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 松平元信は無事に寺部城を奪還して初陣を飾り、それどころか織田の援軍さえ蹴散らした武功を太守の今川義元に評価され、念願であった三河の地を一部回復することができた。

 この初陣時の大功により、元信は義元の主戦力として激戦に身を投じていくのだが、それはまだ先の話である。

 寺部城より帰還した幽世はといえば、また元のように野草を摘みにいったり、時々城下に行って(こうがい)や簪を贖ったり、子どもたちと遊んだりしている。

 まるで、寺部城での戦いによって憑き物が落ちてしまったかのように大人しい幽世の姿に、慶雲斎ら家臣も安堵を感じ、束の間の平穏が訪れた。

 ――はず、だったが。

「尾張のうつけどのを見にゆきましょう」

 ある日、遠乗りから帰ってきた幽世が唐突にそう言い放ったときは、またしても家臣一同はぽかんと口を開けてしまった。

「また、たいした難物に興味をもたれたものですな」

 城内の寺堂で、慶雲斎が腕組みしたまま深く嘆息する。

「でしょう。うつけどのは父、弾正どのの没後瞬く間に国内の他織田氏を併呑、屈服させたのです。しかも隣国美濃の斉藤左近太夫(斉藤道三)どのの聟となり、すでに近隣に並ぶものなしといわれているのですよ。家臣にも木下藤吉郎、明智十兵衛など、一癖も二癖もある部将が揃っているとか」

 慶雲斎は少なからず苦言を呈したつもりだったが、幽世はまったく頓着しない。きらきらと両の眸子を輝かせながら、早口に捲し立てている。どこで調べたものか、随分詳しい。

「曲者ぞろいってんなら、うちも大概だがよ」

 板張りの床に大あぐらをかいた影王丸が、耳垢をほじりながら独語した。

「で、どうする」

 壁に凭れて腕組みした葦飼が問う。

「清洲へゆきます。ちょうど、治部大輔さまが近々ご上洛あそばされると聞きました。その際、うつけどのも出向いてくるでしょう。治部大輔さまのご上洛の一助となれるやも知れませぬし、第一……」

 そこまでいって、言葉を切る。

「うつけどのの同胞衆に、〈あちらのもの〉がいると聞きました。どちらにせよ、ゆかずばなりませぬ」

「……なるほど」

 みな、反論はない。殺し文句のようなものであった。

 しばし、寺堂を沈黙が包む。

「やむを得ますまいな。……しからば、また妖魔折伏に参りましょうぞ」

 やがて、緩慢な挙措で、慶雲斎が立てた片膝に手を置きつつ立ち上がった。

「しゃァねェな、そういうことならよ」

 ふっ、と耳垢を吹き飛ばし、影王丸も億劫そうに動き出す。

 葦飼の姿は、既にない。恐らく、早くも信長の動向を探りにいったのであろう。

「さあ、ゆきましょう!」

 ぽん、と幽世が両手を叩く。そして長い黒髪を翻して、空を指差す姿も勇ましく号令した。 

 それは、英雄豪傑綺羅星のごとく割拠する乱世への参入表明でもある。

 日本の歴史上、もっとも激しく国中が輝いていた時代の坩堝に、幽世は今、身を投じたのだ。


〈かくりよ 了〉

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