終焉を告げるテンション・ノート、あるいは神を欺くためのブルー・ノート
パリの冬空は、どこまでも冷酷なまでにクリアだった。
凍てつく石畳を叩くメグの足音は、僕の脳内で緻密に計算されたポリリズムを、無慈悲に、そして鮮やかに解体していく。
ポケットの中で重なり合う指先から伝わるのは、ただの温もりではない。
それは、音楽という名の戦場で互いの魂を喰らい合う、共犯者の拍動だ。
「……あは。キミ。……お空の星々が、なんだか変拍子で踊ってるみたい」
メグは空を見上げ、透明で残酷な笑みを浮かべる。
彼女の瞳に映る「死線」は、もはや絶望の象徴ではない。
それは、既存の理論という名の殻を突き破り、未知の音響空間へと跳躍するための、唯一の座標だった。
メグ・ポッター。
マサチューセッツの荒波と潮風に磨かれた、野生の宝石。
彼女は、僕が築き上げた論理の迷宮を、たった一音の「青」で無に帰す。
フェンダー・ローズの歪んだ倍音が、僕の書いた緻密なスコアを侵食し、僕の知らない「真理」を暴き出す。
その瞬間、僕は理解するのだ。
僕が目指していた「完璧」など、彼女の放つ一音のノイズの前では、ガラクタに等しいということを。
「……メグ。お前は、まだ自分が何を生み出したか、その重さを理解していないな」
僕は、彼女の指先を握る力を強めた。
その華奢な指関節が、どれほどの重圧に耐えながら、あの暴力的なまでの美しさを紡ぎ出しているのか。
彼女は僕に追いつくために、自らの聖域を捨てた。
「音楽は楽しむもの」というモットーを胸に秘めながら、プロという名の、血で血を洗う戦場へ志願したのだ。
「……あは。……おもさ、なんてわかんないよ。……キミと一緒に、ワープ航法で銀河を駆け抜けてるんだもん。……重力なんて、もうどっかに行っちゃった」
彼女は僕の腕にしがみつき、銀河法典を書き換えるような無邪気な声で笑う。
だが、その笑顔の裏には、僕を一人にさせないという、狂おしいほどの執着が張り付いている。
彼女は僕の欠陥を愛し、僕の冷笑を「接続」の鍵として受け入れた。
僕たちは、ゴミ溜めの中で共鳴する、壊れた楽器なのだ。
不意に、僕たちの前を横切る風が、遠くの教会の鐘の音を運んできた。
その響きは、完璧に調律された「B♭」のドミナント。
だが、僕の耳には、その響きさえも彼女が奏でる不協和音の一部として、極上のテンションを孕んで聞こえた。
「……聴こえるか。世界は、お前の音を待っている」
「……ううん。……あたしは、キミに聴いてほしいだけ。……キミのいない世界なんて、あたしにとっては音のない宇宙塵と同じだよ」
彼女は僕の胸元に顔を埋め、静かに、だが僕の存在を証明するように、その拍動を刻み続ける。
僕は、彼女の肩を抱き寄せ、冷たいパリの闇の中へと、力強く足を踏み出した。
理論も、伝統も、名声も。
そんなものは、彼女が放つ「おなら・グルーヴ」の爆発の前では、ただの燃えカスに過ぎない。
僕は、僕の書く譜面で、彼女という怪物を解き放つ。
それが、僕という「座標」を失った男に許された、唯一の救済。
僕たちは、もう戻れない。
ボストンの音大裏、あの「レッド・ランタン」の賑やかさにも。
何も知らずに、ただ楽しむためだけに音を重ねていた、あの眩い日々にも。
僕たちが選んだのは、永遠に終わらないインプロヴィゼーション。
互いの魂を削り、和音の隙間に落ちるまで、踊り続けるための旋律。
「……行くぞ、メグ。……お前の『ノイズ』が、パリの伝統を焼き尽くす瞬間を見せてやる」
「……あは。……望むところだよ、キミ。……あたしのピアノ、今日はとっても……意地悪なんだから」
僕たちは、夜の深淵へと加速していく。
セーヌの川面に映る僕たちの影は、一つの歪な、だが完璧なポリリズムを刻みながら、光の中へと溶けていった。
銀河を覆う絶対零度の闇の中で、僕たちの音楽だけが、熱く、狂おしく、命を燃やし続けている。
それが、僕という欠陥品と、彼女という傑作が辿り着いた、唯一の終着点。
僕は、僕のポラリスを離さない。
たとえ、その光が僕を焼き尽くし、跡形もなく消し去ってしまったとしても。




