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後 青色の朝

 暖炉の火にあたり、手紙を握りしめながら、エラはもう自分がするべきことを決めていた。


「私、領主様のご子息とお見合いすることにしたの。だから、もうあなたと一緒にいる気はないわ。婚約は取り消し。好きな人と結婚して良いのよ」


 そう言わなければ。彼は軽蔑するだろうか? いいえ、まさか。でも、彼には振られなければならない。エラが振るような言葉を言い、実際そう見えたとしても、真実振られるのはエラなのだ。


 彼がエラにふさわしくないのではなく、エラこそが彼にふさわしくないのだから。


「アンディー……」


 彼からの手紙をしまい、寝台に入っても、彼女は眠れなかった。止めてくれる人のいない涙は止まらず、枕はどんどん濡れていく。私のアンディー。



 やがて女王誕生祭の朝はやってきた。


 寝台から起き上がったエラは涙に濡れた顔を洗い、目を冷やし、着替え、髪を結い、少し厚く化粧をした。家の外では誕生祭の陽気な音楽や、人の声が聞こえだしている。


 女王陛下のお誕生日おめでとう、おめでとう。

 今日は天気も良くて良かったですね。

 うれしいね、うれしいね……。


 彼が帰ってくるのは夕方。今はまだ料理などの準備をするにも早い時間だ。だから、扉を叩く音がしても、彼女は誰か近所の人が来たのだと気軽に考えた。


「エラ!」


 聞いたことのない、でも聞き覚えのあるような低い声。エラは慌てふためいて高いところにあるその顔を見上げた。びっくりするほど青い目。伸びた硬い腕が彼女を抱きしめた。


「エラ、エラ、変わらないね。前よりもっと綺麗だけど、そのままだ! 君に会えてどんなに嬉しいか、きっと君にはわからないよ」


 エラはあまりに驚いたため、混乱して固まってしまった。高い背、貴族的にすら思える端正な美貌。でも青い目。信じられなかった。


「アンディー、アンドリュー?」


 彼は体を少し離して笑った。忘れたことなど無い笑いかた。そっくり同じ。アンディー!


「そうだよ、エラに会いたくてたまらなかったから、できるだけ急いで帰ってきたんだ。荷物はちゃんと夕方届くよ。早く着きすぎてしまって迷惑だった?」

「いいえ、まさか、そんなこと絶対にないわ」


 ようやく混乱の海の底から這い上がったエラは、何か食べる、といささか間の抜けたことをたずねた。


「何もいらないよ。それより、離れていた間の君の話が聞きたいな。手紙に書かれていなかった話もたくさんあるだろうし。それでお腹がすいたら一緒に誕生祭のご馳走を作ろう。さあ、家に入れてよエラ」


 彼女は彼を家に入れ、居間の暖炉の前の椅子に座らせた。それから二人分のお茶を淹れ、卒業祝いの箱を持って彼と向かい合う位置にある椅子に座る。

 エラはもうほとんど冷静に戻っていた。でも、昨日の夜言おうと思った言葉はなかなか出てきてくれない。


「エラ、ここは本当に何もかも六年前のままだね。おばさんもおじさんも皆いないけど、君がいれば何ひとつ変わりはしないね」


 六年。時間の流れはエラには大きな変化をもたらさなかったのに、その変化させるはずの分全部が彼に注がれてしまったようだった。十七歳のアンドリュー。小さなアンディーとは別人のよう。でも彼だ。…………彼なのだ。

 とりあえずエラはアンドリューに持ってきた箱を差し出した。


「卒業おめでとう、アンディー。良かったら使ってちょうだい」


 蔦と花模様の、成長した彼が持つには可愛らしすぎる懐中時計。けれど彼は目を輝かせた。


「エラ、エラ」


 お礼を言葉よりよほど、それは感激を伝える呼び方だった。十一歳までの彼も、よくお礼の代わりに彼女の名前を数回呼んだ。ごめんなさいの代わりもエラ。

 それが彼の一番心のこもった言葉だから、彼の心を受け取ることができるのもエラだけだった。


「ねえエラ、僕の贈り物も受け取ってくれる?」


 彼がポケットから出した小さな箱には、青い石のはまった華奢な金の指輪が入っていた。素晴らしい色、深く純粋な、彼の瞳の青だ。


「婚約指輪。遅くなったけど、自分の手で渡したかったんだ」


 はめてもいい、と愛おしげな声でアンドリューは聞いた。エラは頷きかけた。頷きかけて、危ないところで思いとどまる。いけない。今よ、エラ、今言わなくては。


「だめよアンディー、もらえないわ」

「エラ」


 綺麗な両眼に困惑と失望が浮かんだ。青。彼女はそのふた粒の宝石から目をそらした。だめ、もらえないわ。踊り回る暖炉の火を見つめ、できるだけ感情を抑えた平板な口調で頭の中で何度も練習したセリフをなぞる。


「私、領主様のご子息とお見合いすることにしたの。だから、もうあなたと一緒にはいられないわ。婚約は」

「……エラ」


 どろりとした何かを含んだ声が彼女の言葉を遮った。


「お見合い、誰が、持ってきたの」

「教師のあのかた」


 とっさに紳士の名前を思い出せなかったエラだったが、しっかりアンドリューには伝わったらしい。その貴族的な容姿に似合わず、彼は「あの愚劣なハゲが」と口汚く罵る。

 エラは火から目を離せなくなっていた。


「やつに何を言われた」

「いいえアンディーちがうの、べつに何か言わたわけではないわ。ただ、そう、あなたと結婚はできないと思って」

「本気なの、エラ」

「ええ」

「君の腫れた目は僕に会える嬉し涙じゃなくて、別の理由だったの」

「……ええ」

「エラ!」


 あまりに苦悶に満ちた声。けれどもエラは何か笑ってしまいたいほど嬉しかった。気付けば彼は立ち上がり、彼女の隣の床に膝をついて、その手を握っていた。


「エラ、エラ、待っていてくれるって言ったのに。何でもするから、どんなことでもするから、君の望むどんな人間にだってなるから。ねえエラ、お願い、一緒にいられないなんて言わないで」


 それは痛ましいまでの懇願だった。世界が終る寸前でも、彼はこんな悲痛な声を出さなかっただろう。身を切るようなそれに、エラは思わず彼を見てしまった。うなだれた白い首筋、黒い髪。見れば決意がぐらついてしまうことぐらい分かっていたのに。


「アンディー。私は本当に変わっていないの、あなたはとっても成長したけれど、私は恥ずかしいくらい無知なまま。だめよ、あなたにはふさわしい人が他にいるはずよ」


「そんなものはいらない!」


 彼は顔を上げ、強い青い視線でエラの金茶の双眼を突き刺した。彼に握られた彼女の手は今や痛いほどだった。


「初めて見た花以外ほしくない、初めて差し伸べられた柔らかな手のひら以外ほしくない、初めて向けられた透明な微笑み以外ほしくない」


 それ以外の何もほしくなんてないのに。


「エラ、お願い、エラ」


 心をねじ上げるためだけにあるような声で、息をすることすらためらうような口調で、彼はエラを呼んだ。

 エラの目から涙が落ちる。


「私で、いいの」


 彼はにじむように微笑みを浮かべた後、「愛しいエラ」と彼女を引き寄せた。




 *・*・*




 女王誕生祭の翌日。

 領主の末息子との見合い話を断った後、エラとアンドリューは町の図書館に来ていた。高いところにある窓は雲ひとつない空を切り取り、その光の中で埃が舞い踊る。



「アンディー」


 ついでにと持ってきた本の返却手続きをして、アンドリューのところに戻って来た彼女の小さな声は、微かに震えていた。その目は彼が何気なく眺めていた冒険物語の本のあたりをさまよっている。昔二人で読んだ本。

 彼女はふいに不安を感じたらしかった。


「アンディー、あなた本当にここで満足できる? 学院にいたころは、ふたりのお姫様とか、立派な学者のかたがたとか、色々な国に関わるような物事とかがあったでしょう」


 そこで少し言葉を切り、エラは広い図書館を見回す。本の匂い、物語の香り、知性の泉。外界に繋がる鮮やかな糸。


「ここの本に書かれていること全部合わせたよりも世界は広いのでしょう? 素晴らしいものだってたくさんあるのでしょう。そういうものが恋しくはならない?」


 学院で、もしくはその周りで、エラより多くの物を見てきたであろうアンドリューは、ただ軽く首を傾げた。


「どうだろう、確かに世界は広かったよ。でも僕が発見したのは、どんなものもエラに比べれば色あせて見えるということだけ。あそこには君がいなかったから」


 次は一緒に行こう、と彼は笑った。そうね、とエラも微笑み返し、心の中で考える。


 ――私のアンディー、あなたが変わってほしくないと思った私そのままに、けれど世界を見て、私も成長したい。

 自分で自分があなたにふさわしいと思えるように。


「僕は『強くて賢い子』になれたかな」


 やや唐突に、アンドリューが婚約指輪の嵌ったエラの小さな手を取って聞いた。頷こうとしたエラに、しかし「いや、まだだね」と苦笑する。僕はまだ君を泣かせてしまうもの、と。

 それから気軽につないだ手を振り、言う。


「エラ、帰ろう」


 ふとエラは彼女のアンディーにまだ「おかえなさい」を言っていないことに気が付いた。アンドリューだって「ただいま」を言っていない。でも彼は、百年ぶりの再会だって彼女の名前だけ呼んで済ますに違いない。

 なら、どうでもいいことだ。エラだって同じ方法を使えばいいのだから。


「アンディー」

「なあに、エラ」

「なんだと思う?」


 真剣に悩みだしたアンドリューとつないだままの手をエラが引き、彼らは一緒に図書館を出て行った。


 外には、窓の形に切り取られた空とは違う、指輪の石に似た青色の、本当の空が広がっている。






 〜終〜

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