調律不能な接続(アクセス)、あるいは「青い死体」との共生理論
ボストンの朝は、暴力的なまでの静寂で幕を開ける。窓の外、チャールズ川を覆う薄氷が朝日に反射し、鋭利なガラス破片のように俺の神経を逆撫でする。
俺、ショーン・ハミルトンは、一分の隙もなくプレスされたシャツに袖を通し、自らの「聖域」であるキッチンの中心に立っていた。
手際よく沸騰させた湯に、正確な分量の塩を投入する。ディ・チェコのパスタを放り込み、タイマーをセットする。ソースの乳化は、流体力学に基づいた完璧な攪拌によって成されるべきだ。ジャズが「スウィング」という名の数学であるように、料理もまた、緻密な構成から生まれる芸術でなければならない。
だが、その完璧な朝のルーティンを、壁の向こう側から聞こえる「ノイズ」が粉砕する。
「……ショーン。パスタの音がする。接続許可、求む」
無機質な、しかし心臓の裏側を直接指先でなぞるような声。
俺は溜息をつき、隣室との間に開いた「特異点」を睨みつけた。
メグ・ポッター。
俺が「青い死体置き場(Blue Dead Body Storage)」と名付けた隣室の主。
彼女の部屋のドアを開けるたびに、俺の脳内にある「衛生」という名のOSが致命的なエラーを吐き出す。
床を埋め尽くすのは、基盤が剥き出しになった電子部品、何十枚ものヴィンテージ・レコード、そしてそれらを守るように配置された謎のぬいぐるみたち。だが、奇妙なことに、それらは全て「清浄」だった。ゴミ一つ落ちていない。埃一つ積んでいない。ただ、狂った数学者が計算の果てに投げ出した数式のように、無秩序に、かつ潔癖に積み上げられているのだ。
「……おい、メグ。またお前は、朝からローズを抱いて寝ていたのか」
部屋の中央、白磁のような肌をした少女が、愛用楽器「Fender Rhodes」の鍵盤に頬を寄せて蹲っていた。吸い込まれるような青い瞳。感情の機微を全てデータに変換して処理しているかのような、玖渚友を彷彿とさせる静謐な狂気。
「だって、この子の歪み成分が、昨夜の低気圧と完璧に同期してたから。……それよりショーン、パスタ。ソースはパンチェッタと黒胡椒の、あの攻撃的なやつがいい」
「誰が食わせてやると言った。そもそもお前、三日は風呂に入っていないだろう」
「失礼な。私はきれい好きだよ。ただ、水の分子が肌に衝突する感覚が、今の私のインプロヴィゼーションには過干渉すぎるだけ」
「……屁理屈を抜かすな。さっさと食って、大学へ行くぞ」
俺は毒づきながらも、彼女の前に皿を置く。メグは無邪気に、それでいて残酷なほど純粋な笑みを浮かべ、フォークを手に取った。
彼女が奏でる「音」が、俺の理論を完膚なきまでに破壊したあの夜から、俺の座標は狂い始めている。この「欠陥品」を、俺は無視することができない。
バークリー音楽大学の練習室。
そこには、俺たちの「不協和音」をさらに加速させる老害が待っていた。
「ヘイ! ショーン! 今日も君の背筋は、4/4拍子のグリッドに縛られた墓石みたいに硬いね!」
ハリセン――江藤耕造。ピアノ科の重鎮であり、手に持った折り畳んだ楽譜で学生のリズムを物理的に矯正する、旧時代の化身だ。
「江藤教授。俺の演奏は完璧なスウィングの計算に基づいています。メグのような、理論を無視した暴走とは訳が違う」
「ハッ! 完璧な計算? ジャズは死体解剖じゃないんだぞ、坊や。……メグ! お前もだ! なぜその小節で『My Funny Valentine』のコード進行を勝手にモーダル・ジャズへ変換した!」
メグは虚空を見つめたまま、ローズの鍵盤を指先でなぞった。
「だって、先生の指示する和声は、グレー一色のコンクリートみたい。この曲はもっと、深夜の地下鉄の落書きみたいな色が似合うのに」
「色はいい! 譜面を読めと言っているんだ!」
激昂するハリセン。だが、メグは聞こえていない。
彼女にとって、譜面はただの「設計図の残骸」に過ぎない。彼女が必要としているのは、耳から流れ込み、脳内で再構築される、純粋な音のエネルギー。
「……ショーン。もう一度、接続して」
メグが、俺のギブソンのフルアコを指差した。
「……チッ。一曲だけだぞ」
俺はギターを抱える。指先が弦に触れた瞬間、空気が変わる。
俺が提示するのは、最高精度の「論理」。コード進行の可能性を極限まで計算し、最も美しい解へと導く。
対して、メグが鳴らすのは、剥き出しの「本能」。歪んだローズの音が、俺の計算の隙間に、ナイフのような鋭利さで割り込んでくる。
俺たちの音がぶつかり合い、火花を散らす。
それはデュエットなどという生温いものではない。音による「解体」と「再構築」の対話だ。
俺が完璧なスウィングを叩きつければ、彼女はそれをポリリズムで粉砕する。
彼女が叙情的な旋律を紡げば、俺はそれを冷徹なテンション・コードで包囲する。
「……っ!」
汗が滲む。脳が焼けるような感覚。
俺は、この「ノイズ」に、魅了されている。
どんなに論理を尽くしても到達できない場所へ、彼女の音が俺を引きずり込んでいく。ボストンの凍てつく冷気を焼き切るような、青い熱量。
「……ブラボー」
いつの間にか、ハリセンがハリセンを下ろしていた。
その眼差しには、困惑と、そして一筋の「畏怖」が混じっていた。
「ショーン。お前は彼女を御そうとしている。だが、それは間違いだ。彼女という暴風域の中心で、お前自身がどう響くか……それこそが、お前の探している『答え』なんじゃないのか?」
「……御す? 冗談はやめてください。俺はただ、この欠陥品の尻拭いをしているだけだ」
「……ふふ。ショーン、顔が真っ赤だよ。オーバーヒート?」
メグが、無邪気に笑う。
俺は何も言わず、ギターをケースに叩き込んだ。
帰り道。雪が降り始めた。
「ケープコッドの雪は、もっと塩の香りがした気がする」
メグが、空を見上げて呟く。
「……メグ。お前、なぜそんなに譜面を拒絶する」
「拒絶してるわけじゃないよ。ただ……記号の中に閉じ込められた音が、泣いてるように見えるから。私は、音を自由にしてあげたいだけ。おなら・グルーヴみたいに、みんなが笑える音に」
「……バカか。お前の才能は、そんな低俗なもののためにあるんじゃない」
「低俗? ……そうかな。ショーン、キミの料理、美味しいよ」
唐突な言葉に、足が止まる。
「キミの料理も、キミの音も、すごく丁寧に『設計』されてる。でも、時々、その隙間から、すごく悲しい風の音が聞こえる。……飛行機、怖いんだよね、僕様ちゃん」
心臓が跳ねる。
俺の、誰にも踏み込ませなかった「座標」の核。
重度の飛行機恐怖症。ニューヨークへも、欧州へも行けない、檻の中の自分。
「……黙れ。お前に何がわかる」
「わかるよ。接続してるから」
メグは、青い瞳で俺を射抜いた。
その瞳には、憐れみも、嘲笑もなかった。ただ、鏡のように俺の絶望を映し出していた。
「壊れてる。……だから、私が隣にいるんだよ。キミが飛べないなら、私がこのボストンを、世界で一番ヒップな滑走路に変えてあげる」
それは、あまりにも傲慢で、あまりにも純粋な、宣戦布告だった。
「……フン。寝言は寝て言え。とりあえず、今日は風呂に入れ。さもなければ、明日のパスタは抜きだ」
俺は早足で歩き出す。
背後から、衣擦れの音と、静かな笑い声が追いかけてくる。
ボストンの冬は、まだ始まったばかりだ。
だが、俺の心臓は、かつてないほどのリズムで「スウィング」し始めていた。
論理と本能。
完璧と欠陥。
その特異点で、俺たちの物語は、加速していく。
「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」
吐き出した溜息は、もう白く凍りついてはいなかった。




