第一話 祠
山道を、小さな足が駆けていく。
「鈴、転ぶぞ。」
父はそう言ったのだろう。
振り返った口元が、ゆっくりと動く。
鈴は笑って頷いた。
聞こえなくても分かる。
父はいつも、そうやって自分を心配する。
母は少し遅れて歩きながら、鈴の背へ優しい眼差しを向けていた。
春を迎えた山には、柔らかな光が満ちている。
幼い鈴にとって、この山は遊び場だった。
木漏れ日の中を走り、草花を見つけ、父と母の笑う顔に挟まれる。
それだけで胸が弾んだ。
不意に、鈴は足を止めた。
杉木立の奥。
小さな祠が見える。
まるで誰にも忘れられたように、ひっそりと佇んでいた。
鈴は吸い寄せられるように近づく。
祠の前には、一つのこけしが横たわっていた。
土に薄く汚れ、それでも不思議なほど穏やかな顔をしている。
鈴は両手でそっと拾い上げた。
木の温もりが掌へ伝わるり、思わず頬が緩んだ。
そのとき、父と母は少し離れた場所で立ち止まっていた。
鈴の様子を見守っていた、その背後へから…
木々の間から、数人の男たちが姿を現す。
獣のような目。
刃こぼれした刀。
日に焼けた腕。
父が振り返り、母が鈴を見る。
その様子は鈴には届かない。
鈴は、こけしを見つめていた。
木目を指でなぞる。
丸い頭を胸へ抱く。
その小さな背中では、血飛沫が飛ぶ。
土が舞い、木々が揺れる。
鈴は何も知らない。
ただ嬉しそうに、こけしを抱きしめていた。
やがて辺りは静まり返る。
男たちは山の奥へ姿を消した。
鈴はゆっくりと振り返る。
笑顔のまま。
その笑顔が、少しずつ消えていく。
動かない父。
母も動かない。
二人とも、自分を見つめたまま横たわっていた。
鈴は駆け寄り、父の肩を揺する。
そして血だらけの母の手を握る。
何度も。
何度も。
返事はない。
それでも鈴は呼び続けた。
声にはならない呼びかけを、胸の奥で何度も繰り返しながら。
夕暮れが、山へゆっくりと降りてくる。
幼い鈴は、父と母の間で小さく膝を抱えた。
胸には、あのこけしだけを抱いたまま。




