雨傘
身を叩く絶望の雨が不意になくなり、拓海にも自分の側に誰かがいることを気付いた。
見えない目で縋るようにその相手を探す。
雨に打たれた拓海にそっと傘を差し出したのは、拓海が気になって仕方ない彼の隣人。
彼女は自分が濡れるのも構わず、拓海に傘を向ける。
視線の定まらない彼の目が彼女の方を見つめる。
震える拓海の口が助けを求めるように動いた。
泣きそうな顔でじっと拓海を見つめていた彼女はその瞬間に傘を手放した。
ぱしゃっと音を立て、傘が水溜りに落ちる。
彼女は雨に濡れるのも、ぬかるみで汚れるのも構わず拓海に抱きついた。
まるで彼を雨から守るように細い体で、自分よりも大きな拓海を包み込む。
彼女の愛らしい瞳から止めどなく涙が零れ、拓海の首筋に落ちる。
冷たい雨に混じった温かな雫。
不意に与えられたそれに無性に胸を締め付けられ、拓海は縋るように彼女にしがみついた。
抱きしめる、なんて言えない。
ただ自分の激情を彼女にぶつけるように拓海は叫び声を上げながら、彼女を締め付ける。
春でも雨は冷たい。
その一滴でも思わずびくりと肩を震わせるのに、それが千に、万に、それ以上になった時の冷たさといったら。
心まで冷え切り、動き出そうとする熱意を奪う。
拓海の体を、そして拓海を意抱きしめる彼女を春雨が容赦なく降り注ぐ。
それでも抱きしめあった部分だけはいやに熱くて、無意識に温かさを求め、もっと彼女をきつく抱きしめる。
冷え切った体に熱が沁みこんでくるように、頑なに閉ざされた心が徐々にほころび始める。
「俺は、捨てたくないんだ。仲間に失望されるのが怖くて、続けることができないって思いたいんだ。でも、俺からギターを取ったら何も残らない。何もない自分がちっぽけで、でも前みたいに弾けない自分が哀れで、もうどうしていいか分からないんだ。でも……」
口が勝手に動く。
相手は何の相槌も打たないが、拓海は構わずにしゃべり続けた。
誰かに心の奥底で淀んだ自分の劣情を知ってほしかった。
プライドが高く、誰にも言えなかった自分の本音を聞いてほしかった。
もうずっと限界だったのだ。
「でもやりたいんだ。前みたいに、皆で楽しく。あの日々の続きがしたいんだ。俺は……」
全てぶちまけて、ぷつりと声が途切れる。
我に返ったように自分を抱きしめる彼女から体を離すと拓海は小さく呟いた。
「俺は歌、歌いたい。どんなになっても……」
ゆっくりと顔を上げ、目の前にいる彼女を見つめようとする。
暗闇を見つめたままの拓海。
しかし、自分の視線が目の前の彼女を捉えている気がした。
間違いない、そう予感する。
そっと目の前にいるであろう彼女に手を差し伸べる。
濡れた指先が柔らかな肌に触れる。
ゆっくりとその存在を確かめるように指を這わす。
彼女を傷つけないようにそっと優しく。
彼女は拓海の手を払いのけることはせず、じっとそのまま、拓海のされるがままだ。
拓海の指先は顔から首、そして腕へと落ちていく。
柔らかな感触に荒んだ心が別の動悸を訴える。
それをごまかすようにぱっと手を引くと、拓海はそっぽを向いた。
気まずい時の癖。
見えなくなっても何かごまかすものを探して視線を漂わす。
しかし離した手を不意に握られて、拓海はびくりとした。
情けない顔で様子を窺がうように彼女に向き直る。
優しく拓海の手を取った彼女はそのまま自分の頬に拓海の手を当てた。
―あったかい。
じんわりと心に灯ったのは、なんと言う名の炎だろう。
未だに雨は二人を包み込むように降り注ぐ。
身を打つ雨は冷たい。
冷え切った体は小刻みに震える。
ただ、重なった部分だけは温かかくて。
いつまでも触れていたい。