第4章:議場で踊る、ゆえに進まず⑦
この国は……グラウエンシュタインは、いや、正統ルガルディア帝国そのものが、もはや終わりだ。
エルンストは、対ローゼンベルク同盟網の構築に尽力し、各地を奔走した末に悟っていた。祖国、そしてそれが盟主を務める共同体の未来が、致命的なまでに乏しいという現実を。それは彼の優れた慧眼と比類なき分析力によって導き出された、冷酷な結論であった。
『雷鳴王の反逆演説』
大陸暦1274年1月1日に行われたエルデンライヒ大同盟成立宣言と、それに付随する演説を、グラウエンシュタインを中心とする正統ルガルディア帝国ではそう呼んでいた。
その衝撃的かつ不遜極まりない意思表明は、これまで当事者意識に乏しかった帝国諸侯に、ようやく現実的な危機を自覚させた。臨時に招集された正統帝国議会では、賛成多数によって非難決議が採択され、帝国はついに決断する。ローゼンベルク――いや、エルデンライヒ大同盟を自称する敵対勢力に、真正面から対抗する覚悟を。
ヴィルヘルムは、その名が示す通り、新たなる帝国の建設と、そこに君臨する“皇帝”の存在を仄めかしていた。それは「皇帝の不在を守る帝国」という矛盾した国家理念を掲げる正統ルガルディア帝国にとって、最大の禁忌であり、決して触れてはならないタブーであった。かつて皇帝を僭称した侵略者シャルル騎士王――その再来を、まさか帝国内部から生み出してしまったという事実に、彼らは激怒したのである。
さらにヴィルヘルムは、正統ルガルディア帝国を明確に“敵”と名指しし、自身の帝国の発展を妨げる者は、実力をもって排除すると宣言した。貴族制の廃止、強力な常備軍の創設、国家元首を民衆が選出する制度。伝統を重んじる帝国諸侯にとって、それらはあまりにも危険な政治思想であり、ヴィルヘルムはまさしくシャルル騎士王の生まれ変わりと映った。歴史的に見ても、そのような『帝国』の存在を許容する理由など、彼らにはなかった。
こうした明確な脅威が、これまで腰の重かった諸侯たちの闘争心を刺激し、エルンストが待ち望んだ“正統帝国軍の結成”へと至る。しかし、その実態は、彼の期待とは大きくかけ離れたものであった。
兵力だけを見れば、正統帝国軍は40万という大軍勢に膨れ上がった。中核を担うのはもちろんグラウエンシュタインであり、多くの諸侯が兵を動員した結果でもあった。それは、かつてのグラウエンシュタイン継承戦争をも上回る規模であり、戦時体制下におけるローゼンベルク軍の想定戦力すら凌駕するとされた。その“数”という分かりやすい指標が、諸侯たちに根拠の薄い安心感と余裕を与えてしまったのである。
彼らは、まだヴィルヘルムに勝利すらしていないというのに、戦後のローゼンベルク勢力圏の分割と利権配分について、協議と謀略に熱中し始めた。確かに、帝国の平穏を乱し、明確に反意を示したヴィルヘルムの国家が、戦後に解体されるというのは道理ではあった。しかし、戦う前からそれを競い合うように画策するのは、あまりにも愚かであった。
もっとも、その“戦後の利益”という分かりやすい餌こそが、戦争に消極的だった諸侯を焚きつけるための口実として用いられたのも事実である。だが、損失と利益の勘定にのみ心を砕く諸侯の寄せ集めで、一体何ができるのか。エルンストには疑問しかなかった。彼らは継承戦争においてすら戦闘を忌避し、外交と締め出しに終始した者たちであり、実戦経験は乏しく、軍備の近代化もグラウエンシュタインに大きく遅れを取っていた。それでもなお、数で勝っているという一点だけを根拠に、ローゼンベルクを中核とするエルデンライヒに勝てると本気で信じていたのである。
もっとも、正統帝国軍の結成過程は順調とは言い難かった。参陣を拒否した諸侯、あるいはエルデンライヒと通謀したと見なされた者は、見せしめとして弾圧され、領地および権限を没収された。このような内部粛清によって秩序と統率は確保されたが、軍勢は一枚岩ではなく、離脱や脱走を防ぐための強権的措置の下で結集された存在であった。
確かに、40万という軍勢が示す存在感は大きく、これを効果的に運用できれば、外交交渉の場でヴィルヘルムと協議を重ねる余地もあっただろう。しかし、稀代の外交戦略家エリザーベトですら、もはや交渉による決着は不可能と判断していた。彼女たちは、継承戦争以上に強硬な姿勢で、力によって雌雄を決する覚悟を固めていたのである。
それは国家理念の上では妥当な判断だった。もはや旧来の友好や協調に戻ることは望めず、外交的妥協の最善ですら、エルデンライヒの存在を認めた上での帝国存続――すなわち、事実上の分裂を意味していた。ゆえにグラウエンシュタインは、この戦で勝っても負けても、ヴィルヘルムと“帝国の盟主”の座を決する必要があった。その冷徹な判断自体は、称賛に値する。
だが、エルンストが理解できなかったのは、エリザーベトらが、敗北が濃厚、あるいはほぼ確定した状況に陥ってなお、外交次第でグラウエンシュタインの地位は保証されると信じ込んでいたことだった。その絶望的な楽観主義に、彼は嘆息せずにはいられなかった。
――あのヴィルヘルムが、そのような慈悲を与えると本気で思っているのだろうか。
あり得ない…
彼らは、まだヴィルヘルムを見くびっていた。確かに彼は、有能であれば敵味方を問わず重用し、国家を発展させてきた。しかし現実は甘くない。ヴィルヘルムは、ボレニアでもローゼンベルクでも、統治に反意を示した貴族を容赦なく排除し、有力な商会を有するキルベックの商人であっても、その資産と利権を躊躇なく没収した。彼が必要としていたのは、命令に従う有能な人材であり、旧来の支配層ではなかった。彼らは次々と、新たな人材にその座を奪われていったのである。
長年の国際的伝統と、なまじ豊富な外交経験が、彼らから“新しい時代そのもの”に向き合う真摯さを奪っていた。
そして後に訪れる大失態は、その当然の帰結に過ぎなかった。
『グレンツマルク外交事件』
ローゼンベルクとグラウエンシュタインの国境地帯に位置する都市グレンツマルクは、両国にとって軍事的・外交的最前線であった。
そこでグラウエンシュタインの外交団は、ローゼンベルクに対し、正統帝国議会において採択された非難決議文を通達した。内容は、エルデンライヒ大同盟の即時解散、ならびにローゼンベルク王国が今後、グラウエンシュタイン主導の正統ルガルディア帝国へ復帰することを要請するものであった。
この一方的な通達は、事実上の宣戦布告として受け取られた。
エルデンライヒ全体を激怒させるには、あまりにも十分すぎる内容だったのである。
それはヴィルヘルムがかねてより語っていた「我々の繁栄を妨げる明確な敵」そのものであり、グラウエンシュタインが、エルデンライヒという自分たちが築き上げた国家を害する意思を持つ勢力であることを、誰の目にも明らかにした。
結果として、エルデンライヒ国内では対グラウエンシュタイン強硬論が爆発的に広がった。
若者たちは、男女の別なく、出身の違いも問わず、自らの誇りを託した国を守るためにエルデンライヒ軍への仕官を志願した。その数は当初の想定を大きく上回り、軍は急速に膨張していった。
同時に、この戦争を招いたのはグラウエンシュタイン側である、という認識までもが広く共有されるようになった。
さらに事態を決定的にしたのは、この外交団の団長を、グラウエンシュタイン外務大臣テオドール自らが務めていたという事実であった。それは、グラウエンシュタインが後戻り不能な覚悟をもって臨んでいることの明確な表明として受け取られ、事態は修正不可能な段階へと突き進んでいった。
エルンストは、そこで完全に絶望した。
もはやエルデンライヒに勝てる見込みはない、と。
国際的な観点から見ても、宣戦布告に相当する直接的通知を行ったのはグラウエンシュタイン側であり、エルデンライヒは挑戦を受けた被害者という立場を得ていた。経緯がどうであれ、大義名分は彼らにあった。そして、その正義を原動力として膨張した強大な軍事力と明確な国家意思こそが、彼らの士気の高さを何より雄弁に物語っていた。
軍備の近代化を最も推し進めてきたエルデンライヒ軍と、諸侯の寄せ集めである正統帝国軍との差は、もはや覆いようがなかった。
エルンストは、グラウエンシュタインが敗北する未来を確信していた。
そして、それが彼自身が最も忌避してきた、正統ルガルディア帝国の分裂と崩壊を招くのであれば――いっそヴィルヘルムに平伏し、新たな帝国体制の中でグラウエンシュタインの立場を確保する方が、よほど賢明ではないか。
その意見を、彼はかつてエリザーベトに直接ぶつけたことがある。
返答は即座の却下であった。
皇帝の不在を守ることを至上原則とする正統ルガルディア帝国に、平伏すべき相手など存在しない。ましてや『皇帝』を僭称する支配者の下につくなど、断じてあり得ない――そう一蹴されたのである。
それは、冷静で現実的利益を最優先する外交戦略家としてのエリザーベトには、あまりにも似つかわしくない、伝統と固定観念に縛られた判断だった。しかし、もはや戦わずして剣を収めるという選択肢は、彼女自身にとっても、彼女が結集した諸侯と軍勢にとっても、受け入れ不可能なものとなっていた。
そして、エルンストが“決定的な判断”を下すことになる言葉が、エリザーベトの口から放たれた。
「ローゼンベルク軍の緒戦の侵攻を食い止める役目に、“サルヴィア功労兵”を動員しなさい。この際、動員兵力に制限は設けないわ。彼らの第一撃を耐えられるだけの兵力があれば、それでいい」
『サルヴィア功労兵』
それは、グラウエンシュタインが半世紀にわたり代行統治という名目で占領支配してきたサルヴィアから徴発されたサルヴィアトによって編成される部隊である。
すなわち、占領地の人間を兵士として動員し、最前線に立たせ、本国軍の態勢が整うまでの時間稼ぎとして消費するという決断だった。しかも、冬季で農作業が一段落する時期であり、「余った人員をいくら消耗しても構わない」という認識に基づくものであった。
苛烈な支配の下で貧困に喘がせ、強制労働と性的搾取を強い、そのうえで使い捨ての盾として消費する。
犠牲を一切顧みることなく。
その瞬間、エルンストは悟った。
グラウエンシュタインとは、いや、正統ルガルディア帝国とは、他者に犠牲を強いることでしか存続できない、旧態依然とした伝統と傲慢の政治連合体なのだと。
彼は最後に、エリザーベトへ問いを投げかけた。
「国母様。一つだけ、愚かで無知な私に教えてください。“偉大な国”とは、何でしょうか」
エリザーベトは、はっきりと答えた。
「偉大な国とは、“強さを証明し続ける国”のことです。その強さによって多くの者を安心させ、恒久的な安寧と繁栄を与えられる国。私はそれを成し遂げなければならないし、エルンスト、貴方にもその一員として尽くしてほしいのです」
エルンストは深々と頭を下げた。
無礼な問いへの謝罪と、明確な答えへの感謝を述べて。
「ありがとうございます、国母様。私はようやく、自分が本当にやるべきことを理解できました」
その晴れやかな表情に、エリザーベトもまた安堵を覚えた。
ついに彼も国家理念を理解してくれたのだと。
――だからこそ、それは彼女にとって受け入れがたい出来事だった。
その日を境に、エルンストが外務省に姿を見せなくなったこと。
使いの者が彼の自宅を訪ねた際、妻から「夫はローゼンベルクへの外交出張で留守にしていると聞いておりますが」と告げられたこと。
そして、エルンストが何の前触れもなく、ローゼンベルクへと姿を消していたこと。
それらすべてが、エリザーベトには理解し難い出来事であった。




