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「いやはや……」
「お転婆とは思ったが、何と言うお嬢さんだ!」
病院から帰る道々、何度頭を振ったことだろう。何度そうしても二人の脳裏には鮮やかにその奇怪な光景が浮かんで来た。
皓皓と降る月の光の中、夜の道を仏像を背負って歩く美しい娘……
「誰か人に行き当らなくて良かった! 万が一、誰かと擦れ違っていたら腰を抜かしたに違いない」
「僕なら発狂したろう……」
一体、こんな光景がこの世にあり得るだろうか? 少女と背中の聖観音菩薩。
毘沙門天と吉祥天が背中合わせになっているという秘仏、双身毘沙門天像とはこんなかも知れない。余りにも魅惑的で、そして、悽愴な絵柄ではある。
「仏像を背負う少女なんてこの世のものとも思えないが、ううむ……有り得ないものほど、現実には有り得るのか」
竜之介は感に耐えたように呟いた。
「だとすれば、見えないものが見えてもそう不思議はないな……」
「僕は一度、火の玉を見たことがあるよ」
唐突に栄造が言った。
「何てことはない。いかにも普通にフイッと現れてスッと飛んで行った。あんまり当たり前なので後から考えたら余計恐ろしい気がした。だが、もっと恐ろしかったのは何でもない闇だ。
病気の父を看病していた時、容態が急変して医者を呼びに行こうと外へ飛び出したんだ。真夜中でな。目の前にこう、ずうっと続く木々と闇が──そこに何もないとわかっている、その空虚な暗闇が何より恐ろしかった。結局、僕は一歩も踏み出せなかったっけ」
「面白いな」
「いや、恐ろしい話をしているんだ」
「それが面白いというのさ。君、そういうことを書いて見てはどうだ? 前から思っていたんだが君には人を戦慄させる〝暗闇〟がある。チョット真似できない味だぞ」
「──……」
栄造はそれについて真剣に考えてみた。書き倦ねている自分を友は激励してくれているのだ。
「今回の事を書いてもいいぞ」
これに、思わず栄造は吹き出した。
「おい! 恐ろしい話を書けと焚きつけておいて、すぐそれだ。今回の話なら──娯楽探偵小説になってしまうじゃあないか!」
「……そうかな」
宿に帰ると、湯治とは言いつつ相変わらず漱石は忙しく筆を動かしていた。
その筆を止めることなく背中で二人からの報告を聞いた。
修行中の若い二人とは違って、事の顛末を聞き知っても漱石に別段驚いた様子はなかった。
二人が辞して立ち上がった時、思い出したように振り返った。
「ところで、圓願寺の大門──正式な山門──が何故、〈不吉の門〉などと忌諱されているのか、そっちの理由はわかったのかね?」
「あ、いえ」
それについては未だ不明だった。と言うか、忘れていた。
今回の主要な問題、〈立像の行方〉にさして関係もなかったし。それより、聞いていないようでその実、全てきっちりと聞いている先生に恐れ入る。二人は慌てて、この場は適当に誤魔化そうとした。
「門については古い言い伝えとしか思えません」
「根拠のない迷信の類でしょう」
「馬鹿者っ!」
先生の、有名な、余りにも有名な、雷が落ちた。
「物事には全てその根っこに歴然たる理由があるものだ! それを見逃して蔑ろにするとは、何という頓馬だ! そんなんで物書きになりたいなんぞとよく言えたものだっ!」
竜之介も栄造も畳に突っ伏してただただ平身低頭するばかり。
「も、申し訳ありません……!」
「自分たちが迂闊でした……!」
「君たち、謎を解いたと大得意になっているようだが手を抜いちゃあいかん。小説家になりたいなら常にあらゆる方向へ目を行き渡らせていなくては。必要なことだけ書いていればいいとタカを括っているんじゃないかね? 無用な物や些細な事柄にこそ注意を向けたまえ。そんなんだから薄っぺらな話しか書けないのだ!」
大いに恐縮しつつも、ふと気づいて栄造が恐る恐る顔を上げる。
「……あの門が封印されている理由……〈不吉の門〉と呼ばれる根拠を先生はご存知なのですか?」
「勿論さ!」
漱石の険しい相貌が少しだけ緩んだ。
「ふん、ありゃあな、〈四間二戸の門〉なのさ。今度、寺へ行ったら数えてみたまえ。柱の数が四つ、戸口が二つあるはずだ。この数が四二で〝死に〟に通じて不吉だから忌み嫌われるのだ」
「そんなこと──」
唖然とする二人。
「まさか、本当に? それが理由ですか? そんな単純なことが?」
「信じられない! 柱の数って……そんなもの予め建てる前に気づかなかったんですか? 大工が図面の段階で気づいても良さそうなもんだ!」
「そうは言うがな」
先生は泰然として口髭を引っ張りながら言うのだ。
「法隆寺でさえそれをやらかしているのだ」
「え?」
「あの我が国が世界に誇る最古の大寺院にして、〈四間二戸の門〉があるのさ。中門がそれだよ。知らなかったかね?」
日頃、才気煥発を誇る二人の弟子たちの仰天顔を見て漱石はニンマリ笑った。
「勿論、法隆寺のその門もきっちり封印されているぞ……」
竜之介はこれより二日後、湯河原から東京へ帰った。
もう暫く漱石の元へ留まるつもりの栄造が駅まで送って行った。
汽車に乗り込む前、ちょっと足を止めて振り返ると竜之介は栄造の方へ手を振った。
「一緒に過ごせて楽しかったよ。じゃ、僕は一足先に行くからな。君はゆっくり来るといい。さようなら!」
とびきりの笑顔で、やっぱり、あいつ、男前だ、と栄造は竹のステッキを振りながら思った。
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栄造は目を開けた。周囲は真っ暗で夜明けにはまだ間がある。
「どうなさいました?」
布団の上に起き直った夫に気づいて隣から妻の清子が声をかける。
「……夢を見ていた」
栄造は微笑んで、
「湯河原で漱石先生とご一緒した時の夢だ。だが──考えてみれば妙だな?」
漱石が湯河原へよく湯治に行ったのは事実だが、夢で見た季節に同行した記憶は自分にはない。
確かに大正四年の一月、先生は一ヶ月ばかり湯河原で療養されていた。先生の亡くなる前年のことだからよく憶えている。だが、その年のその頃と言えば栄造自身は陸軍士官学校に教師として就職が決まりかけていて準備に忙しく、到底先生とご一緒できなかった。まして、竜之介がそこにいたはずはない。
「まあ、夢とはそうしたものか……」
漱石先生も〝夢とは不思議で良い〟と書いておられる。それから、夢で逢う人はその人の一番好いている歳の顔だ、とも。
〝この顔の年、この服装の月、この髪の日が一番好きだから……〟
── してみると、あの頃の年月を僕たちは一番好いているのだろうか?
「なるほど、楽しい夢だった! 芥川君が大車輪の活躍をしてね。帝大時代によく着ていた紺絣の和服姿で相も変わらずヒョロヒョロとしていたが。消えた立像の行方を見事見つけ出すのだ。漱石先生も拍手喝采されてたな!」
「芥川さんらしいですこと」
清子も笑った。
「芥川さんは探偵小説がお好きでしたもの」
「……いかん!」
突然、栄造は叫んだ。
「杖を忘れてしまったぞ!」
大切にしている竹の杖のことを今になって思い出した。
「昨日、あのまま置いて来てしまった」
「まあ、何処にです?」
「谷中の斎場だよ。昨日、行った処と言えばそこしかないじゃないか」
「ああ、それなら」
夫人が静かに言った。
「いいじゃありませんか。きっと芥川さんが突いて行かれましょう。それを突いて黄泉のお国まで……」
「──」
昨日、葬儀の際は堪えていたのに。内田百閒の双眸に涙がどっと溢れて来た。
滂沱の涙は後から後から流れて、止まらなかった。
昭和二年七月二十四日未明、芥川竜之介自死。享年三十六歳。
内田百閒が逝くのは、これより四十四年後の昭和四十六年四月二十日である。
──── 了 ────
夢の中で、一瞬にして過去の思い出まで思い出してその気になってしまうことってありませんか?
本当はありえないことを、でも夢の世界では納得して受け入れてしまう……
だから、湯河原の地で仏像を巡って探偵活動をしたことは竜之介と栄造にとって紛れもない事実だと私は思います!
もう一つだけ──
内田百閒が芥川竜之介の葬儀会場で杖を無くしてしまったのも事実です。
最後までお付き合い下さってありがとうございました!