5話
そこからの数時間は、まさに凄惨を極めた。
逮捕の直接の原因は、生水を飲んだことによる重度の食中毒である。
突如として、上からも下からも、おぞましい決壊が始まった。胃液も胆汁も吐き尽くし、やがて吐瀉物にも排泄物にも赤黒い血が混じり始めた。もはや何が原因で血が出ているのかすら分からない。ただ、内臓が溶けて流れ出ているような感覚だけがあった。
牢屋の隅には、木製の粗末なバケツが一つ置かれているだけだった。当然、現代的な水洗トイレなどあるはずもない。看守がこまめにバケツを入れ替えてくれるはずもなく、容量はあっという間に限界を迎え、周囲は地獄のような惨状と化した。
さらに、先ほど頭から浴びせられた冷水が、龍一の体温を容赦なく奪っていった。
ただでさえ免疫力が底をついている体に、濡れたジャージが氷のように張り付く。ガチガチと歯の根が合わず、痙攣のように震えが止まらない。耐えきれなくなった龍一は、少しでも冷たさから逃れようと、汚れた衣服を狂ったように脱ぎ捨てた。
全裸になった男が、暗く冷たい石の床の上でうめき声を上げながら、痛みに耐え、寒さに耐え、ガタガタと震えながら己の汚物を撒き散らしている。
人間の尊厳など欠片もない、この世の地獄だった。
あまりの悪臭にしかめ面をして監視していた看守の男は、いつの間にか持ち場を離れていなくなっていた。当然、この地下には他にも牢屋があり、両隣の鉄格子からは、悪臭と騒音に対する囚人たちの悲鳴にも似た怒号が絶え間なく響き渡っていた。
やがて高熱に浮かされ、龍一の体はピクピクと痙攣を始めた。
視界が暗く狭まり、意識が白濁していく。
(……え? 死ぬの? 俺?)
朦朧とする頭で、ひどく客観的な疑問が浮かんだ。
日本にいれば、ただの腹痛だ。救急車を呼んで、病院の清潔なベッドで点滴を打ってもらえば、数日で退院できるようなありふれた症状のはずだ。
それが、ここでは致命傷になる。ただ喉が渇いて、公園の噴水のような水を一口飲んだだけで、こんな薄汚い石牢で、全裸のまま汚物に塗れて、誰にも看取られずに死ぬ。
あまりにも理不尽で、あまりにも馬鹿げている。平和で安全な日本で二十年間生きてきた命が、こんな紙屑のようにあっけなく消えるのか。
薄れゆく意識の中で、龍一は夢を見た。
『こら! どこにボール蹴ってんだ!』
道端でサッカーをしていて、近所の雷オヤジの車にボールを当ててしまい、こっぴどく叱られた日のこと。
『龍一、この英語の点数は何?』
ベッドの下に隠していたテストの赤点が母親にバレて、居間で数時間、足が痺れるまで正座で反省させられた日のこと。
『いつまでゲームやってんの! 明日も一限からでしょ!』
毎晩夜更かしをして小言を言われ、「うるさいな」とふてくされて布団を被った日のこと。
どれもこれも、当時は苦々しくて、面倒くさいと思っていた日常。
けれど今思い返せば、それは誰かに守られ、見放されずに生きていた証だった。痛いほどに、幸せな記憶だった。
(あぁ……帰りたいな……)
――ザバァッ!!
再び、顔面に容赦なく冷水を浴びせられ、龍一は弾かれたように現実へと引き戻された。
「ゲホッ、ガハッ……! ゲホゲホッ!」
気管に入った水を吐き出しながら、激しく咳き込む。自分がまだ生きていることに驚く暇もなく、背筋に強烈な悪寒が走った。
(また、殴られる……!)
恐怖で身をすくませ、恐る恐る頭上を見上げる。
「*****」
立っていたのは、またしてもあのスキンヘッドの男だった。鼻をつまみ、この世の汚物を一箇所に集めたようなものを見る目で、強烈な悪臭に顔を顰めている。
(この言葉は……『立て』……だったな……)
龍一は壁に手をつき、よろめきながら立ち上がった。
頭がボーッとしており、自分が全裸であることすら一瞬忘れていた。不思議とあれほど暴れ狂っていた腹痛はマシになっていたが、代わりに割れるような頭痛と、全身を殴打された骨の痛みが極限まで悪化していた。
スキンヘッドの男が、床に脱ぎ捨てられた龍一のジャージを顎でしゃくった。
濡れている。汚れている。あんなもの、死んでも着たくない。
だが、着なければまたあの凶悪なブーツで蹴り飛ばされる。
思考を完全に放棄し、龍一は痛む体に鞭打って、冷たく濡れた衣服を身に纏った。汚泥に身を沈めるような、途方もなく気持ちの悪い感触が肌を覆う。
今度は、スキンヘッドが牢屋の出口を顎で示した。
(え……? まさか、処刑、されるのか?)
一瞬にして全身の血が凍りつき、恐怖で足が床に縫い付けられたように動かなくなった。
怒鳴られても、カタカタと震えるだけで一歩も踏み出せない。次の瞬間、無防備な腹部に強烈な蹴りがめり込んだ。
「がはっ……!」
その場にうずくまる龍一の背中を、男は容赦なく何度も蹴りつける。怒声が降り注ぐ中、龍一は這いつくばるようにして牢屋の外へ出た。
無理やり立たされ、首根っこを掴まれるようにして連行される。
通路を歩く道中、両隣の牢屋の連中から、鉄格子越しに激しい怒声や唾が飛んできた。何を言っているかは分からないが、強烈な悪臭を放つ龍一への罵倒であることは明らかだった。
だが、これから処刑されると思い込んでいる龍一には、そんなものを気にする余裕すらなかった。
逃げる気力など微塵もない。まっすぐに歩くことすらできず、ふらついて壁にぶつかるたびに、スキンヘッドから容赦ない拳が飛んでくる。殴られるたびに頭痛が爆発し、絶望が視界を黒く塗りつぶしていく。
しかし、長い地下通路を抜けて連れ出された場所は、断頭台でも、処刑場でもなかった。
それは、分厚い鉄で補強された重厚な「門」だった。おそらく、この地下牢の出入り口だ。
そこに、書類の束を抱えた事務官のような細身の男が現れ、龍一の胸に一枚の羊皮紙を無造作に押し付けた。
頭が働かず、言われるがままにその紙を受け取ると、ギゴゴゴ……と重い音を立てて目の前の門が開いた。
スキンヘッドの男が、顎でクイと「外」を指し示す。
開かれた門の向こうには、いつか見た石畳と、赤茶色のレンガの街並みが広がっていた。いつの間にか、建物の隙間から眩しい朝陽が差し込み始めている。
(……釈放、か?)
龍一の頭は完全に混乱していた。
本当か? これは罠じゃないのか? 外に出た瞬間に、背後から弓矢で射殺されるのではないか。疑心暗鬼と、機能不全に陥った脳のせいで、開かれた門を前にしても龍一はピクリとも動けなかった。
「チッ……」
痺れを切らしたスキンヘッドが、鋭い舌打ちと共に龍一の鳩尾に拳を叩き込んだ。
「ぐえっ……」
胃の空気を吐き出し、地を這うように倒れ込んだ龍一。その無防備な腹部を下から思い切り蹴り上げられる。
「ゴバッ……!」
口からドロリとした鮮血が床にぶちまけられた。もはや、彼の胃の中には吐き出すようなものは血以外に残っていなかった。
「*****!!」
頭上から浴びせられる怒声に急き立てられるように、龍一は血の混じった唾を吐き捨てながら、よろよろと立ち上がった。
そして、手渡された血と泥に塗れた書類を握りしめたまま、ふらふらと、太陽の眩しい出口へと向かって歩き出す。
門の外へ出た龍一を待ち受けていたのは、祝福のような朝陽ではなく、ただ冷徹に世界を照らし始める光だった。
龍一は歩いた。
石畳に血を点々と溢しながら、よろよろと、縋るものもない空間を彷徨った。
何度も足が縺れ、膝から崩れ落ちた。そのたびに、痛みに悲鳴を上げる体に鞭打ち、泥と汚物に塗れた手で地面を這い、這い上がり、また歩き出した。
口内から溢れる鉄の味に耐えきれず、何度も赤黒い塊を石畳に吐き捨てた。
下腹部の鈍い痛みは、彼が歩く軌跡に、分かち難い汚辱の痕跡を残し続けていた。
行き先など、どこにもない。
ただ、あの薄暗い石牢から、理不尽な暴力の手から、一刻も早く遠ざかりたい。その一心だけが、辛うじて彼の足を前へと動かしていた。
歩けば歩くほど、日は高く昇り、世界は白く、明るく輝きを増していく。
けれど、それと反比例するように、龍一の視界はだんだんと狭く、暗く、澱んでいった。
(……なんで、こんなに、暗いんだ……?)
眩しいはずの陽光が、まるで遠い異国の幻灯のように、ぼやけて歪んで見える。
極限の空腹と脱水、そして度重なる暴力によって奪われた体力の限界。割れるような頭痛が視界を明滅させ、目の前をチカチカと黒い小さな虫のような影が飛び交う。視界の端からじわじわと闇が浸食し、やがて世界は、色彩を失ったセピア色の泥のようになっていった。
ここが、どこだかわからない。
俺は、誰だっけ。
何故、自分はこんなところにいるのか。
何故、こんなにも、痛くて、苦しいのか。
全ての思考が、濃い霧の中に溶けて消える。
(ああ……もう、いいか……)
目の前が、完全に真っ暗になった。
龍一は、糸が切れた人形のように、石畳の上に静かに倒れ伏した。
早朝の静寂が、石造りの街を包み込んでいた。
まだ人通りもない路地裏。
倒れ伏した龍一の、微かな、今にも消えそうな呼吸音だけが、冷たい空気に溶けていく。
◆
しばらくして、その場所を、一人の人物が通りかかろうとしていた。
「……?」
地面に横たわる、汚物と血に塗れた異形の存在――龍一を見て、その人物は足を止め、小さく首を傾げた。
それは、この凄惨な光景にはあまりにも不釣り合いな、神秘的なまでの美しさを纏った人間だった。
朝露を孕んだ霧のように、透き通るような青い髪。それが柔らかな曲線を描くボブカットになり、華奢な輪郭を縁取っている。
少し長めの前髪の隙間から覗くのは、深い海の底を思わせる、藍色の瞳。何か遠くの悲劇を見つめているかのようなその瞳は重い瞼に半分ほど遮られている。
薄い桃色の唇は固く結ばれ、真っ白な、陶器のように滑らかな肌が、朝陽を浴びて淡く発光しているかのように見えた。
そのあまりにも華奢なシルエットは、上質な、しかし薄手のローブによって、その身を隠すように包まれている。
大人と呼ぶには未熟で、子供と呼ぶには違和感を覚えるシルエット。それは、じっと、龍一を見つめる。
その深い瞳には、嫌悪も、恐怖も、浮かんでいない。
ただただ、静謐な眼差しだった。
これは、運命の出会い。
世界が滅びへと向かう路。
その物語が。
今、この静かな早朝の路地裏で、始まろうとしていた。




