3 迷人の少女との出会い
(ふざけるな……!! ここは、お前らの遊び場じゃねえ!!)
どくん、と心臓が大きく跳ねた。 全身の血管を駆け巡る血が、煮えたぎるマグマのように熱い。 「無能」の烙印を押された俺だが、二年間、命懸けで勇者の背中を守り続けてきた基礎レベルは伊達じゃない。どんなに底辺だと嘲笑われようと、俺の身体には地獄のようなダンジョンで培った反射神経と、敵を屠るための身体操作が染み付いている。
頭の奥底で、何かがブツンと音を立てて弾け飛んだ。 それは、かろうじて俺を繋ぎ止めていた理性の糸だったのか、それとも長年俺を縛り付けてきた自己卑下の呪いだったのか。今の俺には分からない。 ただ、一つだけ確かなことがある。 目の前で泣いている黒髪の少女の瞳が、少し前の俺自身の絶望と、完全に重なったということだ。
俺は冷たい腐葉土を強く蹴り上げ、暗闇の底から弾丸のように飛び出した。 風を裂く音さえ置き去りにするほどのスピード。
「……あ?」
少女のワイシャツに下卑た笑みを浮かべながら手をかけていた金髪の男が、間抜けな声を漏らした。 俺の姿を認識できたのは、おそらく声が鼓膜に届くよりも後のことだっただろう。
「おらぁっ!!」
溜め込んだすべての怒り、悲しみ、憎悪。そのすべてを右の拳に乗せ、俺は金髪の男の顔面、その鼻梁のど真ん中を容赦なく打ち抜いた。
『メキョッ!!』
硬い骨が粉砕される、生々しくも残酷な音が夜の森に響き渡る。
「ぐはっ!! ……あッ、いでぇえ!! いっだぁああああっ!!」
男は吹き飛び、無様に地面を転がった。鼻から噴水のように赤い血が噴き出し、ワイシャツの白い襟を瞬く間に汚していく。 男は鼻を押さえ、涙と鼻水と血を撒き散らしながらふらつき、信じられないものを見るような目でこちらを見た。よく見れば、まだ二十歳にもなっていない、子供に毛が生えた程度のガキだ。だが、ガキだから許される道理など、この世界には存在しない。
「寄ってたかって、か弱い女一人に何をしてる。……見苦しいんだよ、ガキども」
俺の低く冷たい声が、シンと静まり返った森に木霊する。 あまりの事態に、周囲を囲んでいた他の四人の男女も完全に思考が停止しているようだった。俺はゆっくりと立ち上がり、背中の剣の柄に手を添えながら彼らを一瞥した。
「その奇妙なチェックの服……お前ら、この辺りを荒らしている『緑骨団』の残党か、それとも下っ端か。どちらにせよ、冒険者ギルドへの賞金首になってるんだよ。生きて帰れると思うな」
「はっ!? わけわかんねーし! み、緑骨って何だよ!?」 「だれ!? いきなりなに!? トモヤの顔殴るとか、マジふざんな!! 警察呼ぶよ!?」
暴行を加えていた連中が、ヒステリックに喚きながら俺を睨みつける。 警察? そんなものが来るのなら、とうにこの国からモンスターなど消え失せている。わけのわからない言葉だ。だが、その言葉が虚勢であることだけは伝わってきた。
次の瞬間。
「てめー! 誰だか知らねーけど、俺たちの『イベント』の邪魔すんなよなっ!! 死ねや、コラァ!!」
白色に近いアッシュグレーの髪をした男が、ポケットから何かを取り出した。 月明かりを反射して鈍く光る銀色の刃。折り畳み式の、見たこともない奇妙な構造をした小型のナイフ。ダガーとも違う、ひどく薄っぺらい安物の刃物だ。 だが、殺意だけはいっちょ前に込められている。男は顔を真っ赤にして逆上し、俺の心臓めがけてそのナイフを突き出してきた。
「やめて!!」
背後で黒髪の少女が悲鳴を上げる。 だが、遅い。あまりにも遅すぎる。 俺の目に映る白髪の男の動きは、まるで泥の中で動いているかのように緩慢だった。 重心の置き方も、足の踏み込みも、何から何までが素人のそれだ。殺し合いの経験など一度もない、ただの喧嘩の延長で刃物を振り回している。
俺は背中に背負っていた長剣を、鞘から半ばまで引き抜く。 そして、襲いかかってきた男が間合いに入ったその瞬間、引き抜く勢いを利用して剣の柄頭を男の鳩尾に正確に叩き込んだ。
「ごふっ!?」
肺から空気を無理やり吐き出され、男の身体が「くの字」に折れ曲がり、よろける。 そこが、奴の命運の尽きる瞬間だった。 俺は迷うことなく剣を抜き放ち、流れるような動作で刃を翻した。
ヒュッ、と風を切る鋭い音。
「――っ」
抵抗らしい抵抗も、骨を断つ感触さえも希薄だった。 ただ、赤い飛沫が夜の闇に扇状に広がり、何か重いものがドサリと地面に落ちた。男が握りしめていた安物のナイフごと、手首から先が切り落とされたのだ。
一秒、二秒。 男は自分の右腕の先がないことに気づき、きょとんとした顔をした。 そして。
「いっ……でぇえええええええええええっ!? あ、ああっ、お、俺の腕! 俺の腕!? ない!? うそだろ、ふざけんなよ! なんなんだよコイツ!! 痛い! 痛いよおおおおおっ!!」
耳をつんざくような、本物の悲痛の絶叫が森を震わせた。 白髪の男は地面を転げ回り、大量に血を噴き出す自身の腕の断面を押さえて泣き叫ぶ。そのあまりの凄惨さに、残された仲間たちは声を失い、カタカタと奥歯を鳴らして震えていた。
当然だ。この世界では、襲いかかってきた盗賊に対する正当防衛は、相手を殺害しても罪には問われない。俺は、冒険者としての当然の権利を行使し、躊躇いなく斬っただけだ。
俺は男の絶叫を完全に無視して剣の血振りをし、冷たい視線のまま、腰を抜かしている黒髪の少女へと歩み寄った。
「大丈夫か? ここはまだ危ない。もっと俺の後ろに下がって」 「う、うん……っ!」
少女はコクコクと何度も首を縦に振り、這いずるようにして俺の背中へと隠れる。その小さな体は、尋常ではないほど震えていた。
その時だった。
「ふざけんな……ふざけんなよ、このゴミがぁあああああっ!!」
先ほど鼻の骨を折られた金髪の男――トモヤと呼ばれていた男が、血みどろの顔を悪鬼のように歪めて立ち上がった。 その目には、理性を失った狂気が宿っていた。 だが、奴が向かってきたのは、剣を持つ俺の方ではなかった。
「お前が……お前が悪いんだ! この疫病神! お前のせいで俺の鼻が! シュンヤの腕が!! 責任とって、俺の盾になれよ!!」
奴は一直線に、俺の背後にいる少女へと突進してきたのだ。 俺と戦う度胸はない。だが、怒りをどこかにぶつけなければ気が済まない。だから、一番弱い「標的」を狙う。 その腐りきった性根を目の当たりにして、俺の中の最後の一線が焼き切れた。
(……このクズが)
あんなに優しく、美しい言葉を紡いでいた幼馴染たちですら、強い勇者になびき、俺という弱者を切り捨てて嘲笑った。 こいつらも同じだ。強い者にはへつらい、弱い者を徹底的に虐げる。 その行為そのものが、今の俺にとっては許しがたい『罪』だった。
「……もう、やめろッ!!」
叫びと共に、俺は少女と男の間に割り込み、高く掲げた剣を無意識のままに振り下ろした。 何のスキルも使えない、ただの力任せの一撃。 だが、二年間、魔物の硬い鱗や外殻と渡り合ってきた俺の剣撃は、無防備な人間の肉体など、熱したナイフでバターを切るように容易く通り抜けた。
ゴトッ。
鈍い音がして、金髪の男の首から上が、少し遅れて地面に転がり落ちた。 胴体だけになった男の体が、数歩だけふらふらと前に進み、やがて糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。首の断面から、どす黒い鮮血が間欠泉のように噴き上がる。
静寂。 虫の声さえも消え失せた、圧倒的な静寂。
「……あ」
「な、なんなんだよこれ……! トモヤが!! 首が……!!」
「いやー!!! トモヤぁ!! うそ!? まじうそ!? 血、血ぃ!! うそだよね!! ドッキリだよね!?」
「ちょ、やべーよ! これガチじゃん! 逃げよーよ、警察とか無理だから!!」 「手が痛いよ! ママぁ!! うわああああっ!!」
残された四人の男女は、完全に発狂した。 腰を抜かしていた女たちは顔面を蒼白にして失禁し、腕を失った男と茶髪の男は、互いを突き飛ばし合うようにして、這々の体で夜の森の奥へと逃げ出していく。 その背中には、もう俺たちを嘲笑うような余裕は一欠片も残っていなかった。
「……はぁ、はぁ……」
剣を握る手が、微かに震えていた。 やりすぎた。そう思った。盗賊とはいえ、あれほど無防備な人間を、衝動のままに惨殺してしまったのだ。 だが、後悔はなかった。あのまま放置していれば、この少女がどうなっていたか分からない。
俺は剣についた血をマントで拭い、鞘に納めてから振り返った。 少女は、目の前で起きた凄惨な光景に声も出ず、恐怖で凍りついたように座り込んでいた。
「……大丈夫か?」
できるだけ穏やかな声を出そうと努めたが、人を殺した直後の喉は、どうしても低く掠れてしまう。
「もう心配いらないよ。あいつらは逃げた。……怪我はないか? やつらから、何か大切な物とか盗まれてないか?」
俺が近づくと、少女はビクッと肩を震わせた。 無理もない。彼女の目には、俺は暴漢を瞬殺した、得体の知れない殺人鬼として映っているだろう。第一印象が最悪すぎる。
「だ、大丈夫……です。そ、その……。あ、ありがとうござ……ました……」
少女は震える唇を必死に動かし、怯えた様子で俺を見上げながらお辞儀をした。 その黒く大きな瞳には、恐怖だけでなく、行き場のない孤独が宿っているように見えた。
「俺はルイス……。ルイス・ガーランド。この街の冒険者さ。それより……」
俺は自分の薄汚れた服を見下ろす。 夜の冷気が、肌を刺すように冷たくなっていた。少女のワイシャツは破れかけ、その白い肌が夜風に晒されている。
「寒いだろ。これ、少し血の匂いがするかもしれないが……我慢してくれ」
俺は着ていた黒っぽい厚手の上着を脱ぎ、そっと彼女の小さな肩にかけた。
「あ、ありがとうございます……」
少女は戸惑いながらも上着の端をぎゅっと握りしめ、俺の顔をじっと見つめてきた。俺の目線の高さ、顔のパーツ、耳の形……何かを探るような視線だ。
「大丈夫だ。さっきの奴らは『緑骨団』っていう、この辺りを荒らしてる盗賊だろ? この地域では最近、モンスターによる被害が増えて治安が悪化してるから、盗賊は即刻処罰の対象になってるんだ。ギルドに報告すれば、残りの連中もすぐに捕縛される」
俺は彼女を安心させようと、この世界の常識を語りかけた。 だが、少女は小さく首を横に振った。
「いえ……。さっきのヤツらは、盗賊じゃありません……。私と……同じ……」
少女は何かを言いたげにこちらを見ている。 まだ警戒しているのだろうか。それとも、あの連中と何か深い関わりがあるのだろうか。
「……私と、同じ学校のクラスメイト……なんです」 「クラスメイト?」
聞き慣れない言葉だ。
「ええ。私たちがいた場所から……急に、光に包まれて……気づいたら、この森にいたんです」
(光……? まさか、さっきの地震と閃光か?)
だとしたら、こいつらは異世界から召喚された『迷人』ということになる。アレックスと同じだ。 だが、勇者として歓待されたアレックスとは違い、何の力もない状態で、森のど真ん中に放り出されたというのか。
俺の中で、彼女を信じていいのかという葛藤が生まれた。 さっきの奴らとグルで、俺を騙そうとしているのかもしれない。今日の裏切りのせいで、俺はもう誰も信じられなくなっていた。 ……でも。 自分の上着に包まれ、子犬のように震える彼女を見ていると、どうしてもその黒髪が、かつての幼い頃の俺自身に見えてならなかった。 少しの希望を持ちたがるのもまた、俺の性格ゆえの、どうしようもない悪癖なのかもしれない。
「安心して。君の事情はよく分からないが……少なくとも君の安全は、俺がしっかり守る。……約束するよ」
俺がそう言うと、少女の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。 それは恐怖の涙ではなく、安堵の涙のようだった。
「私……スガ・ヒナル……。清燕高校、一年生です……」 「スガ? セイエン……コウコウ?」
俺は首を傾げた。言葉は通じているはずなのに、単語の意味がまったく理解できない。 この世界には、異世界人との会話を自動的に翻訳してくれる『言霊の理』という不可視の魔法が常時かかっているという話を聞いたことがある。だが、それでも概念そのものが存在しない言葉は、音としてそのまま聞こえてしまうのだ。
「あっ……! えっと、コウコウは、英語で……スクール! スクール! オーケー?」
ヒナルは身振り手振りを交えながら、必死に別の言葉を探してくれた。
「スクール? ……ああ! スクール! 『学校』のことか!」 「「学校!?」」
俺とヒナルの声が、夜の森に綺麗に重なった。
数秒の沈黙。 ヒナルは目をまん丸くしてぽかーんと俺を見つめ、俺もまた、彼女の間の抜けた顔を見つめ返した。 そして次の瞬間――どちらからともなく、俺たちは吹き出していた。
「ぷっ……あははははっ! なにそれ! お兄さん、顔変ですよ! しかも、涙出るくらいおかしいんですか!?」 「はははっ! いや、ごめん! だって、いきなり『学校』ってハモると思わなくて……! あー、おかしい!」
腹を抱えて笑い転げる。 凄惨な死体が転がっているというのに、不謹慎極まりない。だが、俺たちの笑いは止まらなかった。 今日あった嫌な出来事。裏切りの絶望、殺人の感触。そのすべてでカチカチに凍りついていた心の傷が、彼女との馬鹿馬鹿しいやり取りで、ほんの少しだけ溶けていくような気がした。
ヒナルもまた、あれほど泣き叫び、理不尽な暴力に晒されていたというのに、今は無邪気な笑顔を見せていた。 その笑顔は、どんな美しい宝石よりも価値があるように俺には思えた。
「はぁ……はぁ。笑ったら、少し気分がすっきりしたよ。ありがとう、ヒナル」 「こ、こちらこそ……。お兄さんの笑った顔、優しそうで……ちょっと安心しました」
ヒナルが照れくさそうに頬を掻く。 俺は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
「行く当てがないなら、まずは安全な場所にいかないか? ……ほら、あの木々の向こう側に、灯りが見えるだろ?」
俺が指差した先には、深い夜の闇を切り裂くように、街の監視塔が放つ温かなオレンジ色の光が瞬いていた。
「あの灯り……ですね?」
「ああ。俺はあの街に住んでいるんだ。あそこには冒険者ギルドっていう、旅人を助けてくれる組織もある。事情を話せば、きっと力になってくれる。今夜はあそこで泊まらせてもらうといいよ」
俺が提案すると、ヒナルの顔に再び不安の影が差した。
「で、でも……ここがどこかも分からないし、どこの国なのかも……。それに、何で私の日本語がお兄さんに通じているのかも……何も分からないんです。私、どうなっちゃうの……?」
異世界に放り出され、怪物のような男にクラスメイトを殺され、未知の世界へと足を踏み入れる。その恐怖はいかばかりか。
「詳しいことは、明日話すよ。……実は、ヒナルのように異世界から来る人は、この数年で何人か現れているんだ。ギルドの連中の方が、俺なんかよりずっとそういう事情には詳しいから」
俺は彼女の小さな手を、しっかりと握りしめた。 氷のように冷たかった彼女の手が、俺の体温で少しずつ温かくなっていくのを感じる。
「大丈夫。俺がいる。……帰ろう、ヒナル」
「……はいっ、わかりました……」
背後に転がる凄惨な過去に背を向けて、光の灯る街へと歩き出した。 俺にとって最悪の厄日となった一日は、こうして、たった一人の黒髪の少女との出会いによって、静かに幕を閉じたのだった。
ヒナルがだれなのか… 続きが気になる方は『いいね』宜しくお願い致します。励みになります。
誤字脱字もあれば宜しくお願い致します。




