第十一章 同行者不明
休業日から三日後、透子が久世に話しかけた。
朝の返却所。俺が茶を飲んでいて、小春が縁側にいて、しぐれが柿の木の根元にいた。
透子が帳面を二冊、机の上に並べた。
「久世さん、確認したいことがあります」
久世が書斎から出てきた。帳面を見て、少し目を細めた。
「どちらも、古い記録ですね」
「二十二年前の案件です。一冊は湊さんに関係する可能性がある記録。もう一冊は、先日見つけた別案件の記録です」
「見ていましたか、その記録を」
久世は俺に言った。
「透子から見せてもらった。赤い傘という言葉が、別案件の記録に残っていた」
久世が帳面を手に取った。
開いて、少し読んだ。それから閉じた。
「……よく見つけましたね」
「整理していれば、見つかります。久世さん、この二つの案件は関係していますか」
透子が尋ねると、久世は椅子に座り、懐中時計を取り出した。開いて、すぐに閉じた。
「関係しています」
「どう関係している?」
俺は茶を置いて問いかけた。
「順番に話します。湊さんが四歳で神隠しに遭った案件。その記録に、同行者不明という一文がある」
「ある」
「その同行者が誰かを、私はずっと確かめようとしていました。しかし、記録が欠けていて、確証が持てなかった」
「確証がない、というのは本当か」
俺がさらに問うと、久世は少し言葉に詰まった。
「……薄い確証はあります。ただ、湊さんに話すには、もう少し整った形で話したかった」
「整った形を待つより、今話して欲しい」
久世が俺を見た。
透子が穏やかな声で言った。
「久世さん。約束しましたよね、境界が動いた時に話すと。先日の寺の案件の時に」
「しました」
「今日は案件がまだありませんが、湊さんは待っています。それだけで十分ではないですか」
久世が透子を見た。
それから俺を見た。
「……分かりました」
久世が話し始めた。
透子が帳面を開いて、記録しながら聞いた。小春が縁側から中に入ってきて、端の方に静かに座った。
「二十二年前、この周辺で、二人の子どもが同じ時期に境界に入りました。一人は四歳の男児、もう一人は――」
「もう一人は」
「同じくらいの年の、女児です。二人は境界の中で出会い、一緒にいました。記録に残っているのはここまでです」
「なぜそこで終わっている」
「二人を別々に発見した、ということが、当時の記録者にとって不自然ではなかったからです。男児が先に帰り、女児の記録は、欠けています」
俺は黙って聞いた。
「男児が帰った時、赤い傘を持っていました。それが透子さんの見つけた記録です。その傘が誰のものだったか、当時の記録者には分からなかった」
「女児のものだったか」
「おそらく」
「その女児は」
久世が少し間をおいて伝える。
「帰りませんでした」
返却所が静かになった。
透子のペンが止まった。小春が顔を伏せた。しぐれが縁側の外から、じっと中を見ていた。
「帰らなかった理由は」
「境界が、一人しか返せなかった。当時の境界の状態が、そういう状態だったと推測されます。二人を同時に返すことができなかった」
「推測、というのは」
「確認できる者がいないからです。当時その場にいたのは、二人の子どもだけでした」
俺は久世を見た。
「俺が選ばれたのか」
「選んだのは、誰か別の者です」
「誰が」
久世が小春を見た。小春は顔を上げなかった。
「久世さん、それは小春さんが答えるべき話ですか」
透子が問いかける。
「……そうかもしれません」
俺は小春を見た。
小春が、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、今まで見たことのない色をしていた。
謝りたい、という色ではなかった。知られてしまった、という色でもなかった。
ずっと前から、この瞬間を知っていた、という色をしていた。
「小春」
「……はい」
「お前が、選んだのか」
小春が少し息を吸った。
「正確には、選んだのではなくて、もっと強く帰りを望んでいた方を返しました」
「どういう意味だ」
「二人いて、どちらも帰りたがっていた。でも境界は一人しか返せなかった。わたしには、どちらが帰りたい気持ちが強いか、分かりました。匂いで」
「俺の方が、強かった」
「……はい」
「それで、俺を返した」
「はい」
俺は少しのあいだ、そのことを頭の中で処理した。
処理できなかった。
できなかったが、続きを聞いた。
「女児は」
「境界に残りました」
「今も」
「……今も、います。名前を忘れてしまっていますが」
俺はその言葉を聞いた瞬間に、全部が繋がった。
名前を忘れた子ども。赤い傘。前に見た女の子。忘れられることが怖い、という声。俺の匂いに似ていた、という小春の言葉。
「赤い傘の子が、そうか」
「はい」
「あの子は、俺が一緒に帰るはずだった子か」
「……一緒に、帰るはずだった、というより、一緒に帰ろうと、約束していた」
俺は止まった。
「約束」
「湊は覚えていないですか」
「覚えていない。記憶がほとんどない」
「そうですね。湊が帰る時に、記憶が薄れました。境界から完全に出る時、そうなることがある」
小春の声は穏やかだった。
「お前は、最初からそれを知っていたのか?」
「はい」
「返却所で俺と一緒に仕事をしながら、ずっと知っていたのか」
「……はい」
俺は小春を見た。
小春は俺から目を逸らさなかった。逸らさずに、ただ俺を見ていた。
怒れるかどうか分からなかった。
怒っていいのかどうかも分からなかった。
小春が何かを隠していたのは確かだった。でも、小春が俺を欺こうとしていたかどうかは、別の話だった。
「なぜ言わなかった」
「言えなかった」
「なぜ」
「湊が、自分で気づく時間が要ると思っていました。いきなり言っても??信じられなかったと思う」
「それはお前が決めることじゃない」
「そうです。ごめんなさい」
俺は、その謝罪が、どこか遠くから来るような気がした。
怒れなかった。
小春が二十二年前に俺を返した。俺が帰れたのは、小春のおかげだった。でもその代わりに、女の子が残った。小春自身も、境界に縛られることになった。
得をしたのは、俺だけだった。
長い沈黙があった。
透子がペンを置いた。記録しきれないと判断したのかもしれない。
久世が穏やかな声で言った。
「湊さん、今の話をどう受け取りましたか」
「処理できていない」
「そうですね。すぐに処理できる話ではないです」
「あの女の子は、今、どういう状態なのか」
「境界の中に、います。でもあの時、湊さんを見てから、少し動き始めています。長い時間そこにいて、薄れていた記憶が、少しずつ戻ってきているかもしれない」
「帰れるか」
久世は少し言葉に詰まった。
「……今の状態では、難しい。境界に長くいると、戻り道が細くなります。二十二年は、長すぎる」
「でも、あの子は今夜も言っていた。今度は忘れないで、と」
全員が俺を見た。
「あの日の夜も、あの子がそう言った。今度は忘れないで、と」
小春が目を閉じた。
「……そうです」
「今度は、ということは、俺が一度忘れたことを、あの子は知っていたんだな」
「……知っていました」
「それでも、待っていたのか」
小春が目を開けた。
「待っていた、かどうかは分からないです。でも、覚えていてほしかったと思います」
俺は椅子から立ち上がった。
「窓を開けてくれ」
透子が窓を開けた。
外の空気が入ってきた。秋の冷えた空気だった。
俺はしばらく、外を見ていた。
柿の木。しぐれが根元にいた。
二十二年前の俺が、あの女の子と一緒に境界にいた。一緒に帰ろうと約束した。でも帰れたのは俺だけだった。
そのことを、俺は忘れていた。
二十二年間、何も知らずに生きていた。
帰れた者への後ろめたさの正体が、ここにあった。
俺が感じていた、何かを置いてきたような感覚。忘れているような感覚。それはただの感覚ではなかった。
本当に、置いてきたのだ。
誰かを。
俺が窓の外を見ていると、小春が近づいてきた。
隣に立った。俺と同じように、外を見た。
「湊」
「何だ」
「怒っていますか」
「……今は、怒っているかどうか分からない」
「そうですか」
「怒る前に、考えることが多すぎる」
小春が柿の木を見た。
「あの子のことを、覚えていましたか。今日の話を聞く前に」
「思い出しかけていた。あの夜から、ずっと。でも思い出す前に消えた」
「そうです。それが境界から帰る時の記憶の薄れ方です。完全には消えない。でも、鮮明には出てこない」
「雨の匂い、赤い糸、誰かの手のぬくもり――それが残っていたのは」
「そうです」
「赤い糸は、あの子の傘の色か」
「……赤い傘を一緒に持っていました。湊と、あの子と、二人で一本の傘に入っていたから」
俺はその言葉を聞いて、胸の奥で何かが動いた。
痛かった。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。
後悔に似た、何かだった。でも後悔するには、俺は何も知らなすぎた。
「小春」
「はい」
「お前は、あの子を帰せなかったことを――」
「ずっと思っています」
「二十二年間」
「はい」
「それで、返却所に来た」
「湊のそばにいたかった、というのもあります。湊を帰したのは、正しかったと思っています。でも……あの子を残したのは、ずっと重かった」
「小春が選んだのではなく、境界がそうだったと言ったな」
「そうです。でも、選んだのが境界でも、わたしが関わった事実は変わらない」
俺は小春を見た。
小春の横顔が、いつもの明るい顔ではなかった。でも、暗くもなかった。ただ、真剣だった。
「あの子に、会いに行く」
「……湊」
「深追いするなと久世は言っていた。でも、あの子が今度は忘れないで、と言った。俺は覚えていた。今夜は、伝えに行く」
「一人では行かないで下さい」
「当然だ。お前と行く」
小春が少し止まった。
「……わたしと」
「お前が関わっている話だ。お前も来い」
「はい」
久世が「待って下さい」と言った。
俺が振り返ると、久世が立ち上がっていた。
「今夜はまだ、境界が動いていません。強引に入ろうとすると、あの子がまた深いところへ行く可能性があります」
「どうすればいい」
「境界が自然に開くのを待つ方が良いです。強引に入るより、あの子が来やすい状態にする方が」
「来やすい状態というのは」
「湊さんが、覚えていることを知らせることです」
「どうやって」
久世が少し考えた。
「今夜、この場所で、覚えていると、声に出してみて下さい。境界は感情を読む。強い気持ちは、あの子に届くかもしれない」
「そんなことで届くのか」
「確証はありません。しかし、あの子は二十二年間、誰かに覚えてほしかった。その気持ちに、湊さんの気持ちが届けば――」
俺は久世を見た。
「試してみる」
夜になった。
返却所の縁側に、俺は一人で座った。
透子と久世は部屋の中にいた。小春は俺の少し後ろに立っていた。
しぐれが俺の足元に来た。今夜も、小春ではなく俺を選んだ。
俺は柿の木を見た。
秋の夜、風がなかった。空気が冷えていた。
二十二年前の境界の中のことを、俺は覚えていなかった。でも今は、断片だけが繋がっていた。
雨の匂い。赤い傘。誰かの手のぬくもり。
一緒に帰ろうと言った。でも帰れなかった。
俺だけが帰れた。俺は口を開いた。声に出すことが、恥ずかしいとか、そういう感情は、今夜はなかった。
「覚えている」
囁くような声で言った。
「お前のことを覚えている。名前は分からない。顔も、はっきりは分からない。でも、一緒にいたことは、覚えている」
柿の木が動かなかった。しぐれが耳を立てた。
「今度は忘れない。お前がそう言ったから、俺はここで言う。今度は忘れない」
小春が後ろで、小さく息を吐いた。
庭の空気が変わった。ほんのわずかだった。でも、変わった。
温度が少し下がって、雨の匂いがした。
雨は降っていなかった。でも、匂いだけがした。
しぐれが毛を逆立てた。
そして。縁側の庭の端に、赤い色が見えた。
小さな赤い傘が、夜の庭に現れた。
傘の下に、女の子が立っていた。白い服。長い黒髪。丸い顔。あの日、見たのと同じ姿。でも今夜は、どこか違った。
あの時より、輪郭がはっきりしていた。
俺を見ていた。
「……覚えてた」
女の子の声は小さかったが、確かに聞こえた。
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
女の子が傘を少し下げた。顔が見えた。
その顔を見た瞬間に、俺の胸の奥で何かが痛くなった。
思い出したのではなかった。でも、知っている気がした。知っているはずの顔だった。
「名前、思い出せないの?」
「ごめん、まだ思い出せない」
「そっか」
「でも、一緒にいたことは、覚えている」
女の子が少し俯いた。
「傘、返すね」
女の子が傘を差し出した。
小さな赤い傘。
俺は手を伸ばした。傘の柄が、俺の手に触れた瞬間――何かが来た。
記憶ではなかった。感覚だった。雨の中、小さな手が俺の手を握っていた。濡れていた。冷たかった。でも、手を離さなかった。
「帰ろう」と言う声。小さな声。自分の声だったのか、相手の声だったのか、分からなかった。
「一緒に帰ろう」
それだけが、戻ってきた。
俺は赤い傘を握った。女の子が、傘を離した。
「また来てくれる?」
「来る」
「本当に?」
「本当に」
女の子が少し笑った。
その笑い方が、どこかで見た気がした。でも思い出せなかった。
次の瞬間に、女の子は消えた。
傘だけが、俺の手に残った。
全員が、しばらく動かなかった。
透子が部屋の中から縁側を見ていた。久世が立ち上がっていた。小春が俺の後ろで、静かに立っていた。
しぐれの毛が、少しずつ収まった。
「湊さん」
久世が呼んだ。俺は返事をしなかった。
赤い傘を見ていた。現実の物として、手の中に傘があった。小さかった。子ども用だった。布の色が少し褪せていたが、赤いことは分かった。
「これは」
「境界の中のものが、現世に出てきた。あの子が、意図して渡したものです」
「どういう意味があるのか」
「……覚えていて欲しいという気持ちの、形です。忘れないで欲しいということを、物で示した」
久世にそう言われ、俺は傘を見た。
「名前を、いつか思い出せるか」
「分かりません。でも、今夜、あの子は湊さんを見て、笑いました」
透子が穏やかな声で伝えた。
「それは分かった」
「それだけで、今夜は十分だったかもしれないです」
俺は傘を握ったまま、庭を見た。
女の子がいた場所に、もう何もなかった。
でも雨の匂いが、まだかすかに残っていた。
「小春」
「……はい」
「お前は今夜、何か感じたか」
小春が前に来て、俺の隣に座った。
「あの子が、今夜の湊より、少し明るかった気がします。あの時より」
「明るかった」
「覚えてもらえたから、だと思います」
俺は傘を膝の上に置いた。
「あの子を、帰せるか」
「……今の状態では難しいです、久世さんの言った通り。でも、今夜、少し変わりました。覚えていると知って、あの子の帰りたい気持ちが、少し戻ってきたかもしれない。それが、道を太くするかもしれない」
「可能性があるということか」
「はい」
久世が穏やかな声で言った。
「これ以上は、境界そのものが動き始めます。今夜はここまでにした方がいい」
「分かった」
「でも、今夜の湊さんの行動は、正しかったと思います」
「正しかったかどうかは、あとで考える」
久世が少し笑った。
「それでいいです」
夜が深くなった。
久世が書斎に戻り、透子が記録を続け、小春が縁側に出た。
俺は赤い傘を机の上に置いたまま、しばらく見ていた。
二十二年間、俺は知らなかった。
あの子が境界にいることを。一緒にいたことを。一緒に帰ろうと言ったことを。
忘れていたのは、俺だけではなかったかもしれない。境界がそうさせた。でも、忘れていた事実は変わらない。
帰れた者への後ろめたさの正体が、ようやく分かった。
俺は、大事なものを置いてきていた。
それを今夜、少しだけ思い出した。
全部ではなかった。名前も、顔もまだはっきりしない。でも、手の感触だけは、今夜初めてはっきりと戻ってきた。
冷たくて、濡れていて、離さなかった手。
小春が縁側から言った。
「湊」
「何だ」
「今夜、下さい、と言いましたよね」
「帆乃香と会った夜に、お前が言った」
「今夜のことも、一人で抱えないで下さい」
俺は小春を見た。
「お前はどうなんだ」
「わたし?」
「お前は二十二年間、一人で抱えていたのか」
小春が少し黙った。
「……そうかもしれないです」
「だったら、お前こそ、一人で抱えるな」
小春が俺を見た。
その目が、少し違う色をした。
「……はい」
「今夜の話は、まだ全部処理できていない。でも、お前が話してくれた方が良かった。自分で気づく前に」
「そうですか」
「そうだ」
「……ごめんなさい」
「もういい」
小春が頷いた。
しぐれがきゅう、と鳴いた。
俺は赤い傘を手に取って、縁側に出た。
秋の夜、星が出ていた。
帆乃香を帰した夜も星が出ていたが、今夜の星は違う見え方をした。
同じ星が、違う場所から見える感じ。
傘を握ったまま、俺はしばらく空を見た。
名前を思い出せなかった。
でも今夜、覚えていると伝えた。
それが何かを変えるかどうかは、まだ分からなかった。
でも今夜は、それだけで良かった。
金平糖の音が、縁側の端の方でした。
小春が一粒食べた。
案件ではなかった。帰せた人がいたわけでもなかった。
でも小春は食べた。
今夜の分として、一粒だけ。どんな理由なのか、俺は聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かった気がした。




