佐田歩の2月14日 ③
「いてて……。やりすぎだろ、お前。どんだけ食い意地張ってんだ」
結構な勢いで倒れ込んだが、予想外に山田がしっかり抱きとめてくれたおかげで、歩の体に痛みはない。山田はというと、もちろん受け身など取れるわけもなく、歩ごと倒れ込んだから、痛そうに呻いている。
顔をあげると、チョコは頭上1時の方向の2メートルほど先。今なら奪い返せる。歩は山田の体の上を這ってチョコを奪還を目指す。
少し進んだところで、山田に腰の辺りをロックされ進路を阻まれた。もがいても、びくともしない。
「山田、放せ」
「やだ」
「あのチョコは、私のもんだ」
「離さない」
山田は歩の腰に回した手にさらに力を込めた。意地でも進ませないつもりらしい。
歩は呆れてフーッとため息をつく。
「あのな、山田。あんたは知らないだろうけど、バレンタインにチョコをもらうと、お返しってのをしないといけないんだよ。3月14日に!」
チョコを取ろうとさらにもがくが、どれだけ見た目がもやしでも、そこはやはり男子。歩が暴れようが、もがこうが、びくともしない。
「それは十分検討に値するな」
「そんなこと言って、あんたにはお返しの日を覚えておくとか、無理でしょ。そんな奴がチョコを欲しがるのは厚かましい」
「要するに、その言い方だと、お返しをすれば、チョコくれるってことだな?」
食い下がられて、歩は唸る。
「今年、このチョコをもらう。それから来年と再来年もチョコをもらって、再来年、受験が終わったらまとめてお返しをする。それで良いだろ?」
歩の胸の下で、山田は納得したように、うんうんと頷く。
「あんた、話聞いてた? 日本では、3月14日にホワイトデーってのがあるんだよ。もらったら、毎年返すのが礼儀だよ」
「いや、俺、受験終わったら、まる二日ぐらいUSJで遊びたいんだ。お返し、それにするわ」
「あんたね、ほんと、何言ってんの?」
「いや、だから二年後にUSJ連れていくって」
「それって、旅行でしょ? 一泊二日ぐらいの」
「そう。たこ焼きも食いたいし、もう一泊しても良いな。金なら心配ない。ずっと年玉貯めてるから」
お前もガム食う? みたいなノリで山田は言う。
歩は再度深いため息をつく。
「山田……。あんたね。いくら私たちが友達だからって、ホワイトデーのお返しに旅行はないわ。それじゃ、あんた、私の彼氏だよ」
歩が言うと、山田は歩の胸の下でモゴモゴと発言した。
「だから、旅行に行こうって言ってんじゃん」
どの顔がそんな冗談を言うのか見てやろうと、歩は地面に腕をついて力を入れた。腰に回っていた山田の手にも力が入って、思うように体を持ち上げられない。
「あのね。もう一回言うけどね……」
山田がすかさず言葉を遮る。
「言う必要なし。そのまんまの意味だから。……それで、結局、チョコ、くれる?」
ただ一人逆上がりができなくても、泰然自若としていた山田。
ただ一人泳げなくても表情一つ変えなかった山田。
その山田は今、どんな顔でこれを言っているのか。
歩は山田の顔を見ようともがいた。
空いた隙間からバンバンと頭を叩くと、山田がゆっくり力を緩める。
手をついて、山田の顔を見ると、ずれたメガネの下で、今まで一度も見たことないような顔をして真っ赤になっている。
「山田、真っ赤だよ」
歩がいうと、山田は子供の頃よりはるかに大きくなった片方の手で、自分の顔を隠す。
「お前と言うやつは、人が勇気をふりしぼって……」
「やっぱ本気なんだ?」
「本気じゃなくてこんなこと言うか? ただでさえ少ない友達が一人減るかもしれないんだぞ。でも、今言わないとダメだって思った。今を逃すと、たぶんずっと言えない」
山田は相変わらず顔を隠している。腰に回されていた方の手の力はすっかり弱まっている。歩は体を起こして、山田の腕を除けようとした。
「やめろ」
「良いじゃん」
「で、チョコくれるの?」
「あげるって言ったら?」
「手を除けてもいい」
「わかった。あげるよ」
答えても山田は手を除けない。なんだ、嘘つき、と山田を小突く。
「来年もくれる?」
「うん」
「再来年も?」
「……たぶん」
山田はやっと顔を見せた。
「ほら、座って」
引き起こそうとしたが、山田は寝転んだまま真剣な眼差しを歩にむけた。
その瞬間、歩の体に、衝撃が走る。
まや先輩の言ってたことが、今ならわかる。
ああ、そうか、理屈じゃないんだ。
「さっきの……、気持ちよかった。もう一回、顔の上に胸……」
山田の言葉が、歩を現実に引き戻す。
ずっと上に乗っていたのに、退けと言わなかったのはそういうことか。
山田をジロリと睨め付ける。
「あんた、何言ってんの? エロい!」
山田の体を思いっきり叩くと、その腕を引っ張られて、再びさっきの体勢に戻された。昨日までの歩だったら殴り飛ばすところだ。
胸の下からモゴモゴと山田の声がする。
「兄弟四人もいたらわかるだろ。男なんて、結局そんなもんだ」
隙間から頭をバシンとたたくと、
「やばい、めちゃくちゃ気持ちいい」
と山田が言うので、変態かよと思わず笑った。
静かになると、山田が、好きだよ、と一言呟いた。
--2月15日。
佐田家のリビングのこたつに、きょうだい全員が揃っていた。
「歩、これ買いに行った時、なんかあった? 板チョコ、バッキバキなんだが」
バリバリに割れた板チョコの銀紙を注意深く外しながら、一番上の兄が聞く。隣では、三番目の兄が大きな手で、割れたクランチ入りホワイトチョコのかけらをそーっとつまんで食べている。二番目の兄は、割れたチョコと歩の顔を、ニヤニヤしながら交互に眺めている。
「まぁ、バレンタインだしね」
歩は答えると、みかんを一房口に入れる。
「お前、今年はあれ買ってないの? 十円チョコの詰め合わせ。いつも一緒に食うじゃん」
「ああ、あれね。人にあげた」
一番上の兄が眉間にシワを寄せ、二番目の兄がニヤリと笑い、三番目の兄は心配そうに目を泳がせる。
弟が、俺だけチョコが少ないと文句を言うと、兄姉たちから全員一致で、虫歯になるからだめ! と返されてシュンとした。
歩は最後のひとふさを自分の口に放り込み、もう一個食べようと炬燵に持ってきていたミカンを弟の方へ転がした。
同時に携帯が鳴った。
送られてきた写真には、チョコを全部平げて得意顔の山田。
「歯磨きしろよ」
小学生の弟に言うようなメッセージを送って、こたつの上に携帯を放り投げる。それから思い立って、歩はもう一度携帯を取り上げてメッセージを送る。
「お返し、忘れんなよ!」
秒で山田から、
「任せとけ」
と返事が来た。
たぶん、再来年の春は二人で大阪にいるはずだ。