由美子と悟
「生まれ変わったら何になりたい?」
視界の悪い山道に車を走らせながら、僕は由美子に問いかける。外は土砂降りで、フロントガラスのワイパーはネズミの拍動のように忙しなく左右に動き続けているが、視界の確保には追いついていない。
「あー…社長かなあ。いっぱい稼いで、社員には優しくして、週休3日で、服装自由。福利厚生の素晴らしい、社員に優しい会社を作る」
「それで利益あげれたら敏腕だねえ」
それで利益を上げることは難しいから、世の中にホワイト企業は増えないのだろう。
「悟は?生まれ変わったら何になりたい?」
「うーん。由美子に飼われる猫かな。でぶいやつ」
生まれ変わったら、人間にはなりたくない。あらゆる苦痛から解放されて、気ままに生きていきたい。いや、あらゆる苦痛からの解放となると生き物ではなくなるのか。空腹や病気も苦痛というものな。
「ずるい。人間じゃなくていいなら私も猫がいいよ」
由美子は少し怒って言う。目を釣り上げるのが上手いなと思った。
「じゃあ2人で猫になろっか。でも、だったら、野良猫がいいかなあ。誰かに飼われるんじゃなくて、餌だけもらいながら、地域猫として2人で生きていきたいね」
「なんでそんなに猫に対して解像度が高いのよ」
「昔から猫が好きで、猫が飼うのが夢だったから」
その夢はもう、叶うことはないけれど、とは言わなかった。言う意味があるとも思わなかった。これから死のうとしている2人の間で、わざわざ暗い話をすることもないと思った。
僕らは付き合っていたわけではなかった。ただ、小さい頃からの幼馴染で、それぞれの理由で地方から東京に出てきた僕たちは、数年前に再会した。僕たちはお互い社会に馴染めていなくて、たまに一緒に飲んでは、世界に対する呪詛を吐いていた。それでも2人とも死ぬことはできなくて、ただ何かが削れていることを感じながら、人生の終わりを待っていた。
ある日、その日も大雨だった。彼女はずぶ濡れになって僕の部屋を訪れ、死にたいと呟いた。何があったかは聞かなかった。聞いて欲しそうでもなかったし、聞いて欲しそうでも聞かなかった気がする。ただ、彼女がそれを望むなら、一緒に死のうと思った。
「死ぬならどこかの山奥で、車の中で煉炭自殺かなあ。目張りして、睡眠薬飲んで、寝てる間に死ねたら幸せだよね」
シャワーを浴びて頭を乾かし、僕の寝巻きに着替えて落ち着いた由美子に言う。
「飛び降りとか溺死とかは苦しそうだし、塩素ガスも難しそうだもんね」
2人とも希死念慮はあったせいである程度自殺に関する知識があることに笑ってしまう。
「どうせならやりたいこと全部やっとく?2人の貯金も使い切ってさ」
「そうだね。行きたいところに全部行こう」
生きようとしていた時には沸かなかった、計画立案力や行動力がどこからか湧いてきて、僕らの自殺の後押しをする。そして4月の最初の月曜日。桜が満開で満月の夜。僕らは会社に行かず、最後の旅に出かけた。
今まで使っていた携帯は川に投げ捨てた。この時のために新たに契約した携帯をナビに、温泉に行き、美味しいものを食べ、ユニバに行き、ディズニーに行った。とても楽しかったが、案外お金は使いきれなくて、余った額は、2人の人生で数少ない好きだった人に残るように手配した。そして最後に、星を見ようと地元の山を登っていたが、山の天気は不安定で、土砂降りとなってしまった。
「何も最後の日に土砂降りにならなくてもいいのにねえ」
由美子は恨めしげに空を眺めて言う。
「まあやむまでは、外の目張りもできないししばらく死ねないね」
僕は山の頂上に車を止めた。目的地に着いてしまうと、やることはもうなく、2人の間に沈黙が訪れる。
「これでさ、雨が降ってるから死ぬのやめよう、ってなったらよかったのにね」
由美子は少し寂しそうな、少し悲しそうな顔で笑う。
「そうならないように、携帯も、仕事も、金も、捨てたんだよ」
もう後戻りはできない。戻って生きていくための武器を、全て捨ててしまった。
「星、見たかったなあ」
そう彼女が言った後、またしばらく沈黙が走る。彼女はずっと何か聞きたげで。僕は彼女からの質問を待っていた。
「よかったの?私と一緒に死ぬことを選んで」
生きることを選ぶこともできたのに、とは彼女は言わなかった。
「いいんだよ。弱者2人のパーティを組んでも、生きづらさは変わらない。だったら2人が完全な弱者になってしまう前に、終わらせるのもありだと思ったんだ」
聞かれなかったが、僕は答えた。僕らは社会不適合者ではあったが、まだドロップアウトはできていなくて。自身の価値が地の底に落ちる前に人生を終えるのは、理想的に思えた。
「雨、やんだね」
「そうだね」
目張りを済ませ、睡眠薬をひと瓶飲んだ僕らは、七輪に火をつけた。物が燃える独特の匂いが、車内に充満していく。助かったとしても、後遺症がひどく、理性は残らないだろう。今の理性とはお別れだ。
「じゃあね、来世で」
彼女は涙をこぼしながら言う。
「じゃあね、来世で」
僕は彼女の涙を拭いながら言う。
誰だって死にたくなんてないのだろう。ただ生きる能力が足りなくて。せめて来世は、彼女と僕が楽しく生きれるように。
煙に塗れていく車の中で、僕の意識はだんだんと薄れていった。