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第1章:狼と出会った日⑤

 ジークハルト一行が自軍の前線基地に帰投したのは、太陽が完全に昇りきり、やがて夕刻へと足を踏み入れようとしていた頃だった。


「「……」」


 誰一人として口を開こうとしないのも当然だった。彼らは深夜に国境越えのため山へ入り、凍える山中で夜を明かし、早朝には敵軍と交戦し、発見される危険を抱えながら昼間の山中を一気に駆け抜け、ようやく自国へと帰還したのだ。すでに興奮はとうに切れ、押し寄せてくる疲労に身を委ねるしかなかった。


「……これは、どれほどの戦果なのだ?」


 特別体力が余っていたわけではない。しかし、ヴィルヘルムはそれを確認せずにはいられなかった。自分たちの苦労がどれほどの功績となったのか――その本心を抑えることはできなかった。だが、ジークハルトの口から返ってきたのは期待するような答えではなかった。


「さあな……せいぜい、今日の朝食が遅れたか、少し減ったか、その程度だ。要塞建設用の資材も大して燃やせなかったからな……」


 絶望しているわけではない、ただ淡々としたジークハルトの声音を聞いた瞬間、ヴィルヘルムはわずかに抱いていた達成感さえ裏切られたように感じた。あれほどの苦労をして、敵に強いた損害が“朝食のパンが減る”程度――その事実は身に染みた。


 だが、ジークハルト自身は十分に満足していた。味方の損害は軽傷者2名のみで死者はおらず、襲撃そのものは成功。全体としては小さくとも確実に損害を与えたのだ。これ以上を望むなら、相当数の兵力を揃え、規模を桁違いに増やして攻撃するしかない。それは不可能であり、今回が精一杯だった。


 彼らの預かり知らぬところではあるが、共和国はパンよりも荷馬の消耗という点で痛手を負っていた。戦線維持のため補給回数を大幅に見直し、残った荷馬を3週間にわたり酷使することとなった。しかし、損害とはその程度であった。


「こんなことを、これまでも何度もやってきたのか?」


「こんなことを、これからも何度でもやるんだよ」


 残酷なことに、この地道な補給路破壊作戦だけが有効な戦法だった。そして、ジークハルトという男は、それを愚直なまでにやり続ける人間である――ヴィルヘルムは、わずか1日の同行でその人柄を理解してしまった。


 有能で勤勉なジークハルトが、身分と階級の低さゆえに軽んじられ、過酷な役目を負わされている現状に、ヴィルヘルムはひそかな怒りを覚えていた。東部戦線の司令部にジークハルト・フォルラートという影の功労者を知る者はいない。そもそも認識すらしていない。なぜなら、彼の存在は戦争を、戦局を、戦場を、根本から揺るがすほど大きくはないからだ。世界はそうした不条理を抱えたまま呼吸している。そして、その責任を問われる者もまたいない。


 しかし、ヴィルヘルムは、その不条理が支配する世界にあっても、ローゼンベルク王国の王子という立場の範囲でそれを変え得る力を持っていた。それは生まれ持った特権であり、ヴィルヘルムという男はそれを躊躇うことなく果断に行使する明快な意志を生来の資質として備えていた。


「ジークハルトよ。この戦争を終わらせたいとは思わないか?」


 ヴィルヘルムは厳かに問うた。


「常日頃から、そう思っているさ」


 叶わぬ願いであると知りながら、それでもいつか終わる日を待ち続けるしかない――現在のジークハルトはそんな受動的な存在だった。


「お前が終わらせるのだ」


「……俺が?」


 ヴィルヘルムはジークハルトを“世界に干渉する側”へと引き上げることを決意した。


「私と来い、ジークハルト! 勝利の名を冠する灰狼よ!」


 差し出された手を、ジークハルトはしばし見つめるしかなかった。夢にも思わなかった誘いが、突然目の前に差し出されたのだ。


 その誘いを断ったとしても、ジークハルトを責めることはできない。平民として国の都合に振り回される存在とはいえ、彼には彼の人生がある。徴兵期間が終われば故郷へ帰り、猟師として母と妹を養い、いずれは自分の家族を持つ――そんな慎ましい未来を思い描く権利は当然あった。


 だが、彼が躊躇した理由は、まだ見ぬ幸福への未練ではない。ヴィルヘルムの内に別の“何か”があると気づいていたからだ。だからこそ、確かめずにはいられなかった。


「“この戦争を終わらせるだけ”が、ヴィルヘルムの願いじゃないだろ?」


 一日の付き合いとはいえ、ジークハルトはヴィルヘルムの心に灯る炎を見抜いていた。それが何なのかは分からない。しかし、それが自分の心をどうしようもなく沸き立たせる――人間に失望していた彼でさえ、それを感じていた。


「今の私には尊大すぎて語れないな。だが、いつか口にしてみたいものだ」


「なら、その夢を聞くために戦ってやるよ。お前、射撃が下手だからな。援護が必要だろ?」


 素直ではないジークハルトは軽口を叩きながらも、差し出された手をしっかりと握り返した。


 元来、野性の狼は人に懐かず、飼い慣らされることもない存在である。であるならば、彼らの関係は支配と従属の主従ではなく、共闘、連帯という絆――仲間であり、同志であり、友と言えるだろう。


 この瞬間、ヴィルヘルムとジークハルトは“友”となった。




 ローゼンベルク王国とカルノヴァ=ストリェッツ共和国の間で勃発した一連の戦争『ノッセル回廊会戦』は、歴史上最も無益な長期戦争として悪名高く、その点だけは後世の軍事学者や歴史家の評価が一致している。だが、この戦争がなければ、ヴィルヘルム・フォン・ローゼンベルクとジークハルト・フォルラートが出会うこともなかった――その点はほぼ確実だ。それほどに、この二人の出会いは歴史的に重要な意味を持つ。


 ヴィルヘルムは、予定されていた総攻撃準備命令を急遽解かせ、王都ベルデンへと帰還の途についた。行きとは違い、帰るときは一人多い陣容で。


 総司令官たる王族の不在により、東部戦線は東部方面軍司令官の指揮の下、停滞した戦局を維持する方針へと戻った。その間に、共和国軍はノッセル回廊の大規模要塞群建設をさらに推し進めた。


 彼らが再びこのノッセル回廊に姿を見せるのは、それから4年後のことである。

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