第5章:五十日間戦争②
「……これは、どういうことだ。ライヒェナウ少将」
会戦から2週間が経過し、戦線の様相がおおむね固まり始めた頃、グラウエンシュタイン軍本陣の司令部が置かれた後方要塞には、戦局図を睨みつけ、理解に苦しむ正統帝国軍総司令官オットー3世の姿があった。
彼は職業軍人ではなく政治家であったが、正統帝国軍の一体性を象徴する存在として、また精神的支柱となるべく、帝国摂統たる彼が全軍総司令官に任じられていた。戦場経験が皆無というわけでもない。かつてのグラウエンシュタイン継承戦争において、ほぼ勝利が約束された戦場とはいえ、名目上は総司令官として従軍した経歴もある。軍事知識が欠けていたわけではなかった。
それでもなお、彼が状況の理解に苦しみ、継承戦争で名将と称えられた将軍に問いを投げかけたのは、単なる軍事的補助を求めてのことではなかった。
「敗走です」
ライヒェナウ少将は頭を掻きながら、居心地の悪そうな表情で続けた。
「各地の要塞群は悉く陥落しました。ローゼンベルク軍……いや、今はエルデンライヒ軍でしたな。彼らが快進撃を続けております」
その言葉どおり、グラウエンシュタイン軍を主体とする正統帝国軍は、各地で敗北を重ねていた。しかし、それ自体は決して珍しいことではない。軍事力において彼らは決して強国ではなく、騎士王戦争でも継承戦争でも、戦術的敗北は日常茶飯事であった。
それでも最終的に勝利を掴んできたのは、彼らの真骨頂たる外交力と粘り強さによるものである。しかし、今回の戦況は、それらをもってしても容易に覆せるとは思えないほど深刻であった。
「要塞の陥落速度が、想定の2倍です。完全に、敵の攻撃力が我々の見積もりを上回っている。今、戦線として機能しているのは、要塞という防御拠点が最後まで抵抗しているからにすぎません。野戦に出れば……一日も保たないでしょうな」
自ら口にして、ライヒェナウはどうしようもない無力感に囚われていた。
戦局図の上では、エルデンライヒ軍を示す複数の駒が、グラウエンシュタイン軍の要塞を包囲し、圧倒的な火力と展開力で要衝を正確に叩いていた。その進軍は、混沌が支配するはずの戦場にあってなお、戦力の過不足や無駄が一切なく、まるで数式に支配されているかのような規則性と、数学的な美しさを示していた。
あまりに統制された動きゆえ、皮肉にもグラウエンシュタイン軍の側でさえ、次に陥落する要塞の場所と時期をほぼ正確に予測できるほどであった。
彼らはまだ知らない。その華麗なる手腕の正体が、ローゼンベルク軍時代から存在する参謀本部作戦局――その存在意義そのものによって生み出されたものであることを。そして、その中心に立つのが、参謀総長ヘルマンの嫡子、エリアス・フォン・シュトラウセン大佐であることを。
カルノヴァ分割戦争において、緻密に計算された侵攻計画と進軍路の選定、不測事態への即応能力を高く評価された彼は、大佐への昇進と同時に作戦局局長に就任し、参謀本部次長という、ヘルマンに次ぐ地位を勝ち取った。
彼の作成する作戦計画書は、もはや数学的芸術と呼ぶべき代物であった。何か月にもわたる検討と計算を重ね、あらゆる誤差や不測事態を織り込んだ周到な準備がなされている。その執念は病的ですらあり、現実に生じる摩擦がなければ、それを阻む障害は存在しないと言ってよいほどであった。
もっとも、その計画は彼一人の才覚だけで完成したものではない。作戦局には彼を支える優秀な参謀将校が多数おり、何よりも徹底した情報収集なくして、この侵攻作戦は成立しなかった。
参謀本部は、対グラウエンシュタイン戦争を事前に想定し、現地の地勢に関する情報収集を徹底していた。道路の位置や道幅、主要な軍事施設や都市、補給可能な水源地、野営に適した地点に至るまで、グラウエンシュタインの国務省でさえ把握しきれていない情報を集め尽くしていたのである。
ヴィルヘルムが初めて正統帝国議会に出席した時から、参謀本部の将校団はたびたび現地に足を運び、調査と準備を怠らなかった。その期間は実に1年以上にも及び、グラウエンシュタイン軍ですら、彼らはこれ以上何を知るというのだと匙を投げるほどの徹底ぶりであった。
もし、この将校団の動きを阻害できていれば、あるいは侵攻は多少なりとも手こずったかもしれない。しかし、それはもはや後の祭りである。要するに、グラウエンシュタインは情報の質を軽視したのだ。だからこそ、頻繁に現地を訪れるローゼンベルク軍将校の所属すら把握できていなかったのである。
かくして、徹底した情報収集と、それを基に計算し尽くされた作戦計画の成果は、戦場で遺憾なく発揮された。エルデンライヒ軍は、まるで定期軍事演習を再現するかのように、滑らかな進撃と攻撃を繰り返し、グラウエンシュタインが構想していた戦局形成の主導権を完全に奪い去った。
もっとも、大砲などの火力が充実したこの時代において、要塞はもはや絶対的な防御力を保ち得なかった。エルデンライヒ軍の侵攻が緩やかに見えたのは、戦線の突出を許さず、参謀本部の強固な統制下に部隊が置かれていたからである。
前線指揮官たちは、逸る心を抑え込まれるかのように待機命令と進撃予定時刻の厳守を命じられ、戦っているというよりも、操作されている感覚の方が強かったと、後に証言している。
想定を超えるエルデンライヒ軍の迅速な侵攻に、オットー3世は明らかに焦燥していた。
「では、どうするのだ。このままでは、この総司令部すら危険に晒されるのではないかね?」
突き詰めれば、彼の懸念は単純である。後方地帯とはいえ、このまま敵の進撃を食い止められなければ、いずれ戦火はこの司令部にも及ぶ。その時、ここは戦場となり、自身の身も危険に晒される。彼の意識は、もはやグラウエンシュタイン軍の勝利よりも、自らの安全へと傾いていた。
本来、帝国摂統に万一のことがあってはならないため、徹底して安全圏に置かれるのが常である。しかし今回は例外であった。エリザーベト直々の命令により、オットー3世は“戦場と呼んでも差し支えない”位置に据え置かれていたのである。
その理由を、ライヒェナウは彼女から直接、かつ内密に告げられていた。
「正統帝国軍が一体性を保つには、オットーが戦場に在り、総司令官として振る舞っている姿を示さねばなりません」
「しかし国母様、それでは大公殿下の安全が保証できません。私の取り柄は逃げ足の速さですが、確実に逃がせる保証は……」
「その場合は考慮しなくて結構です。オットーの後はマクスが継ぎます。彼の役目は、正統帝国軍を瓦解させない要石であること。それだけです」
「……それは、捨て石にしてもよい、ということでは?」
「そこまで言わない方がいいわ、ヨーゼフ。あなたも長生きはしたいでしょう?」
――そのような一幕が、確かに存在した。
つまり、ライヒェナウに課せられた役目は二つ。いざという時には継承戦争で発揮した軍事的手腕を振るえるよう司令部に控えること。そして何より、オットー3世を何としてでもこの場に留め置くことであった。
嫌な役回りを押し付けられたものだ、とライヒェナウは内心で吐き捨てた。実の息子すら勝利のための道具として使い潰すエリザーベトの冷徹な思考に、底知れぬ恐怖を覚えずにはいられなかった。
その観点に立てば、オットー3世の身の安全など度外視して構わない。しかし、ライヒェナウ自身もまた、できれば戦火に巻き込まれたくはない。彼は自他を納得させるための“安心材料”を提示することにした。
「進撃というものは、永遠には続きません。前進すればするほど兵站線に負荷がかかり、必ず限界点が訪れます。どんな軍でも、止まらざるを得ない瞬間があるのです」
「……確かな話か?」
「ええ。私も継承戦争では、ローゼンベルク軍の進撃限界を見極めることで生き延びてきました。その点はご安心を」
ライヒェナウの指摘は合理的であった。理屈としても、経験則としても説得力がある。いかに強大な軍であろうと、補給が滞れば戦えない。軍が前進するたびに兵站線は伸び、それを維持する負担は加速度的に増大する。弾薬と食料なくしては、戦うどころか生存すら不可能だからだ。
そこが、エルデンライヒ軍にとって唯一といってよい弱点となり得た。
彼らは厳格な規律と整備された体制を重んじ、それを疎かにしたまま戦争を始めることはしない。かつて先王フリードリヒ2世が犯した過ちを、聡明にして清廉なるヴィルヘルム2世が繰り返すとは考えにくかった。
対照的に、グラウエンシュタインでは補給が滞れば“戦場”から略奪して賄ってきた。それが自国であろうと他国であろうと変わらない。多くの問題を生んでも、「戦場だから」という言い訳で黙認されてきたのだ。ライヒェナウ自身にも、その心当たりはあった。
そして皮肉なことに、ヴィルヘルムとエルデンライヒ軍がそのような無茶をしないという“信頼”こそが、彼にこの安心材料を与えていたのである。
「敵の進撃が鈍ったところで、一気に戦力を投入する。身動きが取れず、戦闘力も低下した敵に打撃を与えれば、彼らは撤退せざるを得ません。我々は少ない負担で勝利を得られるのです」
もっとも、それは敵軍の兵站状況と進撃限界点を正確に見極め、かつ反撃可能な戦力が残っていればこそ成立する戦法であった。そして、その前提条件の一つに、早くも不安が生じていた。
「……サルヴィアの連中は、いつ来る?このままでは我が軍の損害が増す一方ではないか」
「……ええ、本当に」
ライヒェナウが遠い目をしたのは、開戦前より予定されていた援軍到着の遅れ以上に、彼らが戦力として数えられるかどうかに疑念を抱いていたからである。しかし、それを悟らせぬための言葉は、長い軍歴の中で身につけていた。
「弾除けになれれば十分です。それで我らの同胞の血を流さずに済むのなら……」
その言葉が、自らの理想とする軍人像からどれほどかけ離れているかを自覚しながら、ライヒェナウは密かに悲壮感を噛み締めていた。




