奪者(アップスタート)、あるいは不完全な夜への変奏曲

ボストンの冬は、一度捕らえた獲物を決して離さない。二月の冷気は、チャールズ川を渡るたびに鋭さを増し、僕の皮膚を、思考を、そして音楽を、凍てつく静寂の中へと封じ込めようとする。


僕、ショーン・ハミルトンは、バークリーの練習室の片隅で、一人「座標」の重さに耐えていた。

指先は冷たい。だが、それ以上に冷え切っているのは、僕の未来だ。本場ニューヨークへのチケットを、この重度の飛行機恐怖症という名の「鎖」が焼き払い続けている。


「……ショーン。また接続アクセスエラー? 思考回路が、フリーズしてるみたいだよ」


無機質な、しかし残酷なほど透き通った声が、防音室の重い沈黙を切り裂いた。

ピアノ科二年生、メグ・ポッター。

彼女は練習室の隅に置かれた「Fender Rhodes」の前に蹲っていた。青白い肌、吸い込まれるような青い瞳。感情を排したその瞳は、まるで世界をデータとして解体し、再構築するためにのみ存在しているかのようだ。


「……勝手に入ってくるなと言ったはずだ。ポッター」


「だって、外は零下だよ? ここなら、ショーンの作る美味しい『ハミルトン・特製パスタ』の香りが残ってる気がしたから」


「そんなものは残っていない。それに、今は練習中だ。……去れ」


「練習? ……嘘だ。キミ今叩いてるのは、音楽じゃない。ただの、正確なメトロノームの音。死んだ、灰色の信号。そんなの、面白くないよ」


彼女はそう言うと、おもむろに立ち上がり、ローズの鍵盤に指を置いた。


鳴り響いたのは、深夜の底に沈むような『Round Midnight』の断片。

だが、それは既存のどのジャズ理論とも乖離していた。メロディラインをあえて破壊し、ローズ特有の歪んだ音色を重ねることで、不穏な、しかし抗いがたい引力を持つ「青い宇宙」を構築していく。


「やめろ、ポッター。それはコード進行を無視している。ジャズは論理とスウィングの完全なる数学だ。お前のようなデタラメは――」


「数学? ……あはは。ショーン、キミの数学は、まだ『虚数』を知らないんだね」


メグは無邪気に、しかし残酷なまでの純粋さを宿した笑みを浮かべ、さらに激しく鍵盤を叩いた。

彼女の音は、僕が積み上げてきた完璧な設計図を、一枚残らず引き裂いていく。それは音楽という名の「暴力」であり、同時に、僕が心の奥底で渇望していた「救済」でもあった。


翌日、僕たちに突きつけられたのは、ある人物の来訪だった。

ハンス・アクセル・フォン・シュタイン。

世界的なジャズ・インプレサリオ。音楽の歴史を動かしてきた生ける伝説。

……だが、目の前に現れたのは、ド派手なシャツに身を包み、昨夜のクラブ「One More Kiss」での余韻を引きずった、救いようのないエロジジイだった。


「ハッハー! 君が伝説のハミルトンの息子かい? 坊や、ピアノは上手いようだが、顔がちっともスウィングしてないね!」


「……シュタイン氏。あなたの評判はかねがね。ですが、今の僕に必要なのは、あなたの私生活の武勇伝ではなく、確かな指導です」


僕は冷徹に言い放った。だが、シュタインは僕を無視し、部屋の隅で『スペース・ごろ太』のフィギュアを真剣な目で見つめていたメグに駆け寄った。


「おお! こっちのベイビーは、なんていい目をしているんだ! まるでブルーノートの真理を、最初から知っているような……」


「ミルヒー。……キミ、変な匂いがする。安物のバーボンと、古いレコードの匂い」


「ミルヒー!? ……あはは! 気に入ったよ、ベイビー! よし、決めた! 僕はここで、臨時のビッグバンドを作ることにするよ。名付けて、『シュタイン・スペシャル・セッション・バンド』……通称、Sビッグバンドだ!」


それが、全ての狂騒の始まりだった。


シュタインが選んだメンバーは、正規のビッグバンドから漏れた「選りすぐりの変人」ばかりだった。

テナーサックス奏者のライアン・ミラー。ロック・サックスに傾倒し、ド派手なエフェクターを繋ぎまくる男。

ドラマーのマスミ・オクヤマ。アフロヘアーを揺らしながら、狂ったような変拍子を正確無比に叩き出す「人間メトロノーム」。


「……おい、シュタイン氏。正気か? こんなバラバラの連中で、一体何ができる」


「ショーン、君は副指揮者だ。この連中を、君の完璧な論理で束ねてごらん。……ただし、譜面通りの音しか出せないなら、君に未来はないよ」


シュタインはそう言い残すと、自らは街のストリップクラブへと消えていった。


残されたのは、統制の取れない変人たちと、ピアノの代わりにケータリング用のパスタを要求するメグ・ポッター。

僕は絶望した。

僕の目指す、論理とスウィングが数学的緻密さで組み上がる究極のアンサンブル。それが、このゴミ溜めのようなバンドで実現するはずがない。


だが。


「……やってやる。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか。上等だ」


僕は指揮棒を握りしめた。

飛行機に乗れない僕が、このボストンという座標から飛び立つ唯一の方法。

それは、このノイズの塊を、世界を震撼させる「スウィング」へと変容させることだけだ。


「……いいよ、ショーン。接続アクセス許可。キミの音が、どんな風に世界を解体するのか、私が一番近くで見てあげる」


メグが、静かに笑った。

その笑みは、深夜の地下鉄の落書きのように不気味で、そして誰よりも、僕の孤独に寄り添っていた。


凍てつくボストンの夜、防音室の壁を突き抜けて、不協和音が鳴り響く。

それは、まだ誰も聴いたことのない、青い革命の序曲だった。


僕は指揮棒を振り下ろした。

ここが、僕たちの滑走路だ。


「さあ、始めよう。地獄のスウィングを」


僕の主観が、論理が、そして僕という存在そのものが、メグの鳴らすローズの音色に飲み込まれていく。

だが、その暗闇は、不思議と温かかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ