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「もう、よいでしょう。……やりますよ」

 幽世が言った。抜き放った刀をくるりと手首で回すと、水平に奉げて瞑目する。

 そして、少しずつ息を整えてゆく。最後に大きく息を吸うと、幽世は朗々とした声音で唱えた。

高天原(たかあまはら)神留座(かむづまりま)す 神魯伎神魯美(かむろぎかむろみ)詔以(みこともち)て 皇御祖神伊邪那岐大神すめみおやかむいざなぎのおおかみ 筑紫(つくし)日向(ひむが)の橘の小戸(をと)阿波岐原(あわぎはら)に 御禊祓(みそぎはら)へ給ひし時に生座(あれませ)る祓戸の大神達――……」

 祓詞身滌大祓はらえことばみそぎのおおはらいという。邪を祓い穢れを清める祝詞(のりと)である。

「諸々の枉事罪穢(まがごとつみけがれ)れを(はら)ひ賜へ清め賜へと申す事の由を 天津神国津神 八百萬の神達共に聞食(きこしめ)せと(かしこ)み恐み申す……」

 紡ぎあげた言葉に、力が宿る。幽世の周囲を光が包み込んだかと思えば、黒い髪が、白い小袖や袴が、浮力を得たようにたゆたい始めた。

「掛まくも(かしこ)伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ) 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓へ給ひし時に成り()せる祓戸の大神等 諸々の禍事(まがごと) 罪 穢有(けがれをあ)らむをば 祓へ給ひ 清め給へと|申す事を 聞食せと 恐み恐み申す……」

 祝詞を唱えると、やがて亡者であった光点たちが集まってきた。幽世の祝詞によって生じた柔らかな光に包まれると、魂魄たちの輝きが薄くなってゆく。

「もう、そなたたちを縛るものはなにもありませぬ。……さあ、ゆきなさい。そなたたちのあるべきところへ」

 幽世が刀を納め、水を汲み上げるかのように両手を空へと奉げると、魂魄たちはそれに導かれるかたちで、天へと昇っていった。

 死兵と化した魂魄を神刀や霊珠でなぎ倒したのは、なにも一度死んだ亡者を再度殺戮するためではない。魂魄にかけられた呪縛を祓い、昇天を可能にするための方策であった。

 そして、幽世こそはその術が使える、唯一の存在。あの世の世界――かくりよを覗き、現世ならぬ場所の理に干渉してその力を使うことのできる、ただひとりの人間なのだ。

「お見事なお手並みにございましたぞ、姫さま」

 霊魂たちを昇天させ、疲労困憊したように膝から崩れた幽世を、慶雲斎が抱きとめた。

「……いえ……、まだです。まだ、〈あちらのもの〉が……」

 幽世は慶雲斎に支えられたまま、周囲を見回した。

 ほどなくして、その視線が一箇所に留まる。

「――そこッ!」

 鋭く叫び、一点を指差した。土塁の陰である。

 同時に、弾かれるように影王丸が駆けた。牙のようにも見える犬歯を剥き出し、抜き身の神剣を引っ提げたまま土塁へと跳びかかると、影王丸の躰を掠めるようにさっと土塁の陰から小柄な影が飛び出してきた。

「てめえ……!」

 獲物を仕留め損ね、影王丸が唸った。が、唸った理由はそればかりではない。影に見覚えがあったからである。

 それは、城将鈴木重辰の居室にいた小姓であった。

 ただし先ほど見たときとは違い、顔は皺の寄った老人のそれである。背骨が極端に折れ曲がり、小柄な躰を前屈みにしている。

 姿と面貌の均衡がまるで取れておらず、それがなんともいえぬ禍々しさを感じさせる。小姓はひゅ、ひゅっ、と呼気とも笑い声ともとれぬ息を吐くと、醜怪な皺面を歪ませた。

「巧く変装していたものですね。されど、もう誤魔化されませんよ」

 幽世が凛然と言い放った。

「悔しや、悔しや……もう少しで、元信を亡きものとできたものを……。またしても、うぬらに妨げられしか……」

「そなたたちの好きにはさせませぬ。魂魄を縛し、思うままに頤使(いし)するなど、世の理に反すること」

「世迷言を……。まあよい。わしの術は破られたが、いずれにせよ、うぬらはここで死ぬる他はない……。ほどなく上総介(織田信長)の命を受けた水野信元の軍がやってくる。疲弊したうぬらの兵では、食い止められ得まいが……」

 醜悪に表情を歪ませ、〈あちらのもの〉は笑った。

 水野信元は今川氏と袂を別ち、織田信長の父、信秀と同盟を結んだ武将である。後年三河を安堵された元信と幾度にもわたる領土争いをすることになるが、これが最初の対決ということになる。

「後詰めが……」

 幽世をはじめ、諸将は愕然とした。実体、霊体と二度にわたる寺部城衆との戦闘で、岡崎衆も火輪党も随分数が減っている。第一、〈あちらのもの〉の言うとおり、兵はすっかり疲労しきっていた。

「うぬらが死んだら、そのすだまはわれらが有効に使うてやろうゆえ、安堵して死ね! ひひひッ……」

 援軍来襲の報の虚をついて、小姓は大きく後方へと跳躍した。

「葦飼!」

 いち早く衝撃から脱した幽世が叫ぶ。

 その声が終わらぬうちに、葦飼はイナウを破魔矢として小姓へと射た。

 イナウが白い尾を引いて飛び、狙い過たずに小姓の胸に突き立つ。

「ィギッ!」

 一瞬、小姓の動きが止まる。

「――ッ……しゃああッ!」

 僅かな隙を見逃さず、影王丸が大上段に神剣を振りかぶった。

「ィィィギギギギァァァァァ……!」

 影王丸の神剣が、拝み打ちに小姓の躯体を脳天から分断する。真っぷたつにされた小姓は皺だらけの顔を苦痛と怨嗟に歪め、黒い霧となって散った。

「今のは……」

「〈あちらのもの〉ですよ。邪法によって死者の魂魄を呪縛し、私欲のために使おうとしているのです。……今のは小物ですが、それでも寺部城衆の霊を死兵化させるだけの力は持っていたようですね」

 いつのまにか近くに来ていた元信に、幽世がいらえた。

「〈あちらのもの〉……? 死兵……」

「そうです。ですが、もう調伏しました。ご心配なく、元信さま」

 幽世は馬上の元信をふり仰ぎ、長い睫毛の双眸を細めてにっこりと笑った。

 それがいつから歴史の闇に蠢動していたのか、誰も知らない。しかし、気付けばそれらは全国の戦国大名の懐に入り込み、死者を思いのままに使役して戦渦をより凄惨なものへと敷衍(ふえん)させていた。

 それは幽界の理を捻じ曲げ、現世の理を乱す大罪である。

 諸国の大名に〈イザナミ衆〉だとか〈九泉の一族〉だとか呼ばれ、現世とは違う世界に潜むその者たちを、幽世は〈あちらのもの〉と呼び、討滅して回っている。

 誰に命じられたわけではない。が、幽世はそれをおのれが〈あちらのもの〉たちと同じ、ひとの死期を見極め幽界に干渉し、死者と語らうことができる力を持って生まれたがゆえのさだめだと思っていた。

 そして、自らそんなさだめを選んだ幽世に、慶雲斎たち三名が臣従している。

「……ともかく、お身に援けられた、というのはわかりましたよ。幽世姫」

「いえ、そんな。わたしたちはあくまで、元信さまの初陣の一助となればと……」

 そこまで言って、幽世ははたと気がついた。

「あっ」

 隠密行動を忘れはて、堂々と立ち回っていたことに今思い至る。慌てて元信から顔をそむけ、白袖で覆ったが、まったく意味がなかった。

 その様子に、元信は気抜けしたように笑った。

「ははは……。幽世姫、無沙汰でござる。元信の初陣にわざわざ参じてくださるとは、身に余る光栄。あたかも、観世音菩薩が現臨あそばされたかのように心強い」

 下手な世辞を言う。窮地を救ってもらったことへの、朴直な元信の精一杯の謝辞なのだろう。

「されど、おなごが戦さ場に出るのはいかにも危うい。慶雲斎どのとともに、急ぎ彩樫城へ戻られよ。ここよりは、われらの役目にござる」

 きっぱりと断言した。このあたりは、頑固な岡崎の武士らしい。

「元信さまは、どうなさるおつもりなのです」

「寺部城に籠もり、どうでもこの地を守ってやりましょう。殿よりの援軍は望めませぬが、なに、水野信元ごとき、軽く捻ってくれましょうほどに」

 袖で顔を隠すのをやめた幽世が問うと、元信は笑った。しかし空元気なのは誰の目にも明らかである。

 無事に〈あちらのもの〉は討ったが、また全てが終わったわけではない。一難去ってまた一難、というものである。水野信元の率いる軍がどれほどかはまだ分からないが、現在の元信の兵では勝ち目はない。仮に寺部城に籠城したとしても、援軍が来ないではどのみち兵糧が尽き、飢え死にするのは明白であろう。

 幽世はかぶりを振った。

「元信さま、わたしに案がございます。どうぞ、わたしを帰すのはその後にしていただけませぬか」

「しかし……」

「元信さまには、三河の旧領を安堵するという大願がおありのはず。かようなところで足踏みをしていてはなりませぬ」

 幽世の懇願に、元信もやがて折れた。元信としても、将として意地を張っての全滅などは避けたいものである。

「……されば、お知恵を拝借仕りましょう」

「ありがとうございます」

 幽世は籠手を嵌めた両手指を組んで、嬉しそうに笑った。

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