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第1章:開戦①

 実は『アルツベルク=ローレナウ問題』とは、歴史的にも根深い問題である。


 この問題の複雑さは、地域の呼称そのものにも表れている。


 正統ルガルディア帝国およびその後継国家であるエルデンライヒ帝国の言語表現においては、この地域は「アルツベルク=ローレナウ地域」と呼ばれる。一方、サンテルラン央王国の言語では一般に「アルゼーヌ=ロリヴィ地域」と称される。


 この差異は単なる言語的変形や訛りの問題ではない。両者がそれぞれ、この地を自国の歴史の中で“領有した”と認識してきた事実こそが、この二重の呼称を生み出しているのである。


 その起源は、やはり騎士王時代に遡る。大陸南方部を支配下に置いたシャルル騎士王は、やがて北上し、正統ルガルディア帝国領へと矛先を向けた。アルバレオンとの大海戦を経て、騎士王の野心が環南中海地域のみにとどまらないことを悟った諸国は、ルガルディア大陸中央部最大の陸地である半島『テッラマグナ』にも、その脅威が及ぶことを認識した。そして騎士王は、このアルゼーヌ=ロリヴィ地域を最初の征服地とするに至ったのである。


 これを騎士王の揺るがぬ意志と読み取り、避けられない戦いへの宣戦布告と受け取った諸国は、正統ルガルディア帝国を建国した。これは騎士王に対抗するために設立された諸国連合であり、その戦績はほとんど敗北で埋め尽くされるという惨憺たるものであった。しかしながら、それでも騎士王亡き後の後騎士王時代において、地域統合の象徴となる程度には歴史的意義を有していた。


 騎士王軍の占領を受けていた諸邦も次々とこれに合流し、騎士王の再来に備える連帯として、この体制の存続が選択された。


 その中には、真っ先に騎士王に占領されたアルゼーヌ=ロリヴィ地域も含まれていた。同地域は正統ルガルディア帝国の言語表現に従い「アルツベルク=ローレナウ地域」と改称され、当地の領主であった貴族の所領はアルツベルク辺境伯領とされた。また隣接するローレナウ地域は、後に石炭や鉄鉱石の産地として注目され、正統ルガルディア帝国の共同管理下に置かれた。この体制は、帝国が崩壊するまでの150年以上にわたって続くこととなる。


 この期間、同地を領有していた正統ルガルディア帝国の立場からすれば、この地域は紛れもなく帝国の構成地域であり、サンテルラン央王国のものではないという認識は揺るがなかった。


 一方で、サンテルラン央王国の立場から見れば、前騎士王時代には正統ルガルディア帝国のような広域的政治連合は存在しておらず、同地域には明確な国家的所有主体は存在していなかった。したがって、土地を実際に支配していた領主こそがその唯一の所有者であるという認識に立つならば、騎士王が武力によって同地を征服したことは当時の戦争慣行に照らして正当な領有権の根拠となり得る。ゆえに、この地域はサンテルラン央王国の歴史的領域の一部であったと主張することも可能であった。


 この認識の齟齬、あるいは所領を巡る争いとも言うべき対立は、正統ルガルディア帝国とサンテルラン央王国の間に緊張関係を生み出した。特に正統ルガルディア帝国の西方諸侯は、騎士王を生み出し、同地域の領有を主張するサンテルランを強く警戒した。そのため彼らは、実際には軍事力に乏しく、本来の目的である侵略者の共同撃退という意思にも欠ける、いわば諸邦の寄り合いに過ぎなかったにも関わらず、正統ルガルディア帝国という共同体にとどまり続けたのである。


 幸運と言うべきか、後騎士王時代におけるサンテルラン央王国は、国内の対立と、すでに手に入れていた大陸南方部の植民地支配の維持に追われ、正統ルガルディア帝国領への侵攻には踏み出さなかった。


 さらに直近およそ半世紀においては、稀代の外交戦略家として名高いエリザーベト・フォン・グラウエンシュタインの卓越した外交手腕、帝国内諸侯の協調体制、そして孫娘を用いた婚姻政策によって、辛うじて平穏が保たれてきたのである。


 しかし、ついにその平穏にも終わりが訪れる。


 ローゼンベルク勢力とグラウエンシュタイン勢力の間で勃発した帝国盟主大戦、そして騎士王の生まれ変わりを自称する天才軍略家シャルル英傑王の登場である。この二つの出来事の時期が重なったのは、歴史の偶然である。


 正統ルガルディア帝国の遺産を継承する形で成立したエルデンライヒ帝国にとっても、父王を退位させて自らの治世を確立する実績を求めていたシャルル英傑王にとっても、このアルツベルク=ローレナウ問題は避けて通ることのできない鬼門であった。


 しかし、より冷静に事態を分析するならば、この対立を両者の登場によって引き起こされたものとして彼らに責任を帰するのは、いささか酷であると言わざるを得ない。


 なぜなら、仮にシャルル英傑王という野心家が現れなかったとしても、拡張志向の大国エルデンライヒ帝国の脅威に備えるためには、サンテルラン央王国が同地域を防壁となる緩衝地帯として確保しようと行動することは十分に考えられたからである。


 また、仮に正統ルガルディア帝国が存続していたとしても、シャルル英傑王の脅威に対して防衛措置を講じるため、あるいは戦乱を回避するための外交的調整の過程において、この地域の領有問題が大きな争点となることは避けられなかったであろう。


 あるいは、かつてエルデンライヒ帝国内で勃発したグルーバー反乱の首謀者の一人リュッケンが構想していた「正統ルガルディア西方諸侯連合」が、両国の間に位置する緩衝地帯として成立していたならば、事態は異なっていたかもしれない。


 しかし、皇帝ヴィルヘルムとシャルル英傑王という二人の野心家が同時代に並び立った以上、その想定も構想もまた夢幻に終わらざるを得なかった。


 結局のところ、『アルツベルク=ローレナウ問題』とはエルデンライヒ帝国とサンテルラン央王国の双方にとって回避不能の構造的対立であり、拡張志向の君主がそれぞれの国家の頂点に立った時点で、この問題の解決手段として現実的に残された選択肢は、最終的には武力衝突に帰着するほかなかった。


 エルデンライヒ帝国において、その拡張政策が必ずしも皇帝ヴィルヘルム個人の意思と完全に一致していたわけではない。しかし、両陣営が武力によって決着を図ること自体は、すでに避け難い帰結となっていた。


 また双方とも、この戦争が短期間で決着するものと予想していた点でも共通していた。やがてその見通しが崩れ去ったとき、程度の差こそあれ両国が大きな困惑に直面することになる。




 大陸暦1276年8月3日――エルデンライヒ帝国、サンテルラン央王国へ宣戦布告。


 翌8月4日――サンテルラン陸軍が前進を開始し、両軍はついに戦闘へ突入。


 かくして、アルツベルク=ローレナウ問題に端を発した『エルデンライヒ=サンテルラン戦争』、後世において『第一次ルガルディア大戦』と呼ばれる大乱の主戦の火蓋は切って落とされたのである。

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