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冬の向日葵(前篇)  作者: 合雲チカラ
1/1

虚構の自由

 身体を焼くような日中の強い日差しも、日が傾き掛けるとかなり穏かになり、時折吹く生暖かい風すら涼しく感じる。

「もう……ダメかな……」

風を感じながら、自然と口から漏れた。今の私にとって、唯一の贅沢とも思える、この風を満喫するに相応しい木蔭を探す為、公園の隅から隅まで目を凝らした。すると一本の大きな木が目についた。太い幹から四方八方に伸びる枝は、傾きつつある太陽の光を、まだ得ようと貪欲なまでに青々とした葉を広げていた。将に生きる活力に満ち溢れているように思えた。全ての気力を失った私は、皮肉にも、自分とは対照的なこの木に吸い寄せられるように疲れた身体を向かわせた。思った以上に、この木蔭は涼しく、腰を下ろした地面もひんやりとして、私の疲れ切った身体を癒してくれた。何だか落ち着いた気分になると、公園の入口で買った缶コーヒーを一口飲んだ。さっきまでの冷たさはもう無いが、それでも私にとっては最高のひと時だった。優雅な気分になって周りを見ていると、噴水の傍で子供が父親とボール遊びをしているのが目に映った。その楽しそうな姿、声を聞くと何だか胸が詰まる思いがした。私の娘も、もう小学三年生になった筈だ。娘と、あの子供がオーバーラップしているのか、時折父親の姿までもが自分に見えてくる。顔がほころぶと同時に涙が溢れる。私自身、悔しいのか、あるいは羨ましいのか、判断できなくなって来た。とにかく、私は自分を落ち着かせる為、揺らめく親子の姿から目を反らした。

改めてこの公園を見ると、以前見た時とは全く違って見えた。二年程前の私にとって、この公園は単なる営業の合い間の休憩場所だったが、今日からは生活場所となる公園だ。     

私がこの公園に足を向けたのは、離婚、二度目となる会社倒産による解雇、そして再就職への絶望、これら全ての精神的負担から逃れる為か、それとも、自分と同じ様な境遇の人を見付けて安心する為か、あるいは単に自由という物を手に入れる為か、自分でもよく分からないが、何れにせよ気が付けば、この公園に足を向けていたような気がする。考えてみれば、この二か月、職と定住の場を求めて彷徨って来た。二度目の会社が倒産して給料も払って貰えず寮を出されて、私は職と住所の両方を失った。僅か四十五才。世間では、これからという年齢にも拘らず、住所のハッキリしない私は何処にも相手にされなかった。この不景気な時代、住み込みで働く所など有る筈も無かった。もちろん役所にも駆け込んだが、年齢が若く健康そうな私は結局頑張って仕事を探せと感情の無い事務的な言葉で済まされた。そうなのだ!役所から見れば私は若く、会社から見れば私は年を取り過ぎているのだ!同じ人間を見る上で、こうも矛盾した見方をしているのが将に今の世の中なのだ。到底私には着いて行けない社会だ。そう思えば社会からはみ出した私がこの場にいる事は少しも矛盾する事ではなかった。いや、むしろ当然なのかもしれない!更に悲観的にいえば、私は生まれた時から、こうなる運命だったのかもしれない!そう思えば諦めもつくという物だ。かつてはよく、人間頑張ればどうにかなる、諦めるな、と言われた。私も長い間ずっとそう信じて生きて来た。しかし、数年前の私が、どうして今の生活を想像出来ただろうか!私は頑張って来た!家族の為に、会社の為に身を粉にして働いて来た!でも、この年になってようやく気付いた。人間、自分の意思ではどうにもならない事も多々あるという事を。仕方が無いんだ。自分にそう言い聞かせ、残った缶コーヒーを味わう事無く一気に飲み干した。

「さあ、行くか……」

住む所も無く、今からどうするべきか、考えながら疲れた重い身体を立ち上がらせた。ふと、何処からか微かに複数の少年の声が聞こえて来た。何だか気になって耳を澄ませてみると、それは人を罵倒するような耳障りな言葉ばかりだった。私は声の出どころを確かめようとキョロキョロしていると、少し離れた林の所で三、四人の中学生風の少年が見えた。更に目を凝らして見ると少年の足元に一人の男がダンボールの上に寝転がっているのが分かった。時折その男の、

「ガキ共が! あっちへ行け!」

怒鳴る声が聞こえて来た。以前の私なら特に気にもせず、見て見ぬ振りをしただろうが、今は、そういうホームレスの人たちを他人事のように思えなかった。

「お前たち! 何してるんだ!」

私は疲れている事も忘れ、少年たち目がけて走って行った。すると少年たちは奇声を発しながら楽しそうに走って逃げて行った。私は直ぐに寝転がっていた男が大丈夫かと気になり振り向くと、男は座ってニコニコしながらこちらを見ていた。その男は、顔の色は黒ずんでいたが、思いのほか小ザッパリとした身なりで、白髪交じりの髪を後ろで束ねた、単なる、やせた老人のように私には映った。

「助けてくれたのか?」

男の冷静な態度に驚いた。私には危機的な状況に見えたのだが、男は慣れているのか、そう思っていないようだった。

「ええ。まあ」

私が少し照れて言うと、

「ありがとう」

男は相変わらずニコニコしながら私の足の先から頭の天辺まで全身を隈なく見始めた。私はジロジロと見られる事で急に恐怖を感じ始めた。特に盗られて困るほどの金銭も持っていないが、紙袋に詰めた衣服等を盗られては困ると思い、自然に一歩、後ろに下がった。男はそんな私の態度を見て気付いたのか、

「別に取って食おうなんて思ってないよ。ただ礼を言ったまでだ」

そう言って私を観察する事を止めた。私はホッと胸を撫で下ろした。不思議なもので、自分なんてどうなってもいいと思いながらも、いざとなれば、どうなってもいいと思えなかったのだ。まだ私には防衛本能が残っているんだと実感した。とにかく相手の気を損ねてしまったのでは助けた意味が無い。

「あっ、だ、大丈夫でしたか?」

少し焦りながら声を出した。男はそんな私を見て軽く手を振って笑った。私は何だか心を読まれたようで恥ずかしくなった。

「ああ。俺は大丈夫さ。あのガキ共は、この近くの中学生だよ。たまに来ては俺たちみたいな人間をからかって遊んでいるのさ」

男はまるで気にもしていないようだった。しかし、いくら中学生といっても、いや中学生だからこそ何をされるか分かった物じゃない。そんな恐怖は無いのか?私はこれからの自分自身への参考として率直に尋ねた。

「でも、例えば、物をぶつけたりとか、殴られたりとか、蹴られたりとか・・・」

指を一本一本折って質問する私を見て、よほど滑稽に見えたのか、男は大きく笑った。

「俺たちだってバカじゃない。相手を覚えているんだよ。あいつらは言葉でしか攻撃して来ない。決して手を上げないんだよ」

私はそうなのかと真剣に聞いていると、急に脅すかのように笑う事を止め、声のトーンを落して私を睨み付けた。

「但し、危ない奴らは沢山いる。そいつらの顔は絶対、忘れてはダメだ!」

私を見つめたまま何度も頷いた。その迫力に思わず生唾を呑み込むと同時に額に浮き出た汗を手で拭った。男の顔は真剣そのものだった。

「この公園にはそんな危険な高校生の愚連隊が二つある。奴ら全員の顔と声は覚えておくべきだな。そうでないと、怪我だけでは済まない時もあるぞ!」

「えっ?怪我だけでは済まない……という事は……」

私が言葉に詰まると男は大きく頷いた。そう言われると、私は急に周りが気になり首を左右に振り始めた。

「心配するな。あいつらが来るのはこんな夕方じゃなく、晩方だ。しかも一人でいる時だ!」

「あっ、はい」

小さく頷いた。そんな私に男は更に話を続けた。

「それともう一つ、気を付けなければならない人間がいる。それは」

男はどういう訳かずっと私の目を見つめた。

「始めて見る人間だ」

男の言葉に私は焦った。私も危険人物と見なされていると思ったからだ。

「い、いや、私は、そんなつもりでは」

しどろもどろになって弁解をすると、男は急に笑顔に戻って豪快に笑い始めた。

「えっ?」

男の豹変ぶりに驚いていると、

「分かってるよ。だから最初に礼を言ったんじゃないか。確かに、お前を見るのは初めてだが、お前は俺たちと同じ匂いがする」

私は少し緊張していたのか、匂いと言われて直ぐに自分の服の匂いを嗅いだ。夏という季節柄もあって確かに汗臭かった。考えてみれば、ここ一ヶ月程、まともに風呂に入った事が無かった。尚も服の匂いを嗅いでいると、男は、

「お前、何やってるんだ?俺が言った匂いっていうのは本当の匂いじゃなくて、お前の雰囲気だよ。面白い奴だな」

男はそう言うと、またケラケラ笑った。私は男の言葉に衝撃を受けた。私は、私なりに身なりだけは整えていたつもりだったからだ。服だって少しは汚れているが、決して拾った物やボロを身にまとっている訳じゃない。朝になれば剃刀で髭も剃ったし、ちゃんと歯を磨き、顔も洗った。ただ、剃刀が古くなって上手く剃れず、手で触ると常にジョリジョリとして無精髭状態ではあったが。それにしてもショックだった。そうだったんだ!世間の人から見れば、既に私は立派なホームレスに映っていたのだ。いくら昨日まで路上ではなく木賃宿に泊まっていてホームレスではない、と声を上げたところで、世間一般では、それが既にホームレスだと言われるだろう。つまりホームレスか否かという問題は、私の心の中だけの問題だったのだ。残金もさっき缶コーヒーを買った為、あと二百円足らず。やはり私はホームレスとして、ここに住まなければ生きていけないんだ。何だか退路を断たれ、私の中で微かに持ち続けた選択肢も無くした様で、分かってはいたが悲しくなった。そんな落ち込んだ私に男はニコニコしながら尋ねて来た。

「お前、何処から流れて来た?行く当てはあるのか?」

「あっ、いや、特には」

「そうか。だったら俺の所へ来るか?助けてくれたお礼というやつだ。今晩だけでも何処か身を隠して寝た方がいいぞ。愚連隊に襲撃される可能性が高いからな」

「今晩?今晩に何かあるんですか?」

「今日は八月三十一日。夏休みが終わる日だ。休みが終われば奴らもあまり来なくなる。あとは週末だけ気を付けてればいいんだ」

私は男の言葉でハッとした。そうだ!今日はもう八月三十一日だったんだ。ここ暫くの私の生活は曜日も時間も必要としなかった。働く気力も失っていたので何をするとも無く、朝、宿を出ると、その日をブラブラして、夜になると宿に帰る生活が続いていた。ただ、ホームレスと間違われないように身なりだけは整えていた。今から思えば意味の無い事をしていたものだ。

とすれば、この人たちはもしかして、毎日の生活の中で日付、曜日、時間を必要とするのか?私に言わせれば、この人たちこそ、私以上にそんな物に無縁のように思えたのだが、実はそうではないのかもしれない。

「こっちだ!早く来い!」

その時、あの男の声が遠くから聞こえた。

「えっ?」

声のする方を振り向くと、男は自分が寝ていたダンボールを手にさっさと歩いていた。私は考える事に夢中になり過ぎて、男が動き出した事に気付いていなかった。

「あっ、はい」

返事をすると急いで男の元へと走った。走っている途中でフッと、ある事が頭に浮かんで足を止めた。これに似た話を何だか幼き頃に聞いたような気がする。それは・・・、

「浦島太郎じゃないかっ!」

思わず声を出してしまった。直ぐに恥ずかしくなり、誰かに聞かれたんじゃないかと周りを見回したが、誰もいなかった。胸を撫で下ろすと、早速、童話との相似点を思い出してみた。浦島太郎は子供達にいじめられていた亀を助けて、そのお礼に竜宮城に連れて行って貰い、そこで、もてなしを受け、家に帰されるというものだった。この場合、中学生にいじめられていたホームレスの男を私が助け、そのお礼に男の家に行くというものだ。イメージこそ違うが、確かに似ているではないか!という事は、今から行く男の家は、私にとっては竜宮城なのか?寝る所も無く、どうするべきか考えていた私にとっては確かに竜宮城なのかも知れない!そう思うと、さっきまでの悲しい気持ちは何処かに吹き飛び、これから始まる事に何だかワクワクして来た。自然に顔が(ほころ)んだ。

「オーイ!来ないのか?」

再び男の声がした。私はニヤつく顔で、

「今すぐ行きますっ!」

大声で返事をすると全力疾走で男に追いついた。暫く男と二人で薄暗い木立の中を歩いた。かつて私が仕事の合い間に、この公園で寄る所といえば、ベンチのある所だけだった。しかし、こうしてじっくり歩いてみると思いの他、大きい公園であった事に気付く。ずっと歩いているがなかなか端が見えないのだ。段々と疲れてきた私に、男は(おもむろ)に、

「あれだ!あれが俺の家だ!」

前方を指差した。見ると、確かに青い同じ様な大きさの小屋が四つ、等間隔で並んで建っていた。更に近づいて見ると、何処から見つけて来たのか、程よい長さの丸太を骨組みにし、その上から青いビニールシートを被せた、丁度一坪ほどの粗末な建物だった。

「これが……竜宮城……?」

当たり前だが、現実はこんな物だった。この人たちが豪邸に住んでいる筈は無い。それに、こういった建物は、昔から何度も見て来た。想像通りの物だったのだ。決して落胆する物ではない!自分にそう言い聞かせた。男は扉代わりになっている部分のシートをめくって中に入ると、

「まあ、中に入れや」

そう言って私を手招きした。外側からは何度も見た建物だが、中に入るのは初めてで、好奇心とも恐怖心とも区別がつかない複雑な思いがした。

「お邪魔……します」

何故か、この言葉が自然に口をついて出た。一歩中に入ると整理整頓されている事に驚いた。鍋やヤカンは、ちゃんと壁に吊るされ、毛布や布団は綺麗に畳んで部屋の隅にきちんと置いてあった。おまけに床となっているビニールシートの上には埃一つ無いのだ!私のイメージでは、家の中はもっと雑然としていて食べ物などが散乱している筈だった。私はまたもや、ホームレスと呼ばれている人たちへの認識を変えざるを得なかった。感心しながらも腰を下ろすと、小屋の中は夏だというのに結構涼しかった。おそらく、この小屋の周りに多く生えている木の蔭になっているからだろうと思った。尚も私が物珍しそうにキョロキョロしていると、突然、

「お前、腹減ってるだろう?よかったら、これ食えよ」

男はそう言って、コンビニで売っている弁当を出してくれた。言われてみれば、私は昨日の晩にパンを二個食べたきりで、今日口にした物といえば、水とさっき飲んだ缶コーヒーだけだった。今まで特にお腹が空いているという認識は無かったが、いざ目の前に彩り豊かな弁当を出されると、無性にお腹が空いて来た。私がソッと男の目を見ると、男もニコッリしながら頷いてくれたので、有り難く頂戴する事にした。これが竜宮城でのおもてなしというやつだ。確かに絵本のイメージとはだいぶ違うが、今の私にとってこれ以上のもてなしは無い。私は一気に弁当を口に詰め込んだ。あまりに食べ急いだ為、喉が詰まった。

「あまり急いで食うなよ。ほら」

男はそう言って水の入ったペットボトルを差し出した。私は慌てて、そのペットボトルを受取ると、キャップを開け、口を着けようとした。その時、一瞬躊躇してしまった。しかし、息も思うように出来ない私にそれほどの時間的余裕は無い。意を決して一気に飲んだ。肩で大きく息をする私を見て、男は笑っていたが、私は折角親切にしてくれている、この人に対して大変失礼な事をしたという気持ちで一杯だった。とはいえ、口に出して詫びれば返って失礼なので、ソッと心の中で詫びる事にした。さて、お腹も膨れると、ある疑問が急に浮上して来た。今、私が口にした弁当は、決して残飯を集めた物ではなく、ちゃんとした売り物だった筈だ。では、何時、何処からそれを手に入れたのか?

「有難う御座いました。おかげでお腹が一杯になりました。ところで……」

私は非常に躊躇したが、どうしても気になったので思い切って尋ねる事にした。

「今食べた弁当なんですけど……あれは買ったり……しているんですか?」

「ああ、今の弁当の事か?あれはな」

男は私の疑問の意味など気付く素振りも無く、淡々と話し始めた。

「この通りの向こうにコンビニがあるんだ。夜中にその店が閉まったあと、店の前を掃除してあげたりすると、たまに、賞味期限の切れた弁当を入口の横に置いといてくれるんだ。親切な人でな」

私は弁当の出先よりも、このあと男が話す内容に神経が集中した。

「今、お前が食べた、あの弁当も俺が一昨日貰って来たものだ。どうだ、美味しかっただろ!」

「えっ?一昨日……ですか?」

思った通りだった。おかずのコロッケが妙に粘々していた様な気がしていたが、あまりの空腹に耐えかねて安易に食べてしまっていた。いくらこの小屋が涼しいとはいえ、季節は、夏。何だか少しお腹が痛くなってきた気がして、ソッと手をお腹に当てた。男は私のそんな仕草を見て、何を勘違いしたのか、

「まだ、腹減ってるのか?だったら、これも食え!」

そう言って、今食べた物と全く同じ弁当を私の前に差し出した。

「あっ、い、いえ、私はもう十分ですから」

そう言って丁重にお断りした。私はその時、引き攣っていたであろう顔も、出来るだけ笑顔にするよう努める事も忘れなかった。

「遠慮してるのか?ここでは、遠慮してると生きていけないぞ!まあ、腹減ったら、また食えや。もう一つあるし」

「えっ?まだ、あるんですか?」

見ると男の後ろに今持っているのとは別に更にもう一つ、同じ物があった。

「あっ、私、小食……ですから」

目を丸くして、そう答えるの精一杯だった。

「そうかあ」

男は残念そうに言うと、手にしている弁当を自分で美味しそうに食べ始めた。私は大丈夫なのかと心配してジッと見ていると、

「どうせ行く所が無いなら、この横にテント張って住めよ。結構いいぞ、ここは」

男は如何にも楽しそうな顔をした。私は親切にしてくれた事や、この楽しそうな顔を見てお世話になる事に決めた。いや、逆に決めなければノタレ死ぬと感じた。

「宜しくお願いします」

私は膝を正して挨拶をした。男は嬉しそうに何度も頷いていた。そんな男の顔を見ていると、私の選択は何だか間違っていないような気がして来た。どうせこのまま生きた所で良い事なんか何一つ無い。ならば、ここで一生を終わるのも悪くないような気になったのだ。私が何故、この公園に来たのか段々分かって来た。生きる気力を失った私はきっと、自由とか同じ境遇の人に会って分かり合うとか、そんな事を求めていた訳ではなく、自分の死に場所を求めていたんだと。そして、その場所を見つけた今、私は心の底から安心できた。忘れかけていた安堵感だった。

「だったら、自己紹介しなきゃな。俺は皆からトコと呼ばれてるよ。だから、トコと呼んでくれ」

「トコ……さん、ですか?変わった名前ですね」

私は不思議な名字だと思い、率直に言った。すると笑いながら、

「違うよ。本名じゃない、あだ名だよ。俺たちは本当の名では呼び合わない。まあ、色々あるからな」

何だか歯切れの悪い言い方だった。しかし、トコとは何処から来た名だろう?あだ名という物は、必ずその人に関する何かに基づいて付けられている筈だ、と思い私は、そのトコさんを観察したが、由来は全く思いつかなかった。

「何故、トコ、なんですか?」

気になって仕方が無く、尋ねてみると、トコさんは指をチョキチョキして髪の毛に当てた。

「あっ!床屋さん!元は、床屋さんだったんですね。それでトコか」

私はまるでナゾナゾをしているような感覚になり楽しくて、久しぶりに笑った。

「ああ。大将が付けてくれたんだ。ここにいる、といっても俺を含めて四人だけどな、全員あだ名で呼び合ってるよ」

「大将?」

「ああ。俺たち四人の中では一番の古株さ。俺もここに来た時に大将から色々教えて貰ったのさ。ちなみに、大将というのは、俺が付けたんだけどな」

トコさんは嬉しそうにそう話した。確か、ここには小屋が四つあった。とすると、一つはトコさん、もう一つは大将さん、では、あとの二つの人は、どういう名の、どういう人か非常に気になって来た。

「ところで、お前さんは?」

「あっ!」

私は自分の事をすっかり忘れていた。この場合、私が先に名乗るべきなのに、ついつい相手の話に夢中になっていたのだ。かつての営業時代には考えられないミスだった。

「すいません。私は森山と言います。以後、宜しくお願い致します」

ミスを帳消しにする為、丁寧に答えた。

「森山さんか。まあ、大将が戻って来たら、あだ名を付けて貰えや。何といっても大将は俺たちのゴッドファーザーだからな」

そう言うとまた笑い始めた。私には、子供のように無邪気な人に見えた。元々、こういう人たちは、もっと暗い感じの人かと思っていたので意外な感じがしていた。悩みの無い生活は、こうも人間を子供にしてくれるのか?考えてみれば、私は大人になって、会社の事であったり、家族の事であったり、その他色々と悩み続けて来た。この人を見ていると、その悩みという物を取り除く事で、人は無邪気な子供に返れるように私には思えて来た。ならば、私も早く子供のように、あの何も悩みの無い童心に返ってみたい!そんな願望が芽生え始めた。その為には、まず、この環境に慣れ、そしてトコさんたちと仲良くしていかなくてはいけない。それが私の願望を叶えてくれる近道だと確信した。

「ところで、その、大将さんって方は、何処かに行かれているんですか?」

「今日はコウジと一緒に現金に行ってるよ」

「コウジさん?現金に行く?」

「ああ。そうだ」

「あの・・・コウジさん、というのは」

「この横の家の奴だよ」

トコさんはそう言うと顎で示した。私もテントの中で見えないのに、なぜか顎で示された方向を振り向くと、ああ、そうなのかと単純に納得してしまった。しかし、分からないのは『現金に行く』という日本語だった。そんな日本語は聞いた事が無かった。この世界にだけ通用する言葉なのか?ならば、言葉の意味だけでも知っておかなければいけない日本語だと思い、

「あの……現金に行くって、何ですか?」

恐る恐る尋ねてみた。私の中では、その言葉の響きが、何だか悪い事を表しているように感じられたからだ。もしかして、この人たちは、人の良さそうな顔をしているが、実は、窃盗などをして生計を立てているのでは?もしそうであれば、私は、この人たちと一緒に生活する事は出来ない。私は人様の物にまで手を出すほど落ちぶれてはいない!トコさんは私の神妙な顔を不思議そうに見ながら、

「日雇労働だ」

あっさりと言った。私は想像力が豊か過ぎた。考え過ぎていた。そう反省すると顔の筋肉が緩み、照れ隠しに頭を掻いた。

「ああ、日雇労働の事ですか」

「お前、何だと思ったんだ?」

逆にトコさんが不思議そうに尋ねて来た。

「あっ、い、いや、その」

想像した事を口にする訳にもいかないので、笑って誤魔化した。トコさんも一応それでも納得したようだったので、先ずはホッとした。しかし、冷静になって考えるとトコさんは、驚くべき事を口にしていた。

「ええっ!働いているんですか!」

私の発言に、トコさんは益々奇妙な表情になった。

「当たり前だろ。働かないと飯食えねえだろ?」

まるで子供に諭すように言うと、私も言葉無く頷くしかなかった。私の頭の中では、この人たちは仕事もせずに、気の向くまま生きているのだと思っていたからだ。食料についても、さっきの話のように、何処かで貰って、或いは何処かで見つけて食べているのだと思っていた。まさか労働しているなど想像もしていなかった。しかし、言われてみれば当たり前の話だ。早朝から空き缶拾いをしたり、ダンボールを集めたりと確かに労働している。そして僅かなお金で食い繋いでいる。たとえホームレスといえども何らかの収入は必要なのだ。

「トコさんは、今日は、その、現金に行かなかったのですか?」

収入が必要なのに、なぜ、働きに行かなかったのか、単純な疑問が湧いた。トコさんは何となく言い難そうに、

「まあ、な。今日は、その、溢れちまってな」

少し寂しげに語尾を濁した。今日、この人に会って始めて見る、寂しそうな表情だった。

「でも、明日は大丈夫だろう。まあ、何とかなるさ」

そう言うと、にこやかに笑って見せたが、私にはカラ元気のように映った。この世界にもそれなりの悩みがあるんだ。そう思うとそれ以上聞くのは失礼な気がした。いずれ私にも分かる時が来るだろう。そんな気がした。

「あっ、もう、六時じゃないか。もう直ぐ大将とコウジが帰って来るよ」

トコさんは薄暗くなった小屋の中で目を凝らす様に時計を見て、そう私に説明した。私は、大将さんとコウジさんという人がどんな人か非常に気になり、ソワソワし始めた。トコさんもそんな私を見て、

「外で待つか?」

そう言って小屋から出た。私も直ぐ後を追って外に出た。外に出ると小屋の中と違って、木々の間から見える空はまだ明るかった。外に出て、四つ並んだ小屋を見ていると一番端の小屋の中で人の気配がした。私がトコさんの肩を叩いて、一番端の小屋を指差すと、トコさんも気付いたようで、

「ああ。インテリも帰っているみたいだな。ちょっと無愛想な奴だからな。声ぐらい、かけりゃいいのに」

まるでいつもの事のような口ぶりだった。

「インテリさんって、いうんですか?」

私はトコさんと出会って気になっていた事があった。それは、使う単語が、今では殆んど死語に近い物が多いという事であった。今のインテリだとか、さっきの愚連隊だとか、私の年代では先ず使わない単語だった。そこから推測すると、トコさんの年齢は七十歳位ではないかと思った。

「変わった、あだ名ですね」

「そうか。会えば分かるよ。その意味が」

私はトコさんに、そう言われて、そのインテリさんという人に非常に興味を持った。なんと言ってもインテリと言う位だから、相当私たちとは違う筈だ。では、何故、そんな人がここで生活しているのか?考えれば考えるほど不思議な気がした。私がインテリさんの事で頭を働かせていると、突然、トコさんが私の背中を軽く叩いて、

「帰って来たぞ。あの二人が、大将とコウジだ」

嬉しそうに私に言った。トコさんのその表情で、この二人とは、とても仲が良いんだと、直ぐに分かった。私もどんな人かワクワクして来た。段々と近づいてくるにつれて二人の体格がはっきりとして来た。一人はガッチリとしていて、もう一人は、丁度トコさんと同じ様な、痩せた感じの人だった。しかし、共に身なりはコザッパリとしていて、頭髪も短髪で、直ぐにはこの人がホームレスだとは気が付かないのではないか、と思うほどだった。

「お帰りなさい。大将。それと、お帰り。コウジ」

トコさんのその言葉で、痩せている方が大将さんで、ガッチリしている方がコウジさんだと分かった。年齢についても、近くで見るに、大将と呼ばれている人はトコさんよりも上で、コウジと呼ばれている人は私より十歳位上だと思った。私がトコさんの後ろでチョコンと立っていると、コウジさんが私に気付き、

「後ろの、その人は?」

警戒する様な目でトコさんに尋ねると、

「ああ。この人は行く当ても無いらしくて。それで、大将」

トコさんはそう言って大将さんの方を振り向くと、

「どうですかね?一緒にここに住まわせてはダメですかね?」

頼んでくれた。私も、ここで見放されると、どう生きて行って良いか分からず路頭に迷うので、何とかここに置いて貰おうと、

「お願いします!」

必死に頼み込んだ。大将さんは、そんな私を冷ややかな目で見ていたが、止むを得ないという感じで、大きく頷いてくれた。私は正直助かったと思い、ホッと胸を撫で下ろした。ただ、大将さんの冷ややかな目が気にはなったが、隣に立っているコウジさんが、

「そうか!だったら、お前も今日から仲間だな!」

そう言って喜んでくれたので、少しは救われた。

「良かったな!」

トコさんも自分の事のように喜んでくれた。

「だったら大将。こいつにもあだ名が要りますね?」

コウジさんが大将さんに言うと、大将さんは少し考えて、徐に、

「お前、前は何をしていたんだ?」

尋ねて来た。私は咄嗟に、

「私は・・・」

そこまで言った物の、急に言葉に詰まってしまった。ついこの間まで清掃会社に住み込みで働いていた事を口にするのを躊躇してしまったのだ。そして、私は、

「あっ、長い間製紙会社で営業係長をしてました」

なぜか、清掃会社に勤める前の仕事を口にした。嘘ではないが、何故、この間まで働いていた清掃会社を口にしなかったのか、自分でもよく分からないが、とにかくそう言ってしまった。口にしたあと、何だか後ろめたい気がした。何もかも捨てて、ここに来たのに、まだ自分の中に捨てられない物があった。それは、少しではあるが虚栄心という物だった。或いはプライドという物なのかもしれない。それが、自然に私にそう言わせたのかも知れなかった。

「製紙会社の係長さんか?よし!じゃあ、お前はダンにしよう!」

「えっ?ダン……ですか?」

「そうだ!ダンだ!」

私には由来の見当がつかなかった。しかし付いた以上は自分でもその由来を知っておかなくては、と思い、

「な、何故、ダンなんですか?」

率直に聞いてみた。トコさんもコウジさんも、何故そんな名前になったのか分からないようで、真剣に大将の方を見ていた。

「それは、お前。俺たちにとって、紙といえば、ダンボールだ!売れば金になるし、家の一部にもなる!貴重な物だ!そこから取ったんだよ!」

大将さんの顔は真剣そのものだった。それを聞いてトコさんとコウジさんは大きく頷くと、

「なるほど!ダンボールのダンか!さすがは大将!いいあだ名ですね!」

何と二人で感心しあっていた。私は今ひとつのように感じたが、敢えて逆らう訳にもいかず、諦めて、新しくダンという名で生きていこうと心に決めた。

「良かったな。ダン!」

トコさんは私の肩を叩いた。

「あっ、は、はい。有難う御座います」

愛想笑いを返した。私は大将さんにも一礼すると、大将さんも今度は、にこっと笑った。

「そうと決まると、今日はいきますか?」

コウジさんは口元に手を持って行き、酒を飲む仕草をした。

「何処にあるんだよ!もう、とっくに飲んじまったじゃないかよ!」

トコさんは如何にも残念そうにそう言い放った。

「トコさん、見てくださいよ。これ!」

コウジさんはそう言うと、背負っていた汚れた鞄から綺麗な一升瓶を出して見せた。

「おっ!酒!どうしたんだ!」

トコさんの目が輝いて、その一升瓶をコウジさんから受取ると、撫で回し始めた。

「いやね。今日、トコさん、仕事に溢れて、もしかしたら、しょげてるんじゃないかと。それで、大将と相談して買って来たという訳ですよ」

トコさんも嬉しそうな顔をしながら、

「バカ言え!どうして俺がしょげるんだよ!今日は充電だったんだ!」

そう言って笑い飛ばした。私はこの人たちの会話を聞いていて、本当に協力して生きているんだ、仲間なんだ!そう思えて、何だか私まで嬉しくなって来た。ただ、さっきに比べて段々とお腹が痛くなって来たのが少し気には、なったが。

「まさか、トコが新人を連れて来てるとは思わなかったが、いいタイミングじゃないか。今日は新人歓迎会といこうや」

大将がそう言うと、トコさんもコウジさんもニコニコして頷いていた。私も思わず、

「これから宜しくお願いします」

自然に口をついて出た。皆、嬉しそうにして私を迎え入れてくれた。不思議な物で、誰にも相手にされず、生きる気力を失った私が、どういう訳か、ここでは歓迎された。そして、ここで新しい仲間が出来た。長い間、仲間意識など持った事がなく、最愛の家族とも分かれ、自分ひとりで何とかやってきたが、正直言って心のどこかで寂しかったのかもしれない。今は、もちろん本当の家族ほどではないが、それでも何だか嬉しく、新しい家族のような気がして、ここでもう一度、生きてみようという気が湧いて来た。

「そうと決まれば、インテリも呼んでやれ。もう帰ってるだろ」

大将さんがトコさんにそう話すと、

「ええ。さっき家の中で人の気配がしたんで、もう帰ってますよ」

トコさんは、そのインテリさんという人のテントに入って声を掛けた。私は、大将さんとコウジさんに会うまでは、そのインテリさんという人に興味を持っていた事を忘れていた。自己紹介をしているうちにすっかり忘れていたのだ。今、トコさんが声を掛けたから、間もなく出てくる。一体、どんな人が出て来るのか、何だかワクワクして来た。すると、薄暗いテントから、身なりのキチッとした、その辺の町を歩いているようなサラリーマン風の、私とそう、年の変わらない男性が出て来た。私はそのインテリさんを見て正直驚いてしまった。この人の何処がホームレスなのか?今の私よりはるかにコザッパリとしていたからだ。インテリさんはテントから出ると私をチラッと見ただけで、直ぐに大将さんとコウジさんの所に行き、挨拶をした。私は折角仲間、いや家族だと思ったばかりなのに、無視されたようで少しムッとした。そんな表情が顔に出ていたのか、トコさんが私の耳元に寄って来て、

「インテリは少し変わり者だから。根は良い奴なんだけどな。まあ、あまり気にするな」

私に気を使ってくれたのか、そう囁いた。しかし、私もこのまま無視されている訳にもいかないので、こちらから、自己紹介をする事にした。

「わ、私は、今日からここでお世話になる森山、では無く、ダンです!宜しくお願いします!」

すると、インテリさんは私の方を振り向き、

「僕はインテリと呼ばれています。これから宜しく」

そう静かに無表情で言うと、ソッと手を出し握手を求めて来た。握手というのは、少し意表をつかれた行動だった。私は慌てて右手をズボンで拭くと、握手に応じた。その時、インテリさんの掌が思った以上に柔らかい事に気付いた。大抵この人たちがする仕事といえば建設関係が多い筈だ。なのに、インテリさんの手はどう考えても建設業をしている手ではない。しかも、この綺麗な身なり。この人は一体どうやって生計を立てているのか?興味が湧くというより、疑問が湧いて来た。

「さあ、座った、座った。始めようぜ!」

コウジさんが声を掛けると、皆、その場に円形に座り込んだ。外は殆んど真っ暗になっていた。するとトコさんが、枯れ枝を真ん中に置き火を点けた。辺りが一気に明るくなった。私は小学校で行った林間学校でのキャンプファイアーを思い出し懐かしく感じた。私が揺らめく炎をじっと見ていると、コウジさんがカップ酒の空になったカップを渡してくれた。皆にカップが行き届くと、一升瓶を傾け、酒を継いでくれた。私自身酒を飲むのは二年ぶりだった。以前は家に帰ると妻が日本酒を一本夕食に出してくれたが、離婚して以来私は酒を飲まなくなっていた。何だか幸せだった頃を思い出すのが怖かったのかもしれない。現実に今、こうしてカップに注がれた酒を見ていると、つい妻の顔が……。いや!忘れよう!あの頃とは違うんだ!私は頭を大きく振った。

「大将、それではお願いします」

全員に酒を注ぎ終わると、コウジさんは大将さんに音頭を取るよう、お願いした。

「今日から一名増えたけど、俺達は助け合って一日一日今まで通り頑張って生きていこう。では、乾杯!」

「乾杯!」

全員の声が公園内に響いた。私は過去を忘れる為、一気に飲み干した。久しぶりの酒は五臓六腑に染み渡った。元々酒は強い方ではないが、何だか今は思いっきり酔いたい気分だった。

「おっ!新人、じゃ無かった、ダン!お前強いな。もう一杯、いけ!」

トコさんが私の空いたカップを見て、直ぐに酒を注いでくれた。

「あ、有難う御座います」

私は口を付け、もう一度一気にいこうとしたが、今度はカップの三分の一ほど飲むと、それ以上入らなくなった。

「それと、腹も減ってるだろうと思って、ほら!弁当も買ってきたぞ!六個買ってあるから皆食えるぞ!」

コウジさんは楽しそうに弁当を出した。私は弁当と聞いて急にお腹が痛くなって来た。しかも先程よりも痛みが激しくなって来た。しかし、そんな事を誰も気にすることなく、私の前にも弁当が置かれた。私はお腹が痛くなり食べる気がしなかったが、念の為、キャンプファイアーの炎の明かりで賞味期限を確かめた。間違いなく今日の日付だった。少し安心したのも束の間、腹痛が我慢出来ずに、思わず立ち上がった。急に立ち上がったので、隣のトコさんが驚いて、

「どうした!何かあったのか?」

そう声を掛けると、皆心配して私を見てくれた。

「あ、いや。そういう訳じゃないんですけど……。あの、ちょっとトイレに行きたくなりまして」

私はソワソワとしてトイレがどこか、キョロキョロしていると、急を要している事が分かったのか、トコさんが急いでテントに入り、トイレットペーパーを一巻持って来てくれた。

「便所はなあ、この方向をまっすぐ三十メーターほど行った所にある。真っ暗だから気を付けろよ」

指差してくれた方向は真っ暗で何も見えなかったが、とにかく行くしかなかった。

「分かりました」

私は酒が廻って来たのか、ふらつく足でとにかくまっすぐ歩く事に集中した。少し歩くとおぼろげではあるが、なにやら黒い大きな箱のような物が見えた。

「あれがトイレか」

そう呟くと、急に浦島太郎の結末を思い出した。浦島太郎は帰りに玉手箱を貰い、それを開けると老人になった。私は、というと玉手箱の代わりにトイレットペーパーを貰いトイレへ。いずれも悲惨な結末に変わりは無かったな、と思い、走る事も出来ず、急ぎ足でトイレに向かった。電気も点いていない真っ暗なトイレで恐怖と戦いながら用を済まして外へ出ると、大きく深呼吸をした。来た道を探していると一点だけ明るく光っている場所が見えた。

「皆はあそこだ」

まるで虫のように光を目がけて歩き出したが、どうもその光が右へ左へと移動する。自分では真っ直ぐに歩いているつもりだったので不思議に思っていると、ふと、

「そうか!久しぶりの酒に酔っているんだ」

そう思った途端、何か頭に強い衝撃を受けた。


けたたましい音で私は飛び起きた。目を開けると周りは真っ暗で何も見えなかった。ここは一体何処なんだ?ボーとする頭で考えていると、何処かで聞いた声が聞こえた。

「悪いな。目覚ましの音で起こしたな。俺は今から大将とコウジと一緒に現金に行って来るから。あとの事はインテリに話してあるから」

トコさんの声だった。そうだ!私は昨日からここで生活をする事になったんだ!それにしても何故か記憶が飛んでいる気がした。

「まだ四時だから、お前は寝とけよ。じゃあ、俺は行って来るから」

「あ、行ってらっしゃいませ」

そう返事はした物の、今ひとつ状況がハッキリしなかった。それに、妙に頭も痛かったので身体を横たえると自然にまた眠りについてしまった。今度は蝉の声が五月蝿くて目を開けると、テントの色で何もかもが真っ青に見えた。急に我に返ると、飛び起きてテント内を見回した。中にある物から、ここはトコさんのテントだと分かった。しかし、トコさんの姿が見えなかった。一体何処へ行ったのか、そう思ってもう一度テント内を見回すと、目覚し時計があることに気付いた。時計は八時を指していた。

「そう言えば、夢の中でトコさんが何処かに行くって言っていた様な気がするなあ。もしかして、あれは夢じゃなかったのかなあ」

首を傾げながら、五月蝿い蝉の音に誘われるように外に出ると、インテリさんが体操していた。

「おはよう御座います」

私が目を擦りながら声を掛けると、インテリさんはこちらを振り向き、

「起きましたか。頭、大丈夫ですか?」

体操しながら逆に私に質問して来た。

「頭?大丈夫?」

そう言われると、確かに頭が、特に額の辺りがズキズキとした。何故、頭が痛いのか、見当も付かないがとにかく考えていると、

「まあ、顔でも洗いましょう」

体操も済んだのか、首からぶら提げたタオルで汗を拭くと、さっさと歩き始めた。

「あっ、ちょっと待ってください!」

急いでテントに戻り、自分の紙袋からタオルと取り出すと、インテリさんを追いかけた。インテリさんに追いつくと、目の前にコンクリートブロック剥き出しの建物があった。それを見た途端、断片的ではあるが、昨日の事を思い出して来た。そうだ!私は昨日、皆と一緒に酒を飲み、その途中にお腹の具合が悪くなってトイレに行ったんだ。それが、このトイレだ!しかし、そこから先の記憶がどうしても思い出せない。空白の時間が非常に気になって仕方が無かった。

「あの、私、昨日何かあったんですか?」

思い切って聞いた。すると、インテリさんはトイレの中から私を手招きして、これを見るように、という仕草で鏡を指差した。私は意味が分からなかったが、言われた通り鏡を覗き込んだ。

「あっ!何だ、このタンコブはっ!」

私の額に青くなったタンコブがあった。もしかして、トコさんが言ってた愚連隊とかに襲われたんじゃないと思って、急いで全身に同じ様な傷が無いか確かめ始めた。私の様子を冷ややかな目で見ていたインテリさんが、

「憶えてないの?まあ、無理ないか。気を失っていたからな」

歯を磨きながら、さして大した事では無いように言った。私にしてみれば、気を失うほど殴られたのか、と思うと、どうして良いか分からず、ただ、目を丸くして立っているしかなかった。インテリさんは私の事も気にせず話を続けた。

「ちょうど、あの枝ぐらいかなあ?」

そう言うと一本の太い枝を指差した。

「あの枝が、どうしたんですか?」

内心、私はそんな事どうでも良かった。それより、襲われた私の身にもなって欲しかった。そんな枝の事より、これから私はどうやって自己防衛をするかで頭が一杯だった。しかし、インテリさんは何を思い付いたか、その太い枝に向かってスタスタと歩き始め、ちょうど枝の前まで来ると立ち止まった。

「あっ、やっぱり、この枝じゃないですかね。ぶつかったの」

「えっ?」

私が何を言い出すのかと見ていると、ほぼ私と同じぐらいの身長のインテリさんが額に枝がぶつかる事を確認していた。

「この枝に間違いないですよ」

回りを一通り見回すと、私の方を振り向き、そう言った。頭が混乱し始めた。私は襲われたんじゃないのか?やはり空白の時間を詳しく知らなければ何も分からない。そう思った私は空白の時間を聞いてみた。

「昨日、ダンさんがトイレに行ったきりなかなか戻らないので、トコさんとコウジさんが心配して捜しに行ったんです」

私がインテリさんに近づくと淡々と話してくれた。

「その時、地面で寝ているダンさんを見つけたようで、そのまま連れて来たんです。最初は酔って寝たんじゃないかと思ったんですけど、額を見ると赤くなっていたので、これは酔って木にぶつかったな、という事になって、それでトコさんの家に入れたんですよ」

話を聞き終わると、一気に力が抜けた。言われてみれば、それが正解のような気がした。確かに私は物事を大袈裟に考える癖、妄想癖があった。何だか急に恥ずかしくなり、顔が熱くなった。私が俯いて黙っていると、

「さあ、戻りましょう」

インテリさんはまたもや、さっさと歩き始めた。結局、私は顔も洗わずじまいだった。暫くインテリさんの後を歩いていたが、何も話さないのは失礼な気がして、何か話題を探した。

「そ、そう言えば、トコさんたちはどうしたんですかね?」

「何か言って出かけませんでした?」

「あっ、そう言えば、何か言っていたような気が……あまり、はっきり憶えてないんですけど」

「まだ、夢の中だった……という訳ですね」

歩きながらチラッと、こちらを振り向いた。私は少しニヤつきながら頭を掻いた。

「トコさん、コウジさん、大将は現金に行った筈ですよ。まあ、この時間までに戻ってないという事は、今日は三人共、職にあり付いたという事ですね」

相変わらず、スタスタ歩きながら淡々と話した。私は元々話題作りの為にした話だったので、さして興味も湧かず、ただ、

「はあ」

気の無い返事を返した。すると、インテリさんは急に立ち止まり、クルッと反転すると私を見つめ始めた。私は気の無い返事をした事を怒っているのかと焦った。

「今の建設業は相当厳しい物がありますよ。コウジさんはまだ若いし身体もガッチリしてるから大丈夫ですけど」

私は文句の一つも言われるのかと緊張していたが、そうではなく、仕事の現状を親切に説明しようとしていただけだった。折角の親切を無駄にしては、それこそ失礼だと感じた私は真剣な、まなざしになった。

「大将やトコさんは、もう大分、年だし、それに体があまりガッチリして無いから、仕事に有り付くのも大変なんですよ。それに比べてダンさんは……」

私の全身を隈なくじっくりと見ると、

「まだ若いし、大丈夫ですね。さしずめ、引き手数多(あまた)というところですか」

昨日出会って以来始めて微笑んだ。

「あ、有難う御座います」

私はあまり深く考えず、ただ、単純に褒められた事に気を良くした。しかし、少し考えてみると疑問が湧いて来た。それは、どう見てもホームレスとは思えない身なり、私と同じ位の年代、体格だって同じ位のインテリさんは、何故今日、現金に行かなかったのか?昨日、握手したあの手は、常に建設関係の仕事をしている手とは、とても思えなかった事を考えると、この人の収入源はなんだろう?疑問がどんどん湧いて来た。とはいえ、あまりストレートに聞くのはどうかと思え、それと無く聞く事にした。

「あ、あの、インテリさんは現金には行かないのですか?」

「ええ。僕は、ああいう仕事は向いてないんですよ」

「えっ?じゃあ、どうやって」

「とにかく家に戻りましょう。そこで見せますよ」

そう言って、また歩き始めた。私は歩きの速いインテリさんの後ろを着いて行きながら、想像してみた。私が思い付くのは、建設以外では、ダンボールを集めて売るのか、或いは、よく見かけるアルミ缶を集めて売るのか、それぐらいしかなかった。しかし、何れも、この人のイメージには合わないし、とてもそんな事をしているようにも見えない。では、どうやって収入を得ているのか?さっき言った、見せます、とは一体何を見せてくれるのか?何だかワクワクして来た。そうこう考えているうちに家に着いた。

「僕の収入源をお見せしますよ」

そう言って自分のテントの中に入って行った。直ぐに一枚の大きな紙を持って出て来ると、それを私に見せた。良く見ると森林の中から見える雪山の絵だった。しかも少し離れて見ると、まるで写真のように見えた。

「えっ!この絵をインテリさんが(かい)たんですか?」

私は手に取ってじっくりと見た。私には絵の事はサッパリ分からないが、ただ、素直に上手だという事は間違いなかった。しかも、この絵に描かれている風景の場所など私には想像もつかない。都会のど真ん中にある、ビルで囲まれたこの公園には、似ても似つかない風景だった。では、何処を想像して描いたの物かと考えていると、インテリさんの方から話してくれた。

「これは僕が昔カナダに留学していた時に良く行った山を思い出して描いた物なんです」

また驚かされてしまった。何とインテリさんは留学経験まであったのだ。という事は、この人は英語も話せるのか!何と凄い人なんだ!学生の時から英語の苦手な私にとっては尊敬に値する人だと思った。と同時に、トコさんの言った、インテリさんは「変わり者」という言葉を思い出した。確かにインテリというあだ名は的を得ているが、そんな人が何故、こんな所でホームレスなどをしているのか?理解出来なかった。変わり者だと私も確信せざるを得なかった。

「でも、なかなか売れなくてね。一週間で一枚がやっとですよ。しかも、売れて千円前後ですよ。そう考えれば、僕も毎日現金に行った方が収入に繋がりますけどね」

インテリさんはそう言うと楽しげに笑った。しかし、私は、まだ驚きの方が大きかったので、さすがに愛想笑いするのがやっとだった。私は丁寧にその絵を渡すと、インテリさんはその絵をテントの中に無造作に置き、

「さあ、始めましょうか」

そう言って、私の横をすり抜け大将さんのテントの裏に入って行った。

「えっ?何をするんですか?」

私がうろたえていると、

「トコさんから聞いていませんか?ダンさんの家を作るんです」

程よい丸太を何本か抱えて出て来た。

「えっ?私の家……ですか?」

「そうです。ここに住むのに家が無いと不便でしょう。だから、僕の家の横に建てるんですよ。材料は大将から使っていいと言われてるんで」

インテリさんは話しながら手を休める事無く、どんどんと材料を出して来た。私も何かしなければ、と思いながらも、どうしたら良いか分からずに、ただ、戸惑っていると、

「ちょっと、ここを持っていてください」

そう言って慣れた手付きで丸太を紐でくくり付けていった。あっという間に私の家が完成した。皆と同じ形、同じ大きさのテントの前で、私は、それを見て感動していた。数ヶ月の間、定住の場所も無く、木賃宿を転々としていた私にとっては、丸太とブルーのシートだけの粗末な物だったが、それでもマイホームには違いなかった。

「完璧ですね。これで雨風をしのげますね」

インテリさんも上手く出来たと満足しているようだった。

「有難う御座います」

私は心から礼を言った。何だか、久しぶりに人の温かさに触れた様な気がしていた。

「じゃあ、僕、行きますから。夕方には帰って来ますよ」

「えっ?行くって、何処へですか?」

「仕事ですよ。今週はまだ売れてないんで」

インテリさんはテントの中から、先程の絵と、その他の絵を持って歩き出した。私が見送っていると、インテリさんは何か言い忘れた様に不意に立ち止まり、私を振り返った。

「あっ、そうそう。お昼は昨日ダンさんが食べなかった弁当がありますから、それを食べていてください。じゃあ、行って来ます」

スタスタと絵を小脇に抱えて歩いて行った。私は弁当と聞いて戸惑ってしまった。確かにお腹はすいているが、昨日の件があったので多少不安があった。

「まあ、昨日の弁当だし、大丈夫だよな」

そう呟くと早速食べようと意を決した。同じ食べるなら、少しでも早い方が良いだろうと思ったからだ。ここで生きて行くうえでは、この環境に順応する事は勿論だが、体も出来るだけ早く順応させなくては、いくつ体があってももたない。

「当分の間、食生活は厳しいかな」

思わず苦笑いをした。薄汚れた自分のテントを見つめながら弁当を食べ終わると、その汚れが非常に気になった。皮肉にも初めて持ったマイホーム。一生ここでお世話になるのだから、せめて第二の人生の出発ぐらいは綺麗な家で行こう!そう思うと徹底的に綺麗にしたくなった。或いは、シートに着いた汚れが、まるで自分が今まで生きて来て着いた垢の様に思ったのかもしれない。それを落さなければ新しい自分になれない。そんな気がした。とにかく綺麗にしたかった。私は時間を忘れ雑巾で徹底的にシートを拭きまくった。終わってみると想像以上に綺麗になっていた。ブルーのシートは本来の青々とした色に戻り、まるで買いたてのシートで作ったように光っていた。我ながら満足した。すっきりした。ここ暫くの間、かく汗といえば、ただ意味も無く歩き回って出る、人間としての単なる発汗作用の産物だったが、今出てる汗は自分がやりたい事をして出た価値ある汗だったので爽快だった。私は額の汗を拭うとワクワクした気持ちで中に入った。太陽がもう真上に来ているのか、木立の間から私のテントをめがけて一直線に日光が差している。その為か、私の掌すらも真っ青に映った。まさに青一色の世界がそこにあった。私は何だか海の中にいるような気になり、思わず子供のように泳ぐ真似をして転げ回った。しかし、そんな無邪気な時間は長くは続かなかった。直ぐに現実が私を襲って来た。と同時に、家族の事を思い出してしまった。私ひとりが幸せになって良いのだろうか?ふたつ目の会社が倒産する直前に受取った手紙には、親子三人で暮らせる日を待っていると書かれてあった。それを読んだ時、私は涙した。ありがたかった。嬉しかった。こんな私でも待っていてくれる家族があると思うと、いっそう私に活力を与えてくれた。しかし、現実には叶わない夢となった。住所を失った私に家族からの手紙は届かない。妻や娘は、それをどう思っているのだろうか?よもや私がこんな所で生きているなど想像もしていないだろう。私自身ですら思いもしなかった道を選択したのだから。妻や娘の思いを一方的に捨て去り、自分だけ生き残ろうとした私は、人間として最低の人間である。この思いだけは、どうしても拭い去る事は出来ないだろう。

「すまない、美紀子。ごめんな、真由、こんなパパを許してくれ。いや、こんな私を早く忘れてくれ!」

塵一つないシートに一粒の青く見える水滴が残った。私のように死ぬ勇気も無い、弱い人間だ。でも悲しいかな生存本能は残っている。それを捨てることができない。

「なら、とにかく、生きるしかない。家族の事を忘れる事が出来ないのであれば、せめて思い出さないようにしよう」

そう自分に何度も何度も言い聞かせた。どんよりとした気持ちのまま、私はテントを出た。どの位時間が経ったのか、気が着けば公園のベンチに座っていた。真上にあった太陽も、だいぶ傾いていた。

「もう、夕方になったのか」

私はテントに戻る事にした。テントに戻ると、インテリさんのテントの中に人の気配がした。

「もう、戻っているのか」

そう思うと無性に、誰でもいいから人と話しがしたくなった。話をする事で、気を紛らわせたかった。

「お帰りなさい。どうでした?」

「あっ、ダンさん。売れましたよ」

「そうですか。良かったですね」

私は笑顔こそ浮かべたものの感情の無い返事をしてしまった。しかし、インテリさんは嬉しそうな顔で話を続けた。

「イヤー、今週はどうなる事かと思いましたよ。でも、売れたんで助かりました。これで五千円で売れましたよ!これでまた絵が描けますよ」

「いつも、そうしてるんですか?」

「ええ。一枚売れたら、そのお金で足らない画材を買い、また絵を描くんです。だから生活はいつもギリギリですよ。最もこんな生活をしてるんで、別に裕福になろうとは思ってませんけどね」

そう言うとニッコリとしていた。この人は今の生活に満足しているんだ。インテリさんの笑顔から、そう思った。全てを忘れる早道は、何かに熱中する事だ。では、私は何に熱中できるだろうか?答えは直ぐには思い付かなかった。

「もう少しすると大将たちも帰ってきますよ。退屈だったら、コウジさんの家でテレビでも見てたらいいですよ」

「えっ?テレビ?テレビなんてあるんですか?」

私は心底驚いてしまった。こんな粗末なテントの中に、まさかテレビがあるとは思ってもみなかった。インテリさんはテントから出て来るとコウジさんのテントに向かった。

「ほら、これですよ」

手招きされて、中を覗き込むと、何とそこには、テレビの他にビデオやステレオまで揃っていた。

「これは凄いですね!まるで普通の家みたいですね!でも、これらはどうしたんですか?」

「拾って来て修理したんです。最も壊れていない物のあったみたいですけど」

「コウジさんって起用なんですね。でも肝心の電気はどうしてるんですか?自家発電機でもあるんですか?」

そう尋ねると、インテリさんはとんでもないという顔をしてテントの傍に立っている一本の電柱を指差した。私は指差された電柱を素直に見ると、一本のコードのような黒い線が見えた。

「もしかして、あそこから」

インテリさんの顔を見ると大きく頷いた。

「あれはまずいんじゃないですか?直接電気、取ったりして」

「ええ。見つかれば窃盗ですよ。だからよく電柱に登ってコードを外してますよ。まあ元々電気工事の仕事をしていたらしいんで、あんなのは朝飯前だそうです」

特に悪びれた様子も無く、さらりと言い切った。

「そうなんですか。電気工事の仕事をしていたんですか。あっ!という事は、コウジという名は、その電気工事のコウジですか?」

「そうです。大将が付けたんです」

私はなるほどと納得した。でも、そんな技術があれば、何もこんな所でホームレスなんかしなくても仕事はあるだろうに。そんな疑問が湧いたが、人それぞれ色んな事があっての事だろう。そう考えると敢えて詮索するのを止めた。

「でもね、大将も言ってましたが」

インテリさんは急に残念そうな様子で話し始めた。

「今の日本人は本当に贅沢ですね。食べ物も、数時間過ぎただけで賞味期限切れとして捨ててしまうし、まだまだ使えるのに買い替えと称して捨ててしまうし。僕もこの世界に来て始めて分かりましたよ」

確かにそうではあるが、だからと言って、そんな事を議論した所で私の生活は何も変わらない。そう思ったので、

「はあ、そう、ですね」

とりあえず、相槌程度に返事をしておいた。

「でも、コウジさんはこんな時代を喜んでますけどね。今度はブルーレイのレコーダーを見付けて来るってね。まだ発売されたばかりだから落ちてないと思いますけど」

そう言って呆れた顔をしながらも笑っていた。私のように、こんな時代から逃げたいと思う人間もいれば、こんな時代に順応して愉快に暮らそうという人間もいる。私はこれから、後者の考えに変わるのだろうか?はっきりとは分からないが、そうならなければ生きてはいけないという事だけは確かだった。

「どうです?コウジさんの所でテレビでも見てますか?」

主のいない所で勝手に入っているという事自体あまり好きではないのと、元々テレビには興味が無かったという事から、

「いや、止めときます。昔からあまりテレビを見ないので」

折角の勧めではあったが、お断りした。

「そうですか。僕と一緒ですね。僕も殆んどテレビを見ないんです」

インテリさんの言葉で、私は、もしかしたらインテリさんもこうなる前はバリバリと仕事をしていた人ではなかったのか、という気がした。というのも、私があまりテレビを見なくなったのは、いつも仕事で帰りが遅く、見たいテレビが終わっていたからだ。それを繰り返しているうちに、いつしかそれが当たり前になり、見るという習慣を失ったからだった。勿論確信は無いが、留学経験もあり、英語も話せるとなると結構エリート路線を走っていたような気がする。私の想像は当たらずとも遠からず、だと考えていた。結局私は自分のテントで三人を待つ事に決め、それをインテリさんに告げるとインテリさんもそれが良いという事で引き上げて行った。薄暗くなった、何も無いテントで私が寝転がっていると、人の笑い声のような音がした。シートを捲って顔を出すと、大将たちがこちらに歩いて来ていた。私がテントから出て三人を出迎えると、皆陽気に声を出した。

「おっ!綺麗に出来たじゃないか!」

トコさんが私のテントを見付けると、大将さんもコウジさんも出来映えを褒めてくれた。作ってくれたのは、私ではなくインテリさんだったが、何故か自分自身が作った気になり照れてしまった。インテリさんも出て来て、また五人で昨日と同じ様に宴会を始めた。酒は昨日ほど上等な物ではなかったが有り難く戴いた。ただ昨日の二の舞を踏む訳にはいかないので、今日はコップ一杯の酒をチビチビ飲む事にした。どの位時間が経ったのか、私は時計を持っていないので分からないが、宴も終焉に近づいた時、

「私も明日から現金に連れて行ってください」

そう大将に頼んだ。労働意欲も失っていた私だったが、こうして住む所も出来、いざ、落ち着いてみると、当初考えていたように、何もしないで生きて行く事は無理だと分かったし、それに何より、何もしないと色々な事を考えてしまうのが怖かった。

「分かった。じゃあ、お前も明日から一緒に来い」

大将さんはそう言うとトコさんを振り向いた。代わりにトコさんが続きを話し始めた。

「ダンは目覚し時計、持って無いだろ。俺が朝起こしてやるから。朝早いからグッスリと寝とけよ」

「分かりました」

私の返事がお開きの合図のように、皆各々のテントへと入って行った。肉体労働なんてした事もないので、正直できるか不安はあったが、やるしかないと心に決め、眠りについた。


私を呼ぶ声でパッと目が覚めた。

「おい、ダン。もう直ぐ行くぞ」

目を開けたものの真っ暗で何も見えない中、トコさんの声だけが響いた。

「あっ、おはよう御座います」

「もう直ぐ行くぞ。用意しろ」

私は急いで、タオルを手にすると顔を洗う為、トイレに向かった。洗顔を済ませて戻って来ると、皆、もうテントの前に立って、私を待っていた。大将さんもトコさんもコウジさんも、いつもは話し好きでよく喋っているが、朝は弱いらしく、三人共一言も口をきかずに、ただ、黙々と歩き始めた。私は後をゆっくりと着いて行った。さすがに夜明け前となると、昼間は喧しいぐらいのこの街も、まるで死んだように静かで薄暗く、明かりといえば自動販売機の光と時折横を通る車のライトぐらいだった。その中を暫く歩き続けていると、やがて前方に異様に晧晧と明かりの点いている建物が目に入った。尚も近づいて行くと、自分たちの周りに、自分たちと良く似た人たちが集まって来ている事に気付いた。その数は、光に近づくにつれて、益々増えている様だった。まるで、真っ暗な山の中で、ただ一点の光を目がけて集まる虫のように思えて来た。一階が大きな駐車場になっている、その建物に到着すると、死んだような街の中で異様に騒がしく活気付いている様子に圧倒されてしまった。

「着いたぞ。ここだ」

朝起きて始めて大将さんが話し掛けて来た。

「凄い数ですねえ。で、どうすればいいんですか?」

私の問いにコウジさんが答えてくれた。

「いいか、ダン。あいつらの中にネクタイを締めてノートのような物を持っている奴が何人かいるだろう?奴らが手配師だ」

「手配師?」

「そうだ。あいつらが働けそうな人間を見付けてバスに乗せ現場まで運ぶんだ」

コウジさんにそう言われて注意深く周りを見ると、確かにそれらしき人間が何人かいた。

「あとは、そいつらに声を掛けると、色々と説明してくれる。ただ、これだけは注意しとけよ」

コウジさんの目が急に真剣になった。私は初めての事で、唯でさえ緊張しているのに、余計体が硬くなった。

「全部そうだとは言わないが、他府県ナンバーのバスだったら、よく内容を聞いとけよ」

「何故……ですか?」

「他府県ナンバーという事は、現場が近い場合もあるが、遠い場合もある。そうなると、その日の内に帰して貰えない。場合によるとタコ部屋みたいな所へ入れられ監禁、なんて事もあり得る。悪い奴だと、交通費を差し引いて日当を渡す奴もいる。だから気を付けとけよ」

私はそんな事もあるのかと少し不安に感じていると、コウジさん達もあまり人の事に構ってられないのか、

「じゃあ、頑張れよ」

そう言い残して、さっさと人ごみの中に消えて行った。急にポツンと取り残された私は、どうしようかと迷っていると、不意に後ろから肩を叩かれビックリした。振り返ると、そこにはネクタイを締めた四十代位のオールバック頭の、少し怖そうな人が立っていた。わたしは咄嗟に身構えてしまった。

「おじさん、もう決まった?まだだったらうちはどう?今日はね、お昼はハンバーグステーキだよ。日当はこれだけ出すよ」

一方的だったが声を出すと普通の人のようだったので少し安心した。そして、男は指を八本、私の前に突き出していた。

「えっ?八千円……という事ですか?」

男は大きく頷くと、私が八千円を不満に思っていると勘違いしたようで、

「でもね、あんたも彼方此方で聞いたと思うが、今の時代、こんな物だよ。まだうちは良心的な方だよ。もう締め切るけど、どうする?」

男は私に即断を迫った。そのとき、コウジさんの言葉を思い出した。

「あ、あの、乗るバスは、どれですか?」

「あれだよ」

男は後ろを振り向き指差した。丁度、そのバスは正面をこちらに向けていた為、車のナンバーが読み取れた。他府県ナンバーではなかった。だったら、どうせ何をどう選んで良いのか分からないのだから、ここに決めようと思い、

「じゃあ、お願いします」

そう伝えると、男は快く、

「決まりだ。じゃあ、車に乗って」

そう言うと、私の腕を引っ張りバスへ連れて行こうとした。私は一応決まった事を大将さんたちに伝えようと、

「あ、あの、少し待って貰えませんか?直ぐ戻りますから」

男の腕を離した。男は面倒そうに何度か頷くと、

「早くしてよ。もう出発だから」

先程までの愛想の良い話し方とは違って不機嫌そうに言うと、また辺りをキョロキョロし始めていた。私は男に頭を下げると、大将さんたちを探し始めた。すると直ぐにコウジさんが見つかった。私は早くこの事を伝えたくて、走ってコウジさんの元へ行った。

「コウジさん!私、決まりました!」

コウジさんも笑顔で答えてくれた。

「良かったじゃないか。今日はいつもよりバスの数が少なくて競争率が高かったから心配してたんだよ」

「有難う御座います!ところで大将さんとトコさんは何処にいるんですかね?」

大将さんとトコさんの事を聞くと急に笑顔を曇らせ、言い難そうにモジモジし始めた。

「ああ。大将とトコさんは……今日は溢れた。だから、もう、家に帰ったよ!」

私は何だか聞いてはいけない事を聞いてしまったような感覚になった。

「あ、そう……ですか」

「ま、まあ、良いじゃないか!俺たちだけでも決まったんだから。帰りに酒でも買って帰ろうじゃないか!」

コウジさんは明るく振舞おうとしていた。

「そう、ですね」

「仕事が終わったら、ここに残っていてくれ。一緒に帰ろうや。じゃあ、俺は行くから」

さっさとバスに乗り込んだ。私も急がなくては、と思い自分のバスに向かった。バスに向かう僅かな距離の間に、別の手配師が二人、立て続けに声を掛けて来た。もう決まった事を告げると、少し残念そうに私から離れて行った。指定されたバスに乗り込むと、まだ出発する様子が無かった。

「単に人間を確保する為に急かせただけか」

そう思いながらバスの中で駐車場の様子を見ていると、さっきまで、あれほどいた人間も、もう殆んどいなくなっていた。しかし、私が驚いたのは帰って行く人の数だった。大半の人が仕事にあり付けなかったのだ。勿論、その中には大将さんやトコさんも含まれていた。私たちの場合は、お互い助け合っているが、そうではない一人ぼっちのホームレスの人たちはどうするのだろうか?どうやって食べていくのだろうか?ふと、そんな事が頭を()ぎった。

「出発!」

ハッと我に返って前を見ると、さっきの手配師の声だった。いつの間にかバスは満席になっていた。お世辞にも乗り心地が良いといえないバスで揺られながらも、私は心の底では優越感に浸っている自分に気が付いていた。それはコウジさんが言った『競争率』という単語がキーワードだった。私はこの競争率という言葉が嫌いだった。求職活動中は、必ず何十倍という競争率に負けていたからだ。だが、今はそうは思わない。コウジさんも言った、今日は競争率が高い日だったのだ。にも拘らず、私は職を得る事が出来、尚且つ、他の手配師も私に声を掛けて来た。大将さんやトコさんには申し訳ないが、私は競争率に勝ったのだ!あの大勢の中から選ばれたのだ!子供じみた考えではあるかも知れないが、それでも私は満足だった。気分よく車外を見るともう明るくなっていた。まだ暑い朝日に照らされた私の綻んだ顔がバスの窓に映っていた。一時間ほど走っただろうか、海が見えて来た。周りには建設中のビルも何個か見えて来た。

「現場はこの辺りか」

漠然と思っていると、ほどなくバスが停車した。私は人に紛れて意気揚揚とバスを降りた。この時の私の顔は、きっと自信に満ち溢れていた事だろう。何年ぶりかに潮の匂いを嗅ぐと、子供の頃の楽しい思い出も相俟(あいま)って、自ずとやる気が出て来た。

「よしっ!」

私は気合を入れた。不思議な物で、ついこの間までは労働意欲など微塵も持ち合わせていなかったのに、単に選ばれたという思いが自信に繋がり、今は労働意欲に満ち溢れていた。所詮、人間なんてメンタルな生き物で、ちょっとした事で浮いたり沈んだりする物なんだと改めて実感した。九月に入ったばかり。日差しは一向に衰える気配も無く、下手をすると焼け死んでしまうのではないかと錯覚するぐらい、外は暑かった。しかし、私は一生懸命働いた。何ヶ月ぶりかの労働を楽しんでいた。お昼も美味しくいただくと、午後も午前と同じペースで働いた。日も傾き、涼しい浜風が吹き始めると、作業終了の合図が聞こえた。何だか物足りないような気がしたが、この気持ちを明日に繋げ、更に頑張ろうと考えた。

朝乗って来たバスに乗り込むと、周りの人はグッタリとしていた。確かに私も肉体的には疲れていたが、精神的には全く疲れてはいなかった。朝と違って道には車が多かった。帰宅ラッシュという奴だ。乗り心地の悪いバスは進んでは止まりを繰り返しながら、元来た道を走っていた。駐車場に着くと、今までグッタリしていた人たちの目が輝いた。待望の日当の支給だった。バスから降りる時に手配師が封筒に入れた日当を渡してくれた。皆嬉しそうな顔をしていた。勿論私も例外ではなかった。封筒を受取ると、念入りに千円札を八枚、何度も数えた。この瞬間、私は至福の時を感じていた。

「お疲れさん」

突然、後ろから男の声がした。振り向くとコウジさんだった。

「あっ、お疲れさまです。もう、戻っていたんですか?」

「ああ。三十分ほど前にな。それより、嬉しそうじゃないか。どうだった、現場は」

「疲れました。でも、気持ちよかったです」

「気持ち良かった?変わった感想だな」

不思議そうな顔をした後、笑い始めた。私も頭を掻きながら照れ笑いした。

「そうだ!コウジさん。今日は私におごらせて下さい!いつも弁当やらお酒やら貰っているので」

「分かった。今日は、お前に甘えるよ」

私はコウジさんがいつも買うという店に連れて行ってもらった。その店は戦後間もなく建ったのではないかと思うほど、古めかしい店だったが、商品は驚くほど安かった。こんな街中に、まだ、こんな店が残っているとは思ってもみなかった。しかし、こういう店があるからこそ私たちは生きていけるのだ。そこで私は特級酒一本と弁当を五個買って店を出た。

「さあ、帰りましょう」

歩き出すと、コウジさんの目が弁当に注がれている事に気付いた。

「この弁当、どうかしましたか?」

「い、いや、そういう訳じゃないが。何個買った?」

「えっ?何個って、五個ですよ」

「やっぱりインテリの分も含まれているんだよなあ」

私は何故そんな事を聞くのか不思議で仕方なかった。

「だって、インテリさんも仲間じゃないですか。当然ですよ」

「ま、まあ、そうだけどな」

何とも歯切れの悪い返事だった。私はインテリさんとコウジさんの間で何があったのか気になって来た。すると、コウジさんは歩みを止め、私の顔を見て話し始めた。

「大将たちには言うなよ。俺は大体あいつの事が好きじゃないんだ」

「えっ、どうしてですか?仲間じゃないですか?」

「だからだよ。仲間だから好きになれないんだよ。大体あいつはケチなんだよ。あいつは俺たちと暮らし始めて一年半ほど経つが、その間に俺たちにおごってくれた事といえば」

目を閉じて思い出そうとしていた。私には、思い出さなければいけないほど古い事なのかと内心驚いた。

「弁当が二回ほどあったかな?それと酒を一回買ってくれたかな?そんな程度だぜ!俺たちなんて、いつも買ってやってるのに!どう思う?」

私は返事に窮した。私がインテリさんと話した感じでは、そんなに悪い人という気がしなかったからだ。

「はあ、まあ、そうです……ね。でも、インテリさんは絵を売ってるから、あまり売れなくて、お金が無いんじゃ」

私がそこまで話すと、コウジさんは間髪いれずに、

「そこだよ!おかしいのは!」

顔付きがさっきより険しくなった。

「俺たちぐらいだぜ!集団で助け合って生きてるのは!他の奴らなんてピンで生きてるんだぜ!だったら、お互い助け合わなければいけないんじゃないのか!」

確かにコウジさんの言う事は納得できた。

「なのに、あいつは、たまに絵が売れたら全部絵を描く道具に使いやがる!もし金が無いなら、俺たちみたいに現金に出ろっていうんだ!大将もトコさんも何も言わないから、敢えて俺も口にはしないがな。まあ、そういう事だ」

話し終わるとコウジさんはスッキリした様だった。おそらく、ずっと心に思っていた事を誰にも言えなくてイライラしていたんだろう。それを私に吐き出す事でスッとしたんだと思った。元の笑顔に戻って、

「さあ、早く帰ろうぜ!」

軽い足取りで歩き始めた。私はただ黙ってコウジさんの後を着いて歩いた。テントに戻ると、大将さんとトコさんの二人だけが私たちを出迎えてくれた。さっきの話もあってか、直ぐにインテリさんのテントに目が向いた。

「オーイ、インテリ、飯だぞ」

大将さんがそう声を掛けると、私は横目でコウジさんの顔をチラッと見た。眉間に皺が寄っているのが確認できたが、それも直ぐに消え、普段の顔に戻った。いつものように円陣を組んで座り酒盛りが始まった。その時、インテリさんは、いつもこの場では、あまり話をしない事に気付いた。私と二人の時は良く話しをしてくれたが、それは二人っきりだから仕方なく、そうしたのか?私だから話をしたのか?もしかしたら人と接する事を嫌うタイプなのか?いろいろと憶測ではあるが頭に浮かぶ。ただ、人の話だけで、その人間に対しての偏見を持ちたくは無い。コウジさんの話を一度忘れ、私なりにインテリさんという人間像を見付けて行こうと決めた。宴が終わり、各々テントに戻った。私が横になろうとしていると、私のテントの直ぐ前で足音がして止った。

「おい、ダン。体洗いに行こうぜ」

薄暗いので顔は見えないが、声でコウジさんだと分かった。

「えっ?風呂があるんですか!」

私は期待した。長い間、風呂なんて入った事が無かった。それに今日の労働で全身汗だくになっていた。私は下着を持ってテントから急いで出た。

「ついて来いよ」

コウジさんは洗面器を持って歩き始めた。私はこんな方向に銭湯があるのかと不思議に思っていると、突然、

「あのな、ダン。夕方言ったインテリの事だけどな。あれは忘れてくれ。あいつも良い所があるから」

表情は見えないが、何となく照れくさそうに話している様子が伺えた。きっと、言い過ぎたと思っていたんだろう。これを私に言う為に風呂に、かこつけて私を誘ったんだと思った。私も、もう忘れようと決めていたので、

「はい!もう、忘れてましたよ」

そう言うと、コウジさんは安心したように、

「そうか!」

弾んだ声で言った。本当に嫌な相手ならそんなに長く一緒には居られない。お互い、短所もあるだろうが、長所だってある。それを認め合って行くのが仲間だ。コウジさんだってインテリさんを何処かで仲間と認めている。だから、私にこんな話しをするのだ。やはり、私の思った通り、この人たちは良い人たちばかりだ。私は良い人に巡り会ったんだ。そう思うと嬉しくなった。

「ここだ!」

コウジさんが足を止めた。

「えっ!ここって、ここはトイレじゃないですか」

「そうだ!ここで体を洗うんだよ」

私はてっきり銭湯へ連れて行って貰っていると思っていたので、少しガッカリした。

「このトイレはな、俺たちにとっては、今流行の……そう!ライフラインと言うやつだ!」

少し違うような気がしたが、意味は充分伝わった。

「このトイレはなあ、トイレとして利用するのは勿論、洗面場所でもあり、洗濯場所でもあり、この季節には風呂としても使えるんだぞ!気持ち良いぞ!」

自慢げに話すと、早速服を脱ぎ始めた。幸か不幸か、このトイレは電気が切れている為、周りからは全然見えない。故に恥ずかしくはない。私にしてみれば、風呂と言うより行水だなと思いながらも一緒になって服を脱いだ。洗面器に水を貯め頭からかぶると、水はぬるくて丁度良い感じだった。確かに想像以上に気持ち良かった。頭、体と洗い終わると、何ヶ月ぶりかに本当にすっきりとした。行水が済むとコウジさんと二人、今日働いた現場の事などを話しながらテントに帰った。テントに戻り、横になると、今日あった楽しい事と体がスッキリした事とが合わさって、気持ち良くなり知らぬ間に眠りに着いていた。


次の日もトコさんの声で飛び起きた。その瞬間全身に激痛が走った。筋肉痛だった。久しぶりの労働、しかも肉体労働だった為、気付かないうちに筋肉痛を起こしていた。しかし、これは私にとっては、心地良い痛みという奴だった。まだ体が元気であるという証だと思った。体が筋肉痛であるという以外は、昨日と全く同じで、四人で現金に出かけた。駐車場に着くと、止めてあるバスの数が昨日と同じだった。つまり、今日も競争率が高い日なのだ。だが、私には自信があった。必ず、仕事にありつけると。案の定、仕事を探し始めると、直ぐに手配師が声を掛けて来た。私は敢えて、その仕事を蹴った。内容が合わないというのではなく、単に自分を試してみたいだけだった。ここに居る大勢の人たちの大半は仕事にありつけない。その中で私には仕事を選ぶ力がある。社会では、私は何処にも必要とされなかったが、ここでは私は必要な存在なのだ。ただ、その事だけに満足していた。結局、私は三人目に声を掛けて来た手配師の現場に決めた。特に日当が高い訳でもなく、お昼ご飯が良いという訳でもなかった。もう充分満足したからだった。体がギシギシ軋んで痛かったが、それでも、仕事だけは頑張った。更に痛みを増した体で、仕事を終え、駐車場に戻ると、昨日のようにコウジさんが待っていた。

「大将さんとトコさんは、今日はどうでした?」

「ああ。今日もダメだったよ」

「そうですか。厳しいですからね」

私は悪いとは思いながらも、本心とは違う言葉を建前上言った。コウジさんも、これ以上その話はしたくないという顔をしていたので、私は話題を変えた。

「今日、弁当を買った後、私は買い物をしたいので先に帰ってて貰えます?」

「買い物?何買うんだ?」

「いや、いつもトコさんに起こして貰ってて悪いんで、自分で起きれるように目覚し時計を買おうと思いまして」

トコさんに悪いと思っている事は事実だが、本当はトコさんに起こされてからだと慌ただしくてゆっくりと出来ない為、自分でゆとりを持って起きようと思っていたからだった。

「そうか。分かった」

コウジさんはあっさりと答えると、昨日の店に行き、私とコウジさんで折半して皆の分の弁当を買った。そして買った弁当をコウジさんに渡し、私は昨日見つけた雑貨店に入った。自分で物を買うというのは、将に何年ぶりだろう。妻が居る時は、私は仕事が忙しくあまり買い物に行く事はなかった。いつも妻に頼んでおくと買って来てくれていた。それが当り前になっていて、買い物というものは面倒なものだと、いつしか思い込んでいた。しかし、今こうして店に入り、品定めをしていると、結構ワクワクするものだった。この感覚は、私が小学生の時、正月にお年玉を貰って嬉しくて、直ぐにおもちゃ屋に走って行った感覚にそっくりだった。私はそんな感覚すら大人になって忘れていたのだ。今になって、その感覚を分析するなら、単に選んでいるだけなら、そんなにワクワクする物ではなかっただろう。しかし、それプラス、その選んだ物を買えるだけの金銭を持つ事で、一層現実的になる事が、きっとワクワクさせる所以だったのだろう。その証拠に、貰ったばかりの日当を握り締め、手当たり次第に時計を選んでいる私は楽しくて仕方がなかった。

長い間選んでいたが、結局一番安い目覚し時計を買った。私には値段に差がある理由が分からなかったのだ。目覚し時計だから、時刻を刻み、時間が来ればベルを鳴らしてくれれば、それで充分なのだ。特に高い物を買う必要はなかった。だからといって一番安い物を選んだという事は、やはり私は貧乏性なのだろうか?それとも節約家なのだろうか?何れにせよ、物を買うという楽しみを、また得たいのならば、お金は残して置くべきだと思った。

店を出ると外はもう暗くなっていた。鼻歌交じりに歩いていると、コウジさんと歩いている時には気が付かなかったが、脇の細い路地などにダンボールを敷いて寝ているホームレスの人たちの姿が良く目についた。私はその時、同類にも拘らず、気の毒な人たちだと感じた。それは、私には一応家もある、職もある、食べる物もある、そして仲間だっている。これらを手に入れた事で、今、目の前に寝ているホームレスの人と自分は明らかに違う人間であるという気になっていた。一般の人から見れば、私を含めホームレスと一括りするだろうが、私の中では、そうではなく、ホームレスの中では上流階級に属しているという優越感を持ってしまったのだろう。それは人間として驕りであるという事も感じていたが、生きて行く上では、これも一つの考え方だと割り切って、その場を立ち去った。テントに戻ると、いつものように酒盛りが始まっていた。

「おう、ダン。遅かったな。どんな時計を買ったんだ?」

私を見付けるとコウジさんが声を掛けて来た。何故か、私は照れながら時計を出すと皆に見せた。

「おっ、結構、良いじゃないか!高かっただろう」

コウジさんが、社交辞令かもしれないが、そう言ってくれたので、私もなんだか嬉しくなって、つい聞かれてもいないボタンの説明したりと、はしゃいでしまった。将に、子供が新しい玩具を買って貰い、他の子に自慢するかのようだった。私は楽しい気分のまま座ると、インテリさんがいない事に気付いた。

「あれ?インテリさんは?」

すると大将さんが、さして気にもしないように、

「インテリなら、弁当食って、もう寝るとか言って家に入ったよ」

さらりと言った。瞬間的にコウジさんの顔を見たが、特に表情に変化はなく、酒を口に運んでいた。コウジさんに目をやった時、隣に座っているトコさんの顔も視野に入った。その表情はいつもの、にこやかな物とは違って見えた。

「どうしたんですか?具合でも悪いのですか?」

私は心配になりトコさんに声を掛けた。

「えっ?い、いや。大丈夫だよ。それより、良かったな、その時計。大事にしろよ」

トコさんは取って付けた様な言葉を返して来た。私は咄嗟におかしいと気付いた。しかし、何故おかしいのかは見当がつかなかった。その理由を聞くべきか、迷っていると、コウジさんが、まるで私の発言を禁止するかのように先に話し掛けて来た。

「なあ、ダン。明日は俺たち土曜日だから休むが、お前はどうする?」

「あっ、土曜日ですか。じゃあ、私も休みます。丁度、筋肉痛だったもので」

私は笑顔で答えながら、コウジさんが私に一体何を言わんとしてるのかを考えていたが、やはり思い付かなかった。ただ分かったのは、トコさんにとって、あまり聞かれたくない内容で、それをコウジさんは気遣ったのだという事だった。ゆえに私は聞く事を止めた。宴会も終わり、それぞれテントに戻った。私は筋肉痛の体を休めようと横になると、テントの入口から微かに私を呼ぶ声が聞こえた。私は誰だろうとテントから顔を出すと、薄暗い中にコウジさんが立っていた。

「あっ、コウジさん。どうしたんですか?」

私が声を出すと、焦った様子で直ぐに口に指を当て、静かにしてくれという仕草をした。何か人に聞かれては困る事があるのかと思い、頷くと静かにテントを出た。コウジさんは尚も口に指を当てながら、もう片方の手で私を暗い林の中へ手招きした。私は何か良く分からないが、とにかくコウジさんの言う通り、自分の足音にも気を使いながらコウジさんの後を静かに追った。テントから大分離れると、コウジさんは周りを気にしながら振り向き、いきなり話し出した。

「あのな、ダン、さっきの事だけど」

「さっきの事?」

私にはコウジさんが何を言おうとしているのかサッパリ分からなかった。

「ああ。さっき、トコさんに何か聞こうとしてただろ?その件だよ」

ようやく理解した。確かに私はさっきトコさんに聞こうとしていた事があったが、それをコウジさんが止めたのだった。今、その止めた理由を話してくれるのか。そして、この異常なまでの気の遣い方。一体どんな理由が有るのか、非常に興味が湧いて来た。

「実はな、トコさん、仕事に有りつけなくて、かなり気にしてるんだよ。一応は平静を装っているが、俺には良く分かるんだよ。だから、その事を聞くのは止めてやって欲しいんだよ」

コウジさんの言葉に正直、私は衝撃を受けた。そうなんだ!私はいつしか自分の事ばかりを考え過ぎて、人の事を気遣う事を忘れていたのだ!私は自分が楽しすぎて、全く大将さんやトコさんの事まで考えが及んでいなかったのだ。そう思うと仕事を貰い、有頂天になっている自分が急に恥ずかしくなり、言葉が出なかった。

「大将も多分そうだろうと思うが、あの人はあまり顔に出さないタイプだからな」

コウジさんは俯いていた顔を上げると、私を見つめ、話を続けた。

「なあ、ダン。俺達はまだ若いし体だって丈夫だ。でも、大将もトコさんも、もう年なんだよ。事実、これから先、この不況下で仕事にありつくのは無理だと思うんだ。二人ともそれが分かって来たんだよ」

「でも、コウジさん」

私はこんな時こそ、仲間で生活している意味が有る事を強く訴えたかった。

「こんな時こそ仲間意識を出しましょうよ。二人が働けないなら、私たちで何とかしたら良いじゃないですか。今までみたいに、弁当買って、酒買って、何とかなるじゃないですか」

どうして、そんな事を気にするのか?逆に、そうする事の方が二人に対して失礼ではないのか?仲間であるのだから助け合うのが当り前ではないのか?私はコウジさんに分かって貰う為必死になって話した。

「コウジさんも言ったじゃあないですか!集団で生きてるのは俺達ぐらいだ、って!だから、二人には仕事が無いなら無いで、楽して貰えば良いと思います」

私はコウジさんに、この熱意が伝わる物と確信していた。こんなにも人に熱く自分の思いを語ったのは初めてのような気がした。そんな自分にどこか酔いしれた所があり、自分自身満足していた。しかし、私の満足は呆気なく崩れた。コウジさんは、それは違うと言うように首を横に振ったのだ。何故、私の考えが間違っているのか、疑問だった。

「ダン、お前はまだ俺たちと出会って僅かだから分からないと思うが」

コウジさんは前置きをすると、私に背を向けた。

「俺達は面倒をみて貰う為に集団になっている訳じゃないんだ。経済面より精神面で繋がっているんだよ」

コウジさんは数歩歩いたかと思うと急にこちらを再び振り向いた。

「だって、一人より集団の方が楽しいだろ。一人より集団の方が心強いだろ。俺達はそういう関係なんだよ」

私は何か思い違いをしていたのだろうか?コウジさんの言う仲間意識という物は、あくまで精神面だけだと言う。しかし、そんな事を現実に言ってられるのだろうか?私はコウジさんの言う事に全て納得は出来なかった。ただ、私はこの人たちの事を、まだ本当には分かっていないという事だけは痛感した。言葉も無く頷いている私に、

「持ちつ持たれつ。それが仲間だよな。だから、あの人たちは持たれてばかりを決して望まないよ。まあ、その内、分かるさ……それより、寝るところを悪かったな。もう帰って寝ようぜ!」

笑顔で言うと、私の肩をポンと軽く叩いてテントの方へと歩き出した。

「あ、あの、コウジさん!一つだけ教えてください!」

私はどうしても聞いておきたい事があった。歩き出したコウジさんの背中に問い掛けると、コウジさんは立ち止まり、顔だけを振り向かせた。

「もし、このまま仕事にありつけないとなれば、大将さんとトコさんは、どうなるのですか?」

コウジさんは一瞬黙った後、

「……さあ、俺には分からない。でも、あの二人なら、きっと何とかするさ。そう信じてる。だって俺達はこれからも仲間だから」

照れくさそうに言うと、また歩き始めた。

「そうですよね!仲間ですからね!」

私は、今は深く考えない事にした。何れ時が来れば、良い方法も出てくるだろう。その時にもう一度考えれば良い。大切な事は、いつまでも仲間であるという気持ちを持ち続ける事なのだ。私は一人で頷くと、急いでコウジさんを追いかけた。


寝苦しくなり、目を開けると相変わらず蝉の声がうるさい程だった。暫く真っ青なテントを見つめていたが、やがて体を起こし買ったばかりの時計に目をやった。十一時を回ったところだった。

「寝過ぎたな。疲れていたのかな?」

肩を回してみると、筋肉痛は大分、ましになっていた。今日は休みだと思うと、ゆっくりとした時間が流れているように感じた。先ずは洗顔に行こうとテントから出ると、コウジさんが枝と枝にロープを掛け洗濯物を干していた。

「おはようございます」

「おっ、ダン。よく寝てたな。もう直ぐ昼だぜ。今日は天気が良いから洗濯した方が良いぞ」

「そうですね」

私は木々の間から差し込む太陽の光を見た。なんとも清々しい気持ちになり、大きく深呼吸をしてみた。街なかにある公園だから、空気には排気ガスや粉塵なども含まれているだろうが、私にとっては今までに無い新鮮な物に思えた。

「顔を洗って、それから、洗濯します」

私はコウジさんに声を掛けると、洗顔場所であるトイレへ向かった。洗顔を済ませて戻って来ると、もう洗濯物が綺麗に干され、コウジさんの姿が見えなくなっていた。

「もう終わったのか。早いな」

私はコウジさんの手馴れた早さに感心しながら、今度は自分の番だとテントに戻り洗濯物を取り出して来た。ふと、車の音に紛れて、何やら人の声らしき物が聞こえて来た。耳を澄ませてみるとコウジさんのテントのようだった。大将さんとトコさんもいるのかと思い、挨拶しようと、テントの中を覗いた。

「お、テレビ見るか?なかなか面白いぞ、この番組」

コウジさんが一人で煎餅をかじりながらニヤ付いていた。何とも優雅な姿だった。

「一人でしたか?てっきり、大将さんやトコさんも一緒かと思って」

「大将とトコさんなら、朝早く二人で何処かへ行ったぞ」

「えっ、二人だけで?何処へ行ったんでしょう?」

「さあ。それより、テレビ見ないか」

「いえ。テレビはいいです。今から洗濯して、ちょっと公園でも散歩しようかと思ってますから」

「そうか。分かった」

コウジさんはそう答えると、またテレビに釘付けになった。私はトイレに向かった。大将さんとトコさんの事は気になったが、昨夜のコウジさんとの話もあり、出来るだけ考えないように心掛けた。しかし、考えないようにすればするほど、余計に気になってしまう物で、何とか、この考えを反らそうと、今持っている洗濯物に集中する事にした。そのせいか、思った以上に綺麗になり、時間も早く終わった。

「集中してやれば結構早く終わる物だな」

自分自身、驚いた。テントの所に戻ると素早く洗濯物を干し、さっさと散歩に出かけた。噴水の広場に近づくと、多くの人の声が聞こえて来た。その中に子供特有の甲高い声が聞こえると、私は何故か、歩みを止めてしまった。自分の意思というより、ごく自然に足が止ってしまったのだ。

「別の所へ行こう」

噴水の広場から逃げるように足早に去った。とにかく人の声が、子供の声が聞こえなくなるまで適当に歩いた。暫く歩き続けると、一体自分がこの大きな公園の何処に居るのか分からなくなった。

「まさか、公園で迷うとはなあ」

キョロキョロしていると一人の男が絵を描いている姿が見えた。

「ん?もしかして、インテリさん?」

邪魔をしないよう、静かに寄って行った。すると、その男は私の気配に気付き、振り返った。

「あっ、ダンさん。どうしたんですか、こんな所まで」

思った通りインテリさんだった。

「あっ、いや。ちょっと散歩してまして」

私は、大の大人が公園ごときで迷ってしまったとは恥ずかしくて言えなかった。

「まさか、こんな所で見つかるなんて思ってもみませんでしたよ」

「いつもこんな遠くまで来て描いているんですか?」

私は、ここがテントから遠い所なのかどうかも分からずに話の流れ上、適当に言った。

「いつもという訳じゃ有りませんけど、ここはよく来ますね。静かですし」

「テントの中では描かないのですか?一人だと結構静かですよ」

私がそう言うと、インテリさんは笑い出した。

「無理ですよ。テントの中じゃ、現実的すぎて想像力、湧きませんよ」

私はインテリさんが今描いている絵をソッと覗いて見た。前見たのと同じ様な雪山の絵が描かれていた。確かに、こんな風景はテントの中では無理だった。

「これも、カナダの山ですか?」

「ええ。そうです。でも、不思議なんですよねえ」

インテリさんは急に寂しそうな顔をして、描きかけの絵を見つめ始めた。

「僕はこんな絵だけを描こうとしている訳じゃないんです。他にも描きたいんですよ。でも、目を閉じるとカナダの事しか頭に浮かばないんです」

「よほどカナダの生活が楽しかったんですね」

私は、インテリさんは良い思い出を持って幸せだと思った。しかし、インテリさんは相変わらず寂しそうな顔のまま、首を横に振った。

「えっ?」

意外だった。では、何故、カナダの絵を描くのか?理解に苦しんだ。

「実は、僕にはカナダの事以外印象的な思い出が無いのかもしれませんね。これって、人間として……悲しいですよね」

インテリさんはゆっくりと振り向き、私の目を見つめた。私は返事に窮してしまった。どう答えて良いのか、分からなかった。インテリさんは、そんな私の事など気にもせずに話を続けた。

「僕がカナダに行ったのは学生の頃です。もう、二十年ほど前の事ですよ。つまり、僕は二十年間、何も印象的な事も無く、今まで生きて来たという事なんです」

そこまで話すと、やっと私から目を離してくれた。

「普通、人間は年齢と共に色々な出来事あり、それが思い出と変わる物なんです。しかし、僕にはそれが全く無い。楽しい事が無かったんですよ。何も変化の無い日常に時間を費やして来たんですよ。どう思います?」

段々とインテリさんの声のトーンが上って来た。私もその言葉にハッとしてしまった。自分自身を振り返って見ると、確かにインテリさんの言う通り、私の記憶も断片的な物でしかなかった。それを繋ぎ合せたところで大した時間にはならない。インテリさん同様、私も二十数年間を振り返って話しても、おそらくは一瞬で終わるだろう。しかも、その少ない記憶の約半分は家族、とりわけ子供との思い出なのだ。では、私は一体社会に何をして来たのか?単に税金を払う為だけに働いて来たのか?空しさだけしか感じられない。私は尚も黙り続けていた。

「でもね、僕は分かったんですよ。日常とは、毎日を単に永遠に繰り返す事だと。だから、思い出が無くて当り前だったんです。考えてもみてください。普通のサラリーマンが毎日、毎日刺激的な日常を送るなんて考えられないでしょ?」

私はインテリさんの言葉に共感した。確かにその通りだ。私は無言のまま力強く頷いた。インテリさんは私が頷いたのを確認すると続きを話し出した。

「いつもの電車に乗り、いつもの業務を行う。時には上司の顔色を窺い(うかが)、時には叱責され、それを耐える毎日。あるいは僕たちはブロイラーのような存在かも知れませんね」

「ブロイラー?」

「ええ。仕事という餌を与えられ、生かされている。餌を与えられなくなった鳥は死んでいくんです。僕はそんな社会に嫌気がさしたんです。だから刺激を求めたんです」

「刺激……ですか?」

「そうです!僕は刺激を求めて、ここに来たんです!」

そう言いきったインテリさんの顔は清々しかった。

「それで、思ったような刺激はありましたか?」

「勿論です!僕は毎日刺激的に生きてますよ」

力強く言ったインテリさんは、このような生活の何処に刺激を見つけられたのか、非常に興味が湧いた。

「インテリさんが求めた刺激とは、何ですか?」

「僕が求めた刺激とは、自由だったんです」

「えっ?自由……ですか」

意外な答えだった。自由などという物が刺激になるのだろうか?確かに、ここにはインテリさんの求める自由は沢山ある。いや、逆に自由しかないと言っても過言ではない。何故自由が刺激なのか?不思議でならなかった。

「そうです。僕は自由という言葉ほど刺激的な言葉は無いと思っています。だって、何でもして良いんですよ。そして、究極の自由は……死なんですよ」

私は一瞬、インテリさんの顔が険しくなったのを見逃さなかった。

「普通、人は自分の死すら自由にならない物です。例えば、家族や会社に迷惑をかける、などといった理由でね。でも、僕はちょうど」

インテリさんは急に辺りの地面をキョロキョロ見回し、小さな石を指差した。

「あの小石のような物です。何処かへ転がって行っても誰も気が付かない。誰も困らない。踏んづけても誰も悪いとは思わないんです。将に僕はそういう存在になったんです。だから自由になれたんです」

何とインテリさんは自分の死すら自由の範疇に入れている。自ら命を絶つ事、それは人間に与えられた特権なのかもしれないが、果たして死ぬ事すら自由という範疇に組み入れて良いのだろうか?やはり私には、この人を理解する事は到底出来ない。そして、これが皆、変わり者だと言う、所以なのかもしれない。こういった事が顔に出ていたのだろうか、急に、

「まあ、考え方は人それぞれですよ。十人十色というぐらいですから」

そう言って私に笑いかけ、話を終わらせた。きっとインテリさんは私に理解を求めていたんだろうが、それに対しての私の反応があまりに鈍かった為、やむなく自己満足の世界に留めたのだと感じた。なんだか気まずい雰囲気になった。私は何とかしなければと思い、

「いつも何時間ぐらい絵を描くんですか?」

何の脈略も無い質問をした。単に、話題を変えようと口をついて出た質問だった。インテリさんもこの唐突な質問には驚いたようで、

「あっ、い、いや。特に時間は関係ないですよ。適当です」

少し慌てているようだった。私も適当にした質問だったので、途端に次の言葉に詰まってしまった。この()をどうするべきか、考えていると、

「でも、今日は、もう終わりです。家に帰りましょうか」

インテリさんの方が話しを続けてくれた。

「そ、そうですね。もう遅いですし」

太陽はまだ高い所にあったが、そう返事してしまった。内心、しまったという思いがしたが、口から出た物は仕方が無いと諦めた。ソッとインテリさんの横顔を見ると、何だかニヤ付いているように見えた。私は敢えて、片付けをしているインテリさんから目を反らし、周りの風景を見ている振りをした。

「さあ、帰りましょう」

インテリさんの声に、如何にも今、気付いたような態度で、

「あ、はい」

軽く返事をして何事も無かったように、インテリさんの後ろに着いた。元々は帰り道に迷っていたので、結果的には助かったが、素直に嬉しいという感情は湧かなかった。私の中には複雑な思いが残っていたからだ。

もう二十分近く無言のままインテリさんの後に着いて歩いているが、一向に道が分からない。

「もう、そろそろですかね」

流れる汗を拭いながら尋ねると、

「もう、ちょっとですよ」

インテリさんは軽く答えた。まだ歩くのかとゾッとしたが、それを口に出して言う訳にもいかず、黙って歩く以外なかった。

「あ、見えて来ましたよ」

インテリさんの声で、顔を上げると自分のテントが遠くに見えた。私はホッとして、

「有難うございました。助かりました」

つい本音を口走ってしまった。

「この公園は広いですから、何か目印でも見つけておいた方が良いですよ」

「はい。えっ?」

私は目を大きく広げてインテリさんを見た。インテリさんはニコニコしながら頷いていた。何処かで、インテリさんは気付いていたんだ。私は、心を読まれるとは何とも恥ずかしい物だと照れ笑いをして頭を掻いた。テントに着くと、私はインテリさんに再び礼を言って直ぐに中に篭った。

「ご飯にしましょう」

何やら、インテリさんらしき声が聞こえ、私は体を起こした。どうも知らぬ間に眠っていたらしい。テントから顔を出すと、ついさっきまで上の方にあった太陽が、もうビルの間に沈みかけていた。私は眠い目を擦りながら外に出ると、インテリさんが弁当を持って立っていた。大将さんやトコさんもいつ戻ったのか、皆テントから出て来た。

「おっ、どうしたんだ!その弁当」

コウジさんが珍しそうに言うと、

「ええ。いつも出して貰っているので、たまには、と思いまして、買って来たんですよ。ほら、結構豪華なやつですよ」

インテリさんは一つずつ配りだした。

「確かに、豪華な弁当だな!」

大将さんの言葉に、私も頷いた。いつも私たちが買っている物より、遥かに高そうな弁当だった。

「どうした、インテリ。今日は、絵が沢山売れたのか?」

嬉しそうに弁当の蓋を開けながら、トコさんが尋ねると、

「いや、そういう訳ではないんですけど、たまには、ねっ!」

インテリさんはそう言うと、何故か私を見て微笑んだ。私の推測だが、この機嫌の良さは昼間の話の件が関係しているような気がした。人は誰でも自分の本当の気持ちを分かって欲しいと願っている。インテリさんも、あの話を誰かに分かって貰いたいと願っていたのではないのか。残念ながら私には理解できなかったが、それでもインテリさんにとってみれば、話を聞いてくれただけでも満足だったのでは。私もかつては、色々な不満や考えを妻に話したが、そこに理解が無くても、ただ、話しただけで気分が晴れたものだった。つまり大切な事は、そこに聞いてくれる人がいるという事なのだ。今までは、インテリと呼ばれる事で、同じ仲間であるにも拘らず、何処か異質の存在として見られていた筈だ。その事がきっとインテリさんに本音を語らせなかった所以ではないのか。インテリさんは本音を語れる人間を捜していたに違いない。それが私だった。インテリさんの微笑んだ意味は、将にこういう事だろう。私の推測は自分の中で確信に変わって来た。自分を必要だと感じてくれる人がいるのは嬉しい限りだ。そう思うと私もインテリさんに微笑み返した。 今晩のインテリさんは、いつもと人が違うのでは、と思うほど陽気だった。珍しく最後まで残って、酒を何杯も飲み、よく喋った。大将さんやトコさん、コウジさんまでもが驚いた顔でインテリさんを見ているのが、私には可笑しかった。きっと今晩のインテリさんの姿は皆の記憶に残るだろう。何も楽しい事が無かったと言い切ったインテリさん自身も、今日の事は記憶に残してくれるだろう。そして、私自身、この日の事を忘れる事は無いだろう。


暑い季節もようやく終わり、朝晩の冷え込みが厳しく感じられた。あれほど青々としていた葉も今は役目を終え、静かに地面で眠りに着いた。さながらテントの周りは、茶色い絨毯が敷き詰められたような景色になっていた。ここに住み始めて二ヵ月半。今では私も立派な?ここの住人になった。テントの中も布団や鍋と色々な家財道具がドンドンと増え、広々と感じた空間も少し窮屈になりだした。それでも、完全に、ここの生活に慣れたせいだろうか、私は毎日が楽しくて仕方が無かった。と言っても、毎日ワクワクするような事がある訳ではない。私たちの生活パターンは何も変わってはいない。では、何が楽しいのか?それは自由を謳歌しているという事だった。社会にいる時に比べれば、ここは将に天国と言っていい世界だった。数字に追われ、叱責に耐え、疲れきって家に帰ると十分に眠る事も出来ず、また朝がやって来る。そんな毎日が私には地獄だった。しかし、幸か不幸か、私は社会から弾き飛ばされ、今、ここで生きている。もう誰も私を叱責する者はいない。もう誰も私の安眠を妨げる者もいない。何もかもが自由なのだ。仕事に行きたければいけばいい。仕事は向こうからやって来る。眠りたければ幾らでも気の済むまで眠ればいい。とにかく気楽な生活。それが楽しくて仕方が無かったのだ。確かに失った物は大きい。しかし、社会にいる時には決して手に入れる事が出来なかった自由をその代償に手に入れる事が出来た。今の私は、それで満足だった。そんな風に物思いに(ふけ)りながら、私は汚れ始めたテントを、秋風に吹かれながら、ただ、じっと見つめていた。

「おっ、ダン、寒いな。特に今日は曇ってるから尚更だな」

「あっ、そ、そうですね。かなり肌寒いですね」

まさかコウジさんが突然テントから出て来ると思っていなかったので、私はうろたえてしまった。

「それより、どうした?テントなんかジッと見て?物思いの秋か?」

コウジさんは笑いながら私を茶化した。

「いや、そういう訳では……。ただ、このテントもだいぶ汚れて来たな、と思いまして」

心を読まれたようで内心ドキッとした。

「まだ、お前のはマシだよ。俺のなんか見ろよ。かなり汚いぜ。もっとも、大将のよりはマシだけどな」

大将さんのテントに目をやると、コウジさんの言う通り、かなり汚れて、私たちと同じ青いビニールシートを使っているにも拘らず、その青い部分を見つける事が出来なかった。つまりテントの汚れは、ここでの生活の長さを意味していた。私は改めて全員のテントを眺めていて、また、ある事に気付いた。大将さんのテントを基点に左へ、トコさん、コウジさん、インテリさん、そして私と並んでいた。このテントの配列は、ここに生活を始めた順番でもあったのだ。私は一瞬、大発見をしたような気になったが、それも直ぐに冷めてしまった。そんな事を今更知ったところで、どうと言うことはない。しいて言えば、次にここへやって来た人は私の左にテントを構えるのだろう、という事が分かるぐらいだった。逆に、一瞬でもこんな事で嬉しくなったのは、それだけ日常に変化がなく、私自身情報に飢えているからであろうか。そう思うと幸せを感じる中にも、少し悲しいものがあった。しかし、そんな変化のない日常の中に、私がここへ来た時と若干変わったところがあった。それは、大将さんとトコさんの行動だった。当初は一緒に朝、仕事を探しに行っていたが、最近はあまり一緒に仕事を探しに行かなくなった。確かに二人の稼働日は少なかった。行けば必ず仕事にありついている私とコウジさんに比べて、あの二人は、記憶の範囲で言っても月に三、四日といった程度だ。以前、コウジさんが言った、あの二人なら何とかするだろう、という事に関係があるのか?私は自分の事で頭を痛める事がないので、その分、ここ最近の二人の行動が気になって仕方がなかった。かと言って、直接本人に聞くのも失礼な気がした。

今日は日曜日にも拘らず、大将さんもトコさんもテントにいる様子はない。二人して何処かに出掛けているのだろうか?

「あ、あの、コウジさん」

「ん?どうした?」

「あっ、い、いや。やっぱり、いいです」

やはりコウジさんに二人の事は聞けなかった。コウジさんとの約束があったからだ。私はコウジさんに聞こうとした事を後悔し、視線を反らした。コウジさんも私の不審な言動に、何かを感じたのか、暫く私を見つめていたが、やがて、

「いいのか?だったら、俺はトイレに行くぞ」

そう言い残して、さっさとトイレに行ってしまった。私は、なまじっか、する事もなく起きているから色々な事を考えるのだと自分を責め、もう一度寝る事にした。

暫くして人の話し声で目を覚ました。時計に目をやると、もう夕方の五時だった。一体誰が話しているのだろうと目を擦りながらテントから顔を出すと、大将さんとトコさんが楽しそうに話していた。

「あ、お帰りなさい」

私は二人に声を掛けると、テントからゴソゴソと出た。二人も私に気付き、

「おお、ダン。見てくれよ、それを」

トコさんが指差した方へ私は顔を向けた。そこには薄汚れた自転車が二台置いてあった。

「おっ、いいのがありましたね」

突然、後ろから声がしたので、驚いて振り返るとコウジさんが弁当片手に歩いて来ていた。私は寝起きのせいもあってか頭がボーっとして、三人が何の話しをしているのか、検討もつかず、

「どうしたんですか?その自転車は?」

とにかく、大将さんに尋ねてみた。

「言っとくが、盗ってきた物じゃないぞ。拾って来た奴だからな!」

私に念押しをすると、今度はトコさんが話し始めた。

「近頃の奴は物を大事にしないな!この自転車だって、壊れてないのに捨ててやがる!勿体無い限りだ!」

半分怒りながらも喜んでいるように見えた。ある意味、そんな贅沢な人がいるからこそ、私たちのような人間が物に困らないのだ。もっと言えば、私たちほど物を大切にする日本人はいないだろう。でも、果たして、これは自慢に値する事か否か、私には難しい問題だった。何にせよ自転車の出所は分かった。段々と頭が目覚めるにつれて、更なる疑問が出て来た。何故、自転車が必要なのか?私は頭の中で問い掛けたつもりが、つい口に出てしまった。

「自転車なんて、どうするんですか?」

「えっ?そ、それは……」

途端にトコさんが言葉に詰まった。私はトコさんが言い難そうに、視線をキョロキョロとさせているのを見て、完全に目が覚めた。シマッタっ!これは聞いてはいけない事だったんだ!私はコウジさんとの約束を破ってしまったのだ。恐る恐る後ろに立っているコウジさんの顔を見ると、仕方がない、とでも言うような目で私を見て頷いていた。

「それはな」

大将さんがトコさんの代わりに答え始めた。私は今更ながら、聞かなければ良かったと後悔したが、もうどうしようもなかった。矢は(つる)を離れたのだ。申し訳なく思いながらも大将さんの言葉に耳を傾けた。

「俺とトコはもう年だ。おそらく日雇いの仕事も、ままならないだろう。かと言って、お前たちに甘えてばかりはいられない。何とか俺達は俺達で収入を得ようと思ってな」

大将さんがトコさんの肩を軽くポンと叩くと、トコさんも頷いた。

「明日から、俺達は空き缶集めをしようと思って、それで自転車を調達して来たんだ」

さっきまで楽しそうに話していた声とは明らかに違っていた。その声質の違いが全てを語っていた。二人とも本心では、そんな事をしたくはなかった筈だ。しかし、生きて行く為に、それを選択した。きっと悲しい選択だったに違いない。大将さんとトコさんは、こうなる事が分かっていて、それで二人きりで色々と計画していたんだろう。私が疑問に思っていた二人の行動の理由が明らかになった。私の思慮の無さが、大将さんやトコさんに嫌な思いをさせたのでは、そんな思いだけが残ってしまった。何とも後味の悪い物だった。

「さあ、ダン。そうと分かったら、俺たちの新しい門出を祝ってくれ!コウジ、頼んでおいた例の奴、買って来たか?」

大将さんは明るく振舞おうとしているが、それが私には余計に悲しく映った。

「ええ、勿論!最高級の物ですよ、大将!」

コウジさんは背中の鞄から一升瓶を取り出して笑って見せた。そうなんだ!私ひとりが悲しんでいるのは相手に対して失礼だ。これは二人が出した結論なのだ!だったら、私も明るく努めて、快く祝ってあげよう!私には、それ位しか出来ないのだから。

「さあ、そうと決まったら、久しぶりにやりますか。宴会を」

トコさんも開き直ったように明るかった。

「そうしましょう!」

私も明るく振舞う事にした。今は自分自身、皆と一緒に楽しもうと決心すると、自分の中でモヤモヤとしていた物が綺麗に無くなった様に感じた。コウジさんも私を見て微笑んでくれていた。こうなると、今までの宴会と何ら変わりはない。今日は飲むぞ!気合を入れて座り込んだ。少し遅れてインテリさんが戻って来た。

「どうしたんですか?今頃宴会だなんて」

成り行きの分からないインテリさんには無理もない質問だった。と言うのも、宴会は二週間ほど前から中止していたからだ。晩方は寒くて外で座っていられないというのが理由だった。理由を聞きたそうな顔で立っているインテリさんに、

「さあ、座ってください。どうぞ!」

私は半ば強引に酒の入ったコップを渡した。

「あ、ど、どうも。それで、今日は……」

インテリさんが話そうとすると、

「たまには良いもんですよ」

私は言葉を遮った。大将さんやトコさんに二度も同じ事を言わせたくなかった。インテリさんは頭の良い人だから、きっと私の態度で何かを感じてくれると確信していた。思った通り、インテリさんはもう何も聞かなかった。インテリさんには申し訳ないが、今日の事は、おりをみて私から話しておこうと思った。

宴会は盛り上がった。インテリさんも意味は分からないだろうが、とにかく一緒になって盛り上がってくれた。ただ、以前のように遅くまでは出来なかった。寒い上に冷酒を何杯も飲んでいると体が冷えて酔うどころではなかった。

「さあ、明日も早いし、今日はもう寝るか」

コウジさんの一言で、皆一斉に立ち上がった。寒いのは私だけじゃなく、皆寒いのを我慢していたのだ。誰というでもなく笑いが漏れた。解散して各々テントに戻ると、私は急に胃が痛み出した。

「調子に乗って、冷酒飲み過ぎたかな?それとも体が冷え過ぎたのかな?」

私は胃の辺りを擦りながら、冷えた身体を温める為、急いで布団に潜り込んだ。

朝、いつものように目覚めると、一番に胃の具合を気にした。

「だいぶ、マシだな。風邪でもひいたのかなあ。ここでの生活は健康が一番だからな。命より健康だ!」

少しシクシクと痛む物は感じたが、仕事には支障がないように思えたので、現金に行く事にした。洗顔の為、テントを出ると、大将さんとトコさんの自転車が見当たらなかった。

「こんなに早く出かけるのか。結構大変だな」

私も早く起きているが、それより更に早く出かけなければならない大将さんやトコさんの事を考えると、やはり気の毒である。おまけに、そこまでして得る収入は、私たちの十分の一ほどである。かと言って、それを嫌がり止めてしまえば、定年というものが無い私たちに待っているもの、それは死以外の何物でもない。つまり死ぬ寸前まで私たちは働き続けるしかないのだ。生きるという事は何と過酷な事であるか!あの二人を見ていて、そう感じざるを得なかった。

私が洗顔を終えて戻って来ると、コウジさんがもう立っていた。

「すいません。直ぐ、用意します」

「ああ」

コウジさんはそう言ったきり、大将さんとトコさんのテントの方をボーっと見ていた。きっとコウジさんも私と同じ事を考えているのだろう。今日は何だかスッキリとしない朝になった。いつもなら四人で歩いていた道も今日からは二人。分かってはいても、寂しい気持ちは変わらなかった。

夕方になってコウジさんと二人、テントに戻って来ると、大将さんとトコさんの自転車が止めてあった。

「もう、戻っていますね」

「そうだな」

「弁当、渡します?」

「いや、止めとこう。この静けさじゃあ、たぶん寝てるよ。もう少ししてからにしようや」

「はい」

一体、どれ程の時間、どれ程の距離を走ったかは分からないが、大変な一日であった事は容易に察しがついた。とにかく頑張りましょう。私たちには、それしか道が無いのですから!私は心の中で大将さんやトコさんにそう叫ぶと同時に自分自身にも気合を入れていた。私たちの新しい生活パターンが始まり出した。

つづく


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[一言] 引き込まれました こういうものを待っていました 後編、楽しみにしています
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