第15話 悪魔は、六千年で初めての赤字を出す
最後の泥が剥がれたのは、明け方のことだった。
袖の内で、ことり、と小さな音がした――気がした。
十年と、それから復讐の三ヶ月。ずっと抱えてきた魂から、最後のひと掬いの穢れが解けて、吐いた口の元へ還っていった音だ。
雨上がりの礼拝堂で、私はそれを取り出して、窓の光に掲げてみる。
……ああ。
言葉というものはこういう時のためにあるのだろうが、あいにく六千年生きても持ち合わせがない。
完璧だった。
真珠? 宝石? 馬鹿を言え。あんな鉱物と一緒にするな。
万の祝福を吸い、万の冤罪に耐え、その全部を許しも忘れもせずに抱えたまま、それでも澄んでいる魂。地獄の目利き百人が列を作って、全員泣いて帰る出来ばえだ。
十年待った。取り立てた。汚されたのを、磨き直した。
そして今、契約の文言どおり、正真正銘、私のものだ。
《ザガン》
内側から、声がする。
《終わったのですね》
「ああ。昨日、布告板からあの女の名が削られた。……これで全部だ」
聖女録から名を消され、騙し取った祈りも寄進も、すべて返還の沙汰が下りた。あの女に最後に残ったのは、誰にも祈られない名前だけだ。
いい末路だった。私の仕事ではない。ぜんぶ、本人たちの嘘が支払ったものだ。
私は娘の胸に手を置く。トク、トク、と規則正しい音。
この骸は、もう骸ではない。はじめの時分こそ、朝ごとに腐敗の兆しを影で繕う有様だったが――泥が一枚剥がれるたびに温み、色づき、三ヶ月かけて生の側へ戻ってきた。心臓は動き、血は巡り、朝には腹も鳴る。
はじめの頃は、私が心臓のふりをしてやっていたものだが――近頃は、黙っていても勝手に脈打つ。
器は、生きている。
あとは魂を戻せば、この娘は蘇る。
――戻せば、だが。
《ザガン。わたしの魂は、あなたのものです》
声は、穏やかだった。
《十年前、わたしがそう決めました。国は救われて、おまけに悪い人たちの嘘まで剥がれて……こんなに元の取れた取引はありません。ですから、どうぞ。持って行ってください》
「……お前は、そういう女だったな」
つくづく、業腹なほどの上物だ。
私は三ヶ月着た娘の体を長椅子へ横たえ、するりと外へ出た。久しぶりに編む自前の形は、存外、薄ら寒い。
さて。
食えば、一瞬だ。六千年でいちばん旨い一瞬だろう。
飾れば、永遠である。地獄の蔵の一等地で、永遠に自慢できる。
だが、どちらの絵にも、決定的に足りないものがある。
「……この魂がいちばん美しく在る場所は、私の袖の内でも、地獄の蔵でもない。あの貧乏くさい救貧院の、粥の匂いのする朝の中だ。子供に袖を引かれて、無駄に祈って、無駄に笑っている時の」
口に出してから、しまった、と思った。六千年、店番はいつもひとりだった。独り言は、商人の悪い癖だ。
三ヶ月、内側から見てきたから知っている。
それにな。蔵に飾れば、価値はそこで止まる。生かしておけば、この魂は勝手に磨かれ続ける。なにしろ、放っておいても祈るし、治すし、笑う女だ。
倍にして取り立てるのが、私の流儀だろう。
……ああ、認めよう。
目利きとして、これほどの失態はない。
私の家業は、古来「変成」だ。水を酒に、血を油に、金属をそれぞれの貨幣に――物の性質と値打ちを、作り替えて売る。六千年、他人の物ばかり作り替えてきた。
最後の大仕事くらい、自分でも、いいだろう。
「リーゼ。契約を破棄する」
《……え?》
「悪魔の契約は絶対だ。破る者には、格でもって払わせる。――知っていて、破る」
言い切った瞬間、腕の中の魂が、灼けるように光った。
聖性は、悪魔には毒だ。完全に澄んだ聖女の魂を、契約の軛なしに素手で抱えるのは、太陽を素手で抱えるのと変わらない。
右の翼が、根元から白く灼けた。
黒曜石だった爪が半分、乳白に濁っていく。あの晩、ほんの先だけ濁ったあれが、今度は根こそぎだ。六千年かけて積んだ悪魔の格が、音を立てて崩れる。
大損だ。
六千年の商いで、初めての赤字だ。
耳の奥で、六千年鳴りやまなかった地獄の喧噪が、ふつりと途切れた。
……静かだ。
静かというのは、こんなに寒いものだったか。
私は嗤いながら、魂を、器の胸へ沈めた。
*
雨上がりの光が、窓から長椅子へ落ちている。
リーゼは、ゆっくりと目を開けた。
三月ぶりに自分の心臓で――そして十年ぶりに、誰のものでもない魂で。
最初の呼吸は咳になり、二度目は嗚咽になった。
「……っ、ばか……」
第一声がそれか。
「ばかです、あなたは……! 格とか、翼とか、そんな大事なものを、たかが商品ひとつのために……」
「勘違いするな。『たかが』ではない。最上級の商品の、最終処分の話だ。どこに置けばいちばん高く見えるかという、ただそれだけの――」
言い終える前に、抱きつかれた。
生きた体温というのは、存外、重い。
――ふと、気づく。
焼けない。
半刻前まで、この魂に素手で触れれば指が焦げた。聖性は悪魔の毒だと、あれほど。なのに今、生きたリーゼに抱きつかれて、まったく、焼けない。
そうか。
もう、私は地獄の悪魔ではないのだな。
半分は天の側へ溶け、半分は地獄に爪を残した、どこにも属さぬ半端物。――だが、その半端さのおかげで、聖女に触れても焦げない体になった。
面白い。
地獄の身分証を破り捨てたら、代わりに、聖女の隣に立つ許可証が手に入ったわけだ。
聖爐にかけられても、もう白は灯るまいが、黒くも燃えまい。世間は私を悪魔と断ずる証を、永遠に持てない。この娘の隣にいる、素性の知れぬ守り手。せいぜいそのあたりが、私の新しい肩書きだ。
「見ていました。ぜんぶ」
濡れた声が、胸元で言う。
「わたしの名誉のために、嘘つきの嘘を一枚ずつ剥がしてくれたところも。……密室で、それはもう悪魔みたいに嗤っていたところも。悪いひとたちに、その、かなり容赦のないことを、するところも」
「引いたか」
「引きません」
顔を上げて、聖女は笑った。
「だって……わたしを商品と呼びながら、わたしを汚した嘘だけは、ひとつも許さなかったひとですから」
……この女は、だめだ。
十年前から知っていたが、聖女というのは、どこか壊れていなければ務まらない。
「ザガン。あらためて、契約をしませんか」
「ほう?」
「あなた、言っていたでしょう。この魂がいちばん美しく在るのは、救貧院の、粥の匂いのする朝の中だ――って。独り言のおつもりだったでしょうけど、わたし、あのとき、まだあなたの腕の中にいましたから。……ぜんぶ、聞こえていました」
「……盗み聞きした商品が、値付けまで始めたか」
「はい。目利きの見立てに、売り手としてお応えします。魂だけ持って行くのは、半端なお買い物です。わたしの残りの生涯を、ぜんぶ差し上げます。朝も、昼も、夜も、皺だらけになった後も。祈って、拾って、笑って生きる、その全部を――朝ごと、まとめて。対価に、隣にいてください」
死んだときの魂ひとつが、生涯まるごとに化けた。
……ふむ。
私は、失ったものを数えてみる。
翼。爪。格。地獄の身分。六千年ぶんの取引先。――なるほど、帳簿の左は、真っ黒に埋まっている。
だが右を見ろ。
地獄には、朝がない。粥の匂いもない。子供の袖引きもない。この娘の隣も、なかった。売り払ったのは、要するに、私にはもう要らなくなった在庫だ。
赤字は、赤字だ。翼は戻らん。地獄の帳場からも、二度と声は掛かるまい。
だが――買ったもののほうが、高い。
もっとも、いまの私に、魔の契約印はもう押せん。地獄の公証が、半端者の判を受け付けるものか。これから結ぶのは、ただの口約束だ。……口約束というのは、破っても誰も罰しに来ない。罰が来ないのに守られる約束だけが、本物の値を持つ。六千年扱ってきたどの契約より、高い値を。
「受けよう。ただし言っておくが、生涯契約に中途解約はない。死んでも、だ。……もっとも、お前を縛る鎖は、もう何もない。何もないまま、魂の芯まで私のものであり続けろ。お前が、毎朝そう決めるのだ」
「はい。よろこんで」
「即答か。……交渉の余地くらい残せ、商品」
「あら。……商品と呼ぶのなら、最後まで、いちばん高く扱ってくださいね?」
……言うようになった。
私は――久しぶりの自前の顔で、ニタァと嗤った。
「ふふ。悪魔みたいなお顔」
「実際、悪魔なのだから仕方がない。……もっとも、半分ほどは、だが」
扉の向こうから、聞き慣れた足音が駆けてくる。おっ母の病が治って以来、毎朝いちばんに祈りに来る、あの口の悪い娘だ。
「聖女さまー! 朝ごはんできたって! ……あれ? なんか今日、ふたりいる?」
「ええ、ニナ。今日から、ひとり増えました」
聖女が振り返る。その隣で、半分だけ悪魔の男が、朝の光の中に、当たり前の顔で立っている。もう、誰の目にも見える。焼かれもせず、隠れもせず。
雨上がりの空は、憎らしいほど晴れていた。
まったく――良い雨だった。
(完)




