第十章 迷子返却所の休業日
雨の多かった時期が過ぎて、朝の空気にだけ秋がはっきり混じるようになっていた。十月のある日曜日、久世が珍しいことを言った。
「今日は休みにしましょう」
朝の返却所で、お茶を飲みながら、当然のことのように言った。
「休み」
「案件は受けません。相馬さんにも伝えてあります。今日は返却所の掃除と、記録の整理だけにしようと思います」
「珍しいですね」
透子が言う。
「たまには必要です。この場所も、休まないといけない」
久世が伝えると、小春が縁側から「やったー」と言った。
「何がやったーなんだ」
「何でもないです。やったー、というだけです」
しぐれがきゅう、と鳴いた。
午前中の掃除は、思ったより時間がかかった。
返却所は普段から特別汚いわけではないが、押し入れの奥や、書棚の隙間に、埃が積もっていた。久世が書斎を開放して、透子が棚の整理をした。
俺は縁側の雨戸を外して、木枠を拭いた。
小春はしぐれと一緒に、あちこちをうろついていた。掃除を手伝っているようで、手伝っていない動き方をしていた。
「小春、そこを拭いてくれ」
「はーい」
小春が雑巾を持って、框を拭き始めた。拭き方が雑だった。
「もっと丁寧に」
「丁寧にやってますよ」
「してない」
「してます。湊が細かすぎるんです」
「細かくない」
透子が棚の奥から顔を出した。
「二人とも、そこは後でいいです。まずこっちを手伝って下さい」
透子の指示の下で、書棚の本と帳面を一度全部出して、拭いてから戻した。
帳面が十数冊あった。年代ごとに並んでいた。
帳面を棚の脇に積んでいる途中で、しぐれが縁側の方へ走った。きゅう、と一度だけ鳴く。
小春が顔を上げた。
「……近いです」
「何が」
「境界の匂い。浅いですけど」
俺は手に持っていた帳面を閉じた。
久世が書斎の奥からこちらを見る。
「今日は休みじゃなかったのか」
「案件は受けませんよ」
久世は穏やかに言った。
「しかし、向こうから来るものまで追い返せとは言っていません」
縁側の外へ出ると、返却所の門の前に一人の少年が立っていた。
高校生くらい。制服の上に薄いパーカーを羽織って、鞄を肩から下げている。顔色が悪いわけではない。ただ、目の焦点が少し遠かった。
呼んでも反応がない。完全に境界へ入っているわけではないが、足元の空気がわずかに揺れていた。現世に立ったまま、半歩だけ向こうへ引かれている時の気配だった。
「君」
俺が声をかけると、少年がゆっくり顔を上げた。
「……ここ、どこですか?」
「お前が来た場所だ」
それだけ答えて近づく。足元に残り香があった。細く、浅い。深く迷い込んだ道ではない。道そのものより、立ち止まった気持ちが残っている感じだった。
色は薄い灰色で、その奥に、ごく弱い青が混じっている。
疲れというより、ためらいの色だった。
小春が少年の少し横に立つ。
「お名前、聞いてもいいですか」
「……高坂、遼です」
「帰り道の途中でしたか」
少年は少し考えるような顔をした。
帰り道。たぶんその言葉に引っかかったのだろう。
「家に……帰る途中、だったと思います」
「思います、って何だ」
俺が言うと、遼は眉をひそめた。
苛立ったというより、自分でもうまく言えない顔だった。
「帰ろうとはしてました。でも、気づいたら違う道にいて」
その時、風が少し動いた。少年の袖が揺れる。そこに、かすかに柔らかい匂いが残っていた。洗剤か柔軟剤か、そういう生活の匂い。新しくはない。数日、あるいはもっと長く、家の中に残っていたものが、制服に移った匂いだった。
でも本人の表情は、その匂いにふさわしくなかった。
家を嫌がって遠ざかっている人間の顔ではない。家に近づけなくなっている人間の顔だった。
「家で、何かあったのか」
遼がすぐには答えなかった。視線が俺から外れて、門柱のあたりで止まる。
「……母が、先月死にました」
小春の表情が少しだけ変わった。
でも何も言わない。俺も続けて聞かなかった。
「それで」
しばらくして、遼が自分で言葉を継いだ。
「家には父も妹もいます。別に、一人じゃないです。ちゃんと生活してます。ご飯も出るし、洗濯もされてる。叔母も来るし、親戚も気にしてくれてる。でも」
その先を言いよどむ。
俺は足元の残り香を見ていた。
薄い灰色。ためらい。立ち止まる色。帰りたくない色ではない。
「帰りたくないんじゃないな」
遼が顔を上げる。
「家を避けてるんじゃない。帰ったら、もう本当にいないって分かる場所へ戻るのが怖いだけだろ」
遼の目が、はっきり動いた。
それが答えだった。
小春は俺を見たが、何も挟まなかった。今回は、俺の言葉のあとにやわらかくほどく必要がないと判断したのかもしれない。
「……家に入ると、静かなんです」
遼が言った。
「母の部屋も、そのままで。洗面所に歯ブラシもあるし、台所にマグカップもある。でも、いない。帰るたびに、それを最初から見なきゃいけない感じがする」
声は静かだった。泣きそうではない。ただ、そこに辿り着くまで何度も同じことを繰り返してきた人間の声だった。
「父も妹も家にいるのに、家に入る前が一番、母のいる家に近い気がするんです」
俺は少し黙った。その感覚は、よく分かった。分かってしまった。
家の中に入れば、現実になる。入る前なら、まだ少しだけ曖昧でいられる。
「遼」
俺は呼んだ。
「帰ったら、いないことは消えない」
遼が黙る。
「でも帰らなくても、消えない。立ち止まってる間だけ、少し先延ばしにできるだけだ」
「……分かってます」
「分かってるなら、戻れ」
少しきつかったかもしれない。でも今は、それでよかった。
「今日は休みの日だから、送るのはここまでだ。あとは自分で帰れ」
遼は意外そうに俺を見た。
小春まで少しだけ目を丸くしている。
「送ってくれないんですか」
「深い案件じゃない。道を失くしたわけじゃない。足が止まってるだけだ」
そう言うと、遼はしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「……厳しいですね」
「優しく言っても、今のお前には同じだろ」
その言葉に、遼は少しだけ口元を動かした。
笑う手前の顔だった。
「そうかもしれません」
門の外で風が鳴った。
遼は返却所の門を一度振り返り、それから来た道の方を見た。
「帰ります」
「ああ」
「たぶん、途中でまた立ち止まるかもしれないですけど」
「その時は、また歩け」
遼は小さく頷いた。それから今度こそ門を出て、坂の下へ歩いていった。さっきより少しだけ、足取りが現実の重さを持っていた。
小春が、その背中を見送りながら言った。
「今回は、湊が先でしたね」
「何が」
「気持ちの真ん中です」
俺は答えなかった。しぐれが足元に寄ってきて、靴の先に鼻をつけた。
「匂いでは、家の感じは分かりました。でも、あの人が怖がってたものを、わたしは言葉にする前に、湊が言いました」
「見えただけだ」
「見えても、言わない人は言いません」
小春はそう言って、少しだけ笑った。
縁側の方から、久世の声がした。
「休みの日にしては、十分働きましたね」
「案件は受けないんじゃなかったのか」
「受けてはいません。門の前で道を聞かれただけです」
久世はそう言って、お茶でも飲みましょうか、と続けた。
俺は門の外をもう一度見た。
少年の姿は、もうなかった。
でも、さっきまでそこに立ち止まっていた気配だけが、薄く残っていた。
帰る前で立ち止まる人間がいる。
帰った先で、喪失が本当になるからだ。
俺はそのことを、少し長く考えた。
透子は帳面を閉じながら、「簡易記録だけは残します」と言った。
「これ、全部案件の記録か」
「そうです。久世さんが最初からつけていたものと、私が来てから続けているものが混在しています」
「何年分ある」
「久世さんが始めた頃からだと……相当な年数になります」
久世が書斎から顔を出した。
「帳面は大事にして下さい。帰れなかった者の記録も、全部そこに入っています」
俺は帳面を棚に戻しながら、そのことを考えた。
帰れた者の記録と、帰れなかった者の記録が、同じ棚に並んでいる。
それが返却所というものだ、と思った。
昼になって、相馬が差し入れを持ってきた。
今日は案件がないと伝えてあるのに、「ついでです」と言って入ってきた。
「掃除ですか。お手伝いしましょうか」
「いいです」
透子が断った。
「そうですか。じゃあこれだけ置いていきます」
包みを開けると、近所の和菓子屋の羊羹と、どら焼きと、小さな饅頭が入っていた。
「何で三種類あるんですか?」
小春が尋ねた。
「みんな好きなものが違うかと思って。小春ちゃんは甘いものが好きそうだから」
「相馬さん、いつも気遣いがすごいですね」
「仕事柄、差し入れは大事なので」
透子が羊羹に手を伸ばした。
「透子さん、羊羹が好きなんですね」
小春が突っ込む。
「……別に」
「前回も羊羹でしたよ」
「……そうでしたか」
「甘い物好きですよね」
「うるさいです」
相馬が笑いをこらえていた。俺も笑わなかったが、笑いたかった。
昼過ぎに、相馬が帰った。
透子が記録の整理を続けて、久世が書斎に戻った。
俺は縁側に座って、特に何もしていなかった。
小春がしぐれを膝に乗せて、隣に座ってきた。
「湊」
「何だ」
「金平糖を食べる理由、前に聞きましたよね」
「帰れた人のぶんだけ甘いものが要るから、と言っていた」
「そうです」
「改めて聞くのか」
「少し違う話です」
小春がしぐれの耳を撫でた。しぐれがきゅう、と鳴いた。
「帰せた夜だけ食べる、というのは本当です。でも、なぜそうするのかを、ちゃんと考えたことがなかったです」
「考えたことがない」
「ただ、そうしたくて、そうしていた。今日みたいに暇な日に考えてみたら……」
小春が金平糖の袋を取り出した。
「甘いものを食べると、帰れた人のことを思えます。あの人は今頃どうしているかな、と。それが……」
「それが」
「嬉しいんだと思います。覚えていられる、ということが」
俺はその言葉を聞いた。
覚えていられる。
帰せた人を、忘れないでいられる。「忘れないことが救いかもしれない」という小春の言葉と、繋がっていた。
「笑い話みたいですけど」
「どこが」
「帰せた人を覚えるために甘いものを食べる、というのは、少し変です」
「変じゃない」
「変じゃないですか」
「覚えるための方法が、人それぞれあるというだけだ。透子が記録するのと、同じようなものだ」
小春が少し考えた。
「……そうかもしれない」
「透子は帳面に書く。お前は金平糖を食べる。方法が違うだけだ」
「湊は?」
「俺は」
「湊は、どうやって覚えていますか」
俺は少し考えた。
「特に方法はない。ただ、覚えている」
「忘れないですか」
「帰した人の顔は、覚えている。全部かどうかは分からないが、印象に残った人は残る」
「それでいいんですね」
「いいんじゃないか」
小春が金平糖を一粒口に入れた。
「今日は案件がないのに食べるのか」
「今日は別の理由で食べます」
「何の理由だ」
「いい話ができたから」
俺は何も言わなかった。
理由にしては緩い気がしたが、否定する根拠もなかった。
午後に、しぐれが縁側から出て、柿の木に登り始めた。
小春が下から見上げた。
「降りられなくなりますよ」
しぐれは無視して登り続けた。
「降りられなくなる前に降りて下さい」
しぐれが枝の上から見下ろした。きゅう、と鳴いた。
「降りません、という鳴き方ですね」
俺はそれを縁側から見ていた。
透子が棚の整理を終えて、湯飲みを持って縁側に来た。
「しぐれが」
「登りました」
「降りますか」
「降りないと言っています」
「言っているんですか、あれが」
「たぶんです」
透子が湯飲みを持ったまま、柿の木を見た。
「今日は穏やかですね」
「休業日だから」
「そうですね」
しばらく、三人で柿の木を見ていた。
しぐれが枝の上でまるまって、目を閉じた。
「寝ました」
小春が呟いた。
「高いところで寝るなら、落ちないようにして欲しいです」
透子が言う。
「落ちないと思います。あの子は意外とバランスがいい」
「意外と、というのが気になります」
夕方近く、透子が俺に声をかけた。
「少し時間をもらえますか」
記録の整理をしていた透子が、帳面を一冊持って、俺の前に座った。
「今日、整理していて見つけました」
開いたページを見ると、古い記録だった。二十年以上前。
「また、俺の幼少期の案件か」
「違います。ただ、関係があるかもしれない」
透子が帳面を俺の前に向けた。
「この記録は、湊さんが神隠しに遭った時期と同じ頃の案件です。失踪した子どもの記録。ただし、この子は帰ってきています」
「それが俺の案件ではないのか」
「別の案件です。帰ってきた子どもが一人、消えた子どもが一人。同じ時期、同じ地域です」
俺は帳面を見た。
「別の案件が同時期にあった、というだけか」
「そうかもしれません。ですが……」
透子が指で一行を示した。
「この帰ってきた子どもの記録の備考欄を見て下さい」
俺は視線を落とした。
そこに、細い字でこう書いてあった。
帰還の際、赤い傘あり。
俺は動かなかった。
赤い傘。
帰ってきた子どもが、赤い傘を持っていた。
「これは」
「私にも意味が分からないです。でも、赤い傘という言葉は……」
透子が呟く。
「あの子と同じだ」
「はい。偶然かもしれない。でも、記録として残っていたので、湊さんに伝えようと思いました」
俺は帳面を閉じようとした。その前に、もう一度記録を見た。
帰ってきた子どもの年齢と、失踪した期間。
帰ってきた子どもは、四歳だった。
失踪期間は、数日。
俺は帳面を透子に返した。
「分かった」
「久世さんに確認しますか」
「……今日は休業日だ」
「そうですね」
「今日は、しておかない」
透子が帳面を閉じた。
「それでいいと思います」
透子の声は淡々としていたが、俺を見る目が少し違った。今日の発見が、透子にとっても軽くない、ということが分かった。
「透子」
「はい」
「お前が帰れなかった弟の話を、いつか聞かせてくれると言っていた」
「言いました」
「今日でなくていい。でも、覚えている」
透子が少し止まった。
「……はい。覚えていてくれていいです」
夕方になって、小春がしぐれを柿の木から下ろすのに成功した。どうやったのかは分からないが、気づいたら小春がしぐれを抱えて縁側に戻っていた。
「どうやって降ろした」
「金平糖で釣りました」
「食べるのか、あいつ」
「一粒だけ、舐めました」
しぐれが俺を見た。悪びれた様子がなかった。
「お前、金平糖も食べるのか」
俺はしぐれに言った。
しぐれがしゃら、と鳴いた。
「なんと言ってますか」
俺は小春に聞いた。
「好きじゃないけど、舐めた、という感じです」
「好きじゃないなら釣られるな」
しぐれがそっぽを向いた。
夕食は、久世が珍しく作った。
簡単なものだった。白米と、味噌汁と、焼き魚。それだけだったが、久世が台所に立つのが珍しかったので、全員が少し神妙な顔をして食べた。
「そんなに珍しいですか」
久世が問いかけると、
「珍しいです」
透子が即答する。
「たまには作ります」
「たまに、というのは何年ぶりですか」
「……覚えていません」
小春が焼き魚を丁寧にほぐしながら、「おいしいです」と言った。
「ありがとうございます」
「久世さんは料理ができたんですね」
「昔は、していました」
「昔とは」
「随分前の話です」
久世が少し笑った。困ったような笑い方だったが、今日は少し違う色があった。
懐かしそうな色。
俺はそれを見て、久世にも昔があったのだと、当たり前のことを今さら思った。
帰れなかった者にも、帰れる前の時間があった。
食後に、全員でお茶を飲んだ。
返却所に四人と一匹が揃う夜は、案件のある夜より少なかった。
しぐれが久世の足元に来て、少し警戒したあと、その場に座った。
「今日は近いですね」
小春が言う。
「久世さんに近い場所にしぐれが座るのは、珍しいです」
透子が突っ込んだ。
「そうですか。嬉しいですね」
久世は少し目を細めた。
しぐれがそっぽを向いた。
「喜んでいないみたいです」
「気のせいです」
小春の突っ込みに、久世がすぐに反論した。
俺はそのやり取りを聞きながら、お茶を飲んだ。
今日は案件がなかった。
誰も帰せなかった。でも、何かをした日だった。
掃除をして、記録を整理して、差し入れを食べて、柿の木のしぐれを見て、食事をした。
それだけの日だったが、それだけで良かった気がした。
こういう日があるということが、返却所をただの仕事場ではないものにしている。
「今日は良い休業日でしたね」
「毎日やるわけにはいかないが」
「たまにはいいですよ。たまにだから、いい」
「哲学的なことを言うな」
「哲学じゃないです、ただの話です」
そんな俺と小春との会話を聞いて、透子が「小春さんの言う通りだと思います」と言った。
久世が「同感です」と言った。
しぐれがきゅう、と鳴いた。
夜、透子と久世が帰った後で、俺と小春が残った。
今日もいつもの配置だったが、今夜の静けさは少し違った。
案件がない夜の静けさ。誰かを返す必要がない夜の静けさ。
小春が金平糖の袋を取り出した。
「今日の分」
「今日は案件がないのに」
「今日は別の理由で二粒食べます」
「さっき一粒食べなかったか」
「さっきの分と合わせて三粒になります」
「理由が増えた」
「いい日だったから、一粒増やしました」
俺は何も言わなかった。
小春が金平糖を三粒まとめて口に入れた。
「多い」
「いい日に食べるのは、帰せた日とは違う食べ方をしたいので」
「違う食べ方」
「一粒ずつより、まとめて食べると、甘さが全部一度に来ます。いい日は、そういうのがいい」
俺はそれを聞いて、何も言わなかった。
金平糖の食べ方に、そこまで考えがあるとは思っていなかった。
「今日、透子さんに何か見せてもらいましたか」
小春が聞いた。唐突だった。
「なぜ」
「午後に、二人が話していた雰囲気が、少し違ったから」
「……古い記録だ。今日の話ではない」
「そうですか」
「赤い傘、という言葉が記録にあった」
小春が動いた。微かに。でも、動いた。
「小春」
「はい」
「何か知ってるか」
小春が金平糖の袋を閉じた。
「……知っていることと、知らないことがあります」
「知っていることを言えるか」
「今夜は、言えないです」
「なぜ」
「今日は休業日だったから。重い話は、明日以降にしたいです」
俺は小春を見た。
逃げているのか、それとも本当にそう思っているのか、判断できなかった。
でも今日は、休業日だった。
久世が言った。この場所も、休まないといけないと。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「明日以降に聞く」
「はい」
小春が縁側から夜空を見た。
「今日は星が出ていますね」
「ああ」
「返却所から星を見るのは、好きです。案件がなくて、誰かを心配しないで、ただ見られる夜の空は、特に」
俺も夜空を見た。
晴れていた。星がよく見えた。
「今日みたいな日が、たまにある」
「そうですね」
「悪くない」
「悪くないですね」
小春がしぐれを撫でると、しぐれが目を閉じた。
透子の記録の話と赤い傘の記録が、頭の隅に残っていた。
でも今夜は、それを考えるのをやめた。
今夜は休業日の夜だった。明日また、誰かが迷子になるかもしれない。境界が開くかもしれない。赤い傘の子のことを、考えなければいけないかもしれない。
でも今夜は、星を見ることにした。
小春が金平糖の袋をまた取り出した。
「もう一粒」
「何の理由だ」
「星がきれいだから」
俺は笑わなかった。
でも、笑いたくなった。
それを小春は気づいていたかどうか。
夜の静けさの中で、金平糖の包み紙の音がした。
場違いなくらい、優しい音だった。




