第3章:同じ戦場、それぞれの戦争⑤
「殿下、お久しゅうございます」
「久しいな、ブレンデル中将。4年ぶりだったか」
ヴィルヘルムは戦闘団幕僚長ヘルマン、憲兵隊長兼司令官衛士長グスタフを伴い、4年ぶりに東部戦線の前線司令部を訪れた。
あの頃と違うのは、彼の大人びた顔つき、自らの軍団を率いる権限、そして漲る自信と威厳である。一方の司令部は、観葉植物が増えた以外には何一つ変わらず、まるで時が止まっているかのようだった。
「本題を端的に伝えよう。近日中に共和国軍のノッセル要塞へ総攻撃を掛ける。この勝利をもって戦争を終わらせる」
ヴィルヘルムが堂々と告げると、ブレンデルは例の不自然な笑みを浮かべたまま固まり、ヘルマンが差し出した戦略要綱と作戦計画書に目を落とした。内心を隠そうとする稚拙な小細工など、観察眼の鋭いヴィルヘルムには通じない。
ひと通り計画書を確認したブレンデルは、笑みを引きつらせたまま言った。
「なるほど……さすがは殿下。このような奇抜な作戦を私は見たことがございません。殿下ご自身の立案でしょうか?」
「構想の発案は私だが、作戦立案はシュトラウセンだ」
その名を耳にした瞬間、ブレンデルの笑顔が凍った。ヴィルヘルムはそれを見逃さない。
「聞いたところによれば、貴卿とシュトラウセンは士官学校の同期だそうだな。こうして同じ戦場に立つのも、何かの縁かもしれない」
「閣下、ブレンデル中将は小官などよりはるかに優秀な司令官です。頼もしい限りでございます」
ヘルマンの言葉は、ブレンデルにとって嫌味以外の何物でもなかった。というのも、士官学校卒業時の席次はヘルマンが主席、ブレンデルは次席。圧倒的な知識量と理解力を備え、品行方正で容姿端麗、同期生や女性からの人気も高かったヘルマンは、ブレンデルにとってコンプレックスの象徴そのものだった。
現在、階級こそブレンデルが上だが、それは爵位と他者よりも先んじる政治力による昇進にすぎない。対してヘルマンは前線で確かな実績を積み、一時は順調に昇進の階段を駆け上がっていた。やがて宮廷幕僚および軍事顧問の地位を得、王族の軍事的補佐という花形職を軽々と手に入れたのだ。
ブレンデルが内心穏やかでいられるはずもない。だが、ヘルマンに対抗心を燃やすことがいかに無謀か、自覚していたつもりではあった。
しかし、ヘルマンは国王フリードリヒ二世に疎まれ、専属補佐官の地位を追われ、王子ヴィルヘルムの教育係へと回された──その知らせを聞いた日のブレンデルは、秘蔵のワインを開けて喜んだほどである。
けれど当のヘルマンはそれを些事と受け流し、むしろ空いた時間で戦史研究に没頭し、後世に名著とされる『戦争の秩序』を書き上げた。さらに教え子ヴィルヘルムに気に入られ、今では王子直轄部隊の幕僚長、つまり王族の参謀へと返り咲いた。
始末が悪いのは、ブレンデルの嫉妬心と劣等感が相当に深いにもかかわらず、ヘルマン本人はブレンデルにまるで関心がなく、昔と変わらぬ同期生として真面目に敬意を払っているという非対称性にあった。それが余計にブレンデルを惨めにさせた。
ブレンデルの不自然な笑顔と対照的に、ヘルマンは優雅で、悪意の欠片もない。階級や爵位以上に、二人の人間的差は明らかだった。
「シュトラウセン准将も推している。ぜひブレンデル中将には今回の作戦に参加してもらいたい」
王族という、軍人の袖章では太刀打ちできない存在からの出撃命令に、ブレンデル中将は言い訳を探す小さな旅に出た。
そして、ようやく見つけた“苦し紛れ”を、ゆっくり口にし始めた。
「殿下、大変申し訳ありませんが……現状では些か困難でして」
「ほう。理由は?」
王族の命令に首を縦に振らぬ者へ、ヴィルヘルムは鋭く迫る。
「小官は国王陛下より東部方面軍を預かり、陛下の兵たちと共に共和国軍と戦い続けて参りました。しかしノッセル要塞の完成以降、我が軍は連敗し、兵たちは心身ともに疲弊しております。殿下の大作戦に参加したくとも、小官について来られる兵がおりません」
「国王陛下」「兵たち」──他者を盾に責任を曖昧へと逃がす典型的な話法。ヴィルヘルムが宮廷で嫌というほど見てきた手口である。
だがヴィルヘルムには、こうした男を動かす術があった。
「そうか。ならば厳しいな」
「ご理解いただけましたか、殿下。小官も力不足で……」
「では、東部方面軍の指揮は私が執るよう、父上に上奏するしかあるまい」
ブレンデルだけでなく、控えていたグスタフの顔色まで変わった。
「考えてみれば、ブレンデル中将は父上と兄上が退かれて以降、共和国軍との戦闘を一手に引き受けてきた功臣だ。ならば私が方面軍の全権を担い、中将にはしばし休養していただくのが王子としての礼儀だろう」
「で、殿下、そのようなことは……!」
「そ、そうですぞ殿下! 国王陛下に上奏など!」
二人が慌てふためく中、ヴィルヘルムは静かに続けた。まるで胸の内をそっと語るかのように、真実味を空気へ溶かしながら。
「私はな、グスタフ。日に日に弱っていく父上を見るのが辛いのだ。元気を取り戻してもらおうと軍事を志したが、まだ至らない。夜毎、もどかしさを押し殺すばかりだ。だからこそ、この作戦を成功させ、勝利を父上に捧げねばならない。私はそのためなら何でも背負う覚悟でいる」
ひと呼吸置いて、さらに続ける。
「それに、ブレンデル中将が“後方司令部”なる屋敷を軍費で建て、長期戦に備えていると聞いた。今後のため、我々もそこへ赴いて戦支度を整えねばならないかもしれないな」
ブレンデルの顔から血の気が一瞬で引いた。その“後方司令部”とは、軍費を着服して建てた私的な別荘である。普段、彼はこの天幕の前線司令部には滅多に姿を見せず、専らそこで安穏と過ごしていた。
ヴィルヘルムは事前にそれを調べさせており、今や表情で自白しているブレンデルの姿に、人の悪い微笑を浮かべた。まさに狙いどおりだった。
責任から逃げる者は、逃げ道を塞げば動く。地位と利益にしがみつく者ほど、追い詰めればなおのこと奮起する。動けば利用し、動かぬなら排除すればいい。
ヴィルヘルムには、それを行使できる特権があった。
「殿下……方面軍は慢性的に兵も物資も不足しております。動かせる兵は……5千が限度かと」
ブレンデルは司令官の地位と別荘を守るため、5千名の兵を差し出した。兵士の命を通貨のように扱うその姿に、ヴィルヘルムは軽蔑を覚えたが、それは些末な問題だった。彼が必要としていたのはブレンデルではなく、兵力そのものだった。
「では、予備役と私領の徴兵を戦時召集せよ。要塞陥落後の後詰として後方に待機させ、時機を見て投入する」
深々と頭を下げるブレンデルに、ヴィルヘルムは満足した。今はこれで十分だ。だが、こうした男の協力なしには軍を満足に動かせない現実には、小さな不満が残った。
その鬱屈を表に出さぬまま、ヴィルヘルムは颯爽と前線司令部を後にする。
脅迫の種を握られたブレンデルは、取り繕った笑顔ではなく、苦々しい表情でその背を見送った。ヘルマンへの劣等感のみならず、先の長い若き王子にすら及ばない自分の無力を痛感し、ブレンデルは虚しさと怒りを噛み締めていた。
しかし、ブレンデルは決して無能な男ではなかった。政治的潮流を敏感に読み取り、状況に応じて身を翻す従順さにおいて、彼は卓越した感性を備えていた。この資質がなければ、彼が現在の地位を得ることはなかっただろう。
そして、もしブレンデルがヘルマンに唯一勝っているものがあるとすれば──それはまさしく、この政治的嗅覚であった。




