酒乱(時系列は野菊五歳時)
お酒に弱いか弱くないかなんて、生きていくうえでそう重要な事ではない。
飲めないからといって有能ではないとは限らないし、飲めるからと言ってその人が良い奴とも限らない。勉学の差なんてのも勿論無いし、どちらがモテるモテないなんてのも関係ない。
たかが飲み物。
上も下も全く関係のないものである。
しかし、こと職業によっては、それが重要だったりもしてくる。
「お前、俺の酒が飲めねぇのか」
「い、いや」
「覚悟!」
「ぐぼほぉっ」
今、食堂には朝食を食べに来たわけなのだが、どうやら違う者もいるようであった。
「あれだいじょうぶかな」
「可哀想にな」
今日も寝相の悪かった私はこっ酷く、とはいかないものの生焼け気味な説教を秋水からくらい、それから共にこの腹の虫を起こさせるいい香りが漂った食堂に来たのだが、そんな私たちの目の前で繰り広げられるのはとんでもない悪代官様と子分の一コマだった。
隣にいた秋水と目を見合わせて同情的な視線を被害者へと送る。
「あ、くら!やめ、ぶほっ」
「良い飲みっぷりだぜ」
阿倉兄ィさまは酒が大好きで有名な人だ。そりゃ酒が好きな人は他にもたくさんいるが、この人はそれを凌ぐほど酒が大好きだ。酒豪万歳と意味不明な事を叫ぶ時もある。それにおいても好きなものがあるというのはとてもいい事だ。人生はそれがあるだけで価値があるだろうし、やる気が出る元になったりもする。無いのがダメだとは言わないけれど、無いよりはあった方が良い。
でもそれは自分の世界の中の話なら、という事を忘れてもらっては困る。
人に無理やり勧める物ではないと思うし、迷惑をかける物ではもちろんあってはならない。自分のテリトリーで楽しむという事が重要だ。人と共有したい者もいるだろうが、それは相手の承諾があってこそのもの。無理やり自分の好きなものを押し付けるのとはまた訳が違ってくる。
「朱禾……大丈夫か」
「兄ィあ、兄ィぅさん」
無理やり酒を飲まされて真っ赤になる朱禾兄ィさまに、羅紋兄ィさまが背を撫でて声をかけた。いつも楽観的で何かあっても「どーにでもなるなる」なお人だけれど、下の者に対しては優しいし面倒見も良い。だから自分もあんな風になれたらな、なんて密かに尊敬している。
でも絶対本人には言わない。だって密かに尊敬しないと、兄ィさま天狗になっちゃうからね。
「お前も酒本当に弱いな」
「ううぅ…」
朱禾兄ィさまは、もうそれどころじゃなかった。哀れにしか思えない。可哀想に。
吉原では酒が飲めるという事は一種のステータスであり、遊男には欠かせないスキルのようなもの。客である女にとってはお酒が弱く酔えるのもまた自分を可愛く見せる要素にもなり万能な武器となっているが、男の場合は違う。弱くては意味がない。客より先に潰れてしまったら元も子も無いのだ。座敷で酒を飲まないという事も出来なくはないとは思うけれど、此処は吉原。女が男を求め、酔いしれる恰好の場である。雰囲気に持ち込むために客の女が酒を頼むのは日常茶飯事だし絶対に避けては通れない。だから酒に弱いということは、遊男である限りは欠点であり恥ずべきこと。
しかしそうは言っても、そんなのはもう生まれ持った体質なのでどうこう言っても仕方がないと私は思っている。ペンギンに空を飛んでみろ、なんて言っているのと同じだ。
「阿倉飲みすぎだぞ。程々にしろ」
「羅紋兄ィさんも飲みません?美味いっすよ」
「……」
若干十四歳の彼。恐れるものはきっと何もないのだろうと悟る。
「これ朱禾んとこ持ってってくれ。食堂に吐かれちゃかなわん」
同情の視線を向けていた私たち二人に飯炊きの人がそう言って桶を渡してきた。私たちとは言っても、桶を渡されたのは私なので秋水は「渡されたお前が行け」とばかりに背中を押してきた。なんて奴だ。
それでもやっぱり朱禾兄ィさまが心配なのでタタッと駆け足で向かえば、彼はもう吐く寸前だった。
「うっ…ぇぇ」
「にっ兄ィさましっかり!」
畳を汚されてしまう前に私はスライディングする勢いで桶を顎下に設置する。同時にモザイクがかるような物が綺麗に桶へと入っていく姿が目に入った。どうやら間一髪だったみたい、と額の冷や汗を拭う。
「阿倉ちっとは反省しねぇか」
「すんませーん」
「……はぁーあ」
全くちっとも反省の色の見えない返事をする阿倉兄ィさまに、羅紋兄ィさまもこりゃ駄目だと生欠伸をした。
酒好きは厄介だ。酒が飲めるというだけで大きな気持ちになってしまう。ならない人もいるだろうけど、飲める人の大半は飲めない人の事を若干見下してる感があると思うのは絶対だ。
阿倉兄ィさまの場合は典型的な酒好きの嫌なパターンであり、もはや清々しいとさえ思える。
「野菊、ほらお前も飲むか?」
「のみませんよ!」
けれど阿倉兄ィさまはこれで平常通りだ。今までの行動でコイツ酔っ払いかと思われるだろうが、これは断じて酔っているのではない。要はこれが彼の性格なのです。
今も私に酒瓶を突き付けてくるが、これもけして酔っているのではなく冗談で笑って酒瓶を掲げているだけ。厄介な性格だけれど、中々賑やかな人なので皆でワイワイする分には楽しい人だった。
朱禾兄ィさまは犠牲になったが。
「そっか ……っおわ!」
「え? …うひゃっ」
そうして呑気に客観視していた私だが、次の瞬間には鼻をツンととがらせる匂いを帯びた冷たい水が全身を包んだ。水は頭から毛先を伝い滴が落ちて、畳へとシミを作る。口にも幾らか入ったようだ。
この匂いは、………お酒だ。
味は、これは……多分お酒だ。
お酒だ、お酒だ、お…さ、け…。
酒瓶を野菊に寄せていた阿倉は、可愛い妹分である彼女の怒った顔を見て笑うと、これぐらいにしておくかと区切りの良いところで酒瓶を胸元に戻そうとした。いくら何でも酒を子供に飲ませるわけにはいかないし、本当に怒らせて嫌われてしまってはそちらの方が嫌だから。
ニコリと笑って瓶を上げる。
「お、うぅぇぇぇ」
「そっか ……っおわ!」
すると後ろにいた朱禾がこれでもとばかりに吐き気にやられ体制を崩した。どうやら最後のひと波が来たようである。けれど体制を倒した先に居たのは阿倉であり、またその先に居たのは五歳児の野菊。
朱禾に背中を押された阿倉は、掲げ上げた酒瓶を手元から放してしまった。
放した、という事はつまり酒瓶は重力に従って落ちて行ったわけなのだが、ただ落ちたのなら畳にシミが出来て「あーあ」で終わるだろう。手拭い持ってこいよ、で片が付くだろう。酒臭くなった畳を見て文句を言われるだけで終わっただろう。
「あ゛ああ!!」
しかし皆、その場に居た者たちの反応はそれとは全くかけ離れていた。誰もが酒を零した先を指さし、尚且つ零した事で余計な事態を招いてしまった事に戦慄した。
「ん、んーんと……ぁけ?」
零した先にあるのは。
「野菊、おおおおお前大丈夫か!!」
野菊であった。
「あ。ぁーけぁーけ」
「あけってなんだ!」
「た、多分酒の事言ってんだろ」
「阿倉ってんめぇ何してくれとんじゃ!」
遊男達は騒ぎ出す。当の阿倉は野菊の頭の酒を袖で拭うとしゃがんで野菊の顔を両手で固定し、すぐに顔色を確かめた。ほんのりと顔は赤く色づいており目がウルウルと輝いている。いつも以上に呂律が回らない様子の彼女に阿倉は冷や汗をかいた。
幼子が酒を飲むというのは果たしてどうなのであろうか。大人でも酔ったら頭は痛くなるものだし、吐き気を催す者もいる(自分は無いが)。場合によっては酒が薬になることもあるとは聞くが、野菊は病人ではないしそもそも大人ではない。
こてん、と首を前に倒した野菊に阿倉は声を掛けた。
「野菊?」
「……う」
「どうした?」
「うっへっへっへ」
ニヘラと口や頬をだらんとさせて笑い出す。
ついにおかしくさせてしまったかと頭を抱えると、野菊は畳の隅に行き両手を壁にへばりつけてそのまま屈んだ。
「みーんみんみん」
皆が注目する中、何処からともなくそんな鳴き声が聞こえ出す。
「なんか始めたぞ」
「なんだあれ」
「蝉だな」
「蝉の真似をしているんだ」
「野菊ぅぅう!」
鳴き声の主は野菊だった。
酔いのせいなのか奇怪な行動をし始めたようである。かがまって更に小さくなっている姿は可愛いの一言に尽きるのだが、呑気にそんなことは言っていられない。
「野菊、しっかりしろ」
「なのかでしぬのです」
秋水が背中を叩いて心配の色を見せたが、野菊はそう言うとゴロンと畳へ倒れ込んでまたミンミンと鳴き始めた。
「可愛いけどワケわかんねぇよ!」
悲鳴にも似た叫び声が上がる。
この妓楼には天月の閻魔大王と恐れられる兄ィさんがいる。
その畏れられっぷりは、天月の目の前にある見世、その楼主の花田様でさえ脅かされているほど。一体過去に何をしたのかは知らないが、あまり怒らせるのは正しくない人だという認識は皆持っている。しかしだからと言って普段から気を使って皆が接しているわけではなく、気兼ねなく話したりももちろんしている。彼が怖いのは、本気で怒らせた時だ。例えば、兄ィさんの背中を叩いただけでは怒らない。髪の毛を引っ張っても怒らない。下ネタを話しても笑顔で聞いてくれる。冗談でも本気でも、兄ィさんの馬鹿!とか言っても怒らない。物腰はとても柔らかい人だから、悪ノリしてくれるか、優しくそっと懐してくれる。
じゃあ何に怒るのか、と言ったら、それは大事なモノを傷つけたり壊されたり、無くされたりした時だ。そんなの皆当たり前じゃないか、と思われるかもしれないけれど、今までの鬱憤が吐き出されるような制裁が犯人に待っている。
過去、呼び出され裏に連れていかれた者たちは、戻って来た時には皆顔を青ざめて返って来た。
阿倉は周りの空気が凍えるのが分かった。振り向きたくはないが今振り向かなくとも結局最悪の展開を迎えるのは同じ。自分可愛さで逃げ回る事も考えたが、逃げてもきっと結果は同じ。つまりはもう終わりなのだと悟っていた。
恐る恐る首を後ろに回す。
「これは――――……なに?」
雪山のような寒さから一転、閻魔大王に灼熱の地獄へと送られるまであと少し。