第4章:議場で踊る、ゆえに進まず⑥
「アーデルハイト様……よろしかったのですか?」
ヴィルヘルムの演説が終わり、将来的な国家の展望が民衆に示されたその時、側近たちもまた、初めて彼の真意を知った。大胆不敵で破天荒な宣言は、民衆と同様に彼らをも高揚させたが、同時に胸中に別の思いを渦巻かせてもいた。
――王妃アーデルハイトと、第一王子ヴィクトルの行く末
その問いを、直接本人に確認する役目を負ったのはヨハンだった。
彼はボレニア戦争でアーデルハイトの護衛を務めたことを契機に、彼女の個人的な相談役として信頼を勝ち取っていた。さらに、ヴィルヘルムの副官である高級副官部部長という立場も、その信用を後押ししていた。ローゼンベルク王族に最も近しい側近――それがヨハン・リッテンベルク少佐だった。
だが、この時ばかりは、その立場を呪いたくなった。
誰もが聞きたいが、誰もが聞くことを憚る問い。
――我が子が王位、あるいは帝位を継げないことを、王妃はどう思っているのか。
その問いを、ヨハンは代弁する役目を負わされたのだ。
アーデルハイトは、もうすぐ1歳になるヴィクトルをあやしながら、静かに答えた。
「それはもう承知しております。私が陛下と一緒になる前、陛下から求婚された際に、すでに告げられていたことですもの」
その言葉を聞いて、ヨハンは思わず目を見開いた。
自分の子が王位や帝位を継げないことを承知の上で、ヴィルヘルムの妻となった――その事実も驚きだったが、さらに彼女がそれを受け入れていたことに、ヨハンは息を呑んだ。
目が飛び出るのではないかと思うほど見開くヨハンの表情に、アーデルハイトはくすりと笑う。
そして、ヴィルヘルムから求婚された時のこと、つまりボレニア侯国の首都ボヘリクにある侯爵の居城での出来事を、彼女は語り始めた。
ヴィルヘルムは当初から、アーデルハイトとの結婚には前向きではなかった。それは彼の態度を見れば明らかであり、周囲の暗黙の認識でもあった。
その理由は、明確だった。
「私は、自身の子に王位を継がせるつもりはない」
ヴィルヘルムは、揺るがぬ決定事項であるかのように、そう告げた。
ザールマルク家の血を引く子を大国の後継者にする――アーデルハイトが最も重視していたその目論見は叶えられない、と。
血統のみで君主と仰がれる時代は終わる。
より相応しい者が、国家の頂点に立つべきだ。
それは、後にアドリアンへ語った思想と、寸分違わぬものだった。
無論、アーデルハイトは絶望した。
ザールマルクの血を後世へ繋ぐという最大の目的が果たされない。それだけで、彼との結婚を選択肢から外すには十分だった。
幸いにも、ヴィルヘルムは政略結婚なしでも、ローゼンベルクとザールマルクの友好と協力関係を維持すると約束していた。彼女の目的は半ば達成されていた以上、結婚に固執する理由はなかった。
だが、それをわざわざ話す必要は、ヴィルヘルムには本来なかった。
この時のアーデルハイトにその事実を伏せ、後に明かしても、彼にとっては何ら不都合はなかったはずだ。
それでも彼があえて話したのは、どこかでアーデルハイトに対して義理を通そうとする切実さの現れだったのかもしれない。
それでもなお、アーデルハイトがヴィルヘルムとの婚姻を決意したのは、その事情も考慮に入れた結果だったのだろう。そして、彼女はこう語った。
「陛下のお考えは実に先進的です。あるいは本当に、それが実現する未来が来るのかもしれません。でも…」
アーデルハイトはヴィクトルの頭を撫でながら、あり得る、いや妥当な未来についても静かに語った。
「もしそれが実現しなかった場合、王位や帝位を継ぐための最も有力な拠り所は“血筋”になる可能性が高い。ゆえに、私は保険として子を成すことを譲りませんでした」
結婚したばかりの新婚夫婦でありながら、当初は寝室も分かたれていた。ヴィルヘルムが子供を作る気はないと明言していたからだ。しかし、アーデルハイトは多忙な財務相の業務に追われる日々の中でも、歩み寄りを諦めなかった。仕事の相談から始まり、個人的な世間話を重ねることで、ようやく私的な会話を交わせる関係となり、やがて彼と床を共にするに足る信頼を、彼女は勝ち取った。
その過程を最も間近で見ていたのがヨハンだった。
ある朝、「朝食は彼女と取る。一緒のメニューを用意するよう料理長に伝えてくれ」と、何気ない業務指示として告げられた時、彼は動揺を隠せなかった。
極めつけは、ヴィルヘルムから微かに漂うアーデルハイトの香りだった。
それが、二人が政治的立場を超えた夫婦になった確信だった。
そして、アーデルハイトの体調不良に最初に気づいたのもヨハンだった。
診断を下したのは宮廷医師だが、最初の違和感に気づいたのは彼である。
ヴィルヘルムとアーデルハイトの関係を最も近くで見守ってきた彼にとって、夫婦の愛情の証と跡継ぎの誕生は、自分のこと以上に喜ばしいものだった。
だからこそ、ヴィルヘルムの演説を聞き、裏切られたように感じたのも無理はなかった。せっかくの跡継ぎである男児が生まれ、何よりも子供を望んで、ヴィルヘルムへの歩み寄りを諦めなかったアーデルハイトの努力が、無に帰すように思えたからである。
だが、彼女はそれすら承知の上で、ヴィルヘルムの子を産み、さらに、ヴィルヘルムの展望が実現しなかった時のために備える――王妃らしい現実的な考えの持ち主であった。
そして、アーデルハイトがそれだけで満足し、大人しく従う女性ではないことを、ヨハンはここで改めて思い知らされた。
「それに、ヴィルヘルム陛下の後継者にヴィクトルが絶対に選ばれないというわけではありません。後継者に相応しい人物に育て、皆から認められ、選ばれるような人間になればよいのです」
アーデルハイトは母親としての優しくも真剣な眼差しを、我が子に向けた。
「私は我が子がヴィルヘルム陛下の後継者になれるという希望を捨てません。それに相応しい人物に、しっかり育ててみせます」
母は強し――よく言われることだが、それは使命感やひたむきさという彼女の長所であると同時に、母親となったことで身につけた、さらなる覚悟の強さを如実に示していた。
そしてヨハンを見て、かつて彼が抱えていた悩みに関連する未来の道筋も考慮していることがうかがえた。
「もし、後継者に向かず、それを重荷と思ってしまう子であったならば、それだけを背負わせず、別の道も与えられる母でなければなりませんね」
「ええ、アーデルハイト様は良きお母君になれると思います」
「ありがとうございます。それに……」
アーデルハイトは腹部に手を当て、にやりと微笑んだ。
「私はヴィクトル“だけ”に賭けたりするほど、見込みの甘い女ではありませんよ」
「……え、はっ⁉」
その言葉の意味を理解したヨハンは、再び驚愕した。
「も、もう次の⁉」
「私、ヴィルヘルム陛下の好みがわかってきたような気がするんです」
「おやめください、アーデルハイト様。私は陛下のそのようなお話は聞きとうございません」
耳を塞ぐヨハンに、アーデルハイトはさらにからかう。
「あら、ヨハンも意外と初心なんですね。まだお相手がいらっしゃらなかったら、知り合いをご紹介しますけど?」
「ありがたいですが、私ではどなたも相手にしてくれないことは分かっています。変に期待を持たせないで頂きたい」
実際のところ、このような聞き上手で誠実かつ献身的なヨハンの人柄は、密かに周囲の女性から好かれる美点であった。しかし、本人に自覚はなく、なぜ令嬢のお茶会に呼ばれるのか理解できないことを、アーデルハイトに相談していたのはまた別の話である。
ともあれ――
アーデルハイトという強き母親がヴィルヘルムの子供たちを立派に育てたことは間違いない。
そして、その中から彼女の思惑通りの後継者が現れるのだが――
それもまた、別の、未来の話として、今は取っておくのが賢明であろう。




