悪魔は蔓延る1
カインが悪魔だと分かる人は、マリア以外一人もいなかった。
誰も彼を悪魔だなどと思わない、絶対。少しも、勘ぐる事すらしないのだ。
「ただいま……」
「お、おかえりマリア」
チョコレート、の匂いがする。
我が物顔で我が家に居座る悪魔をちら、と見れば、彼はチョコレートのケーキを食べていた。
「……お金持ってたっけ」
「あ、なんか知らないお姉ちゃんがくれた」
誰だ、そのお姉ちゃんとやらは。
マリアは疲れが取れないままよたよたと洗面所に向かい顔を洗う。
昨日精気はそんなに吸われていない、それは分かる。
カインはマリアから貰う前に誰かからつまみ食いをしていたし、人間の食べ物でも空腹をやや緩和するらしく、パスタだって食べている。
「どうした、マリア」
「ちょっと眠いみたい」
「寝るか?」
「……チョコレートケーキ、食べたいです」
カインはげらげら笑った。
「良いよ、ちょっと食ってから寝ろ、空腹じゃ寝れないからな」
「うん」
マリアはカインの横に座り、ふうとため息をつく。
「疲れてんな、何かあったか」
「……カインのせいです」
マリアが言えば、カインはきょとんと小首を傾げた。
「そんな吸ってねえよ?」
「…………うん……」
ぼんやり、する。眠い。
「ほら、ケーキ」
フォークにチョコレートケーキを刺して、カインはマリアの口元に寄せる。マリアはすんなりそれを口にして、噛みほぐした。
甘い。チョコレートケーキ。粉砂糖が雪のようにかかっていて、ざっくり噛んだ生地の中からラズベリーと合わさったとろとろのチョコレートが舌に流れる。
「美味しい」
「ふーん」
「ふーん、って。好きじゃないの?」
「あんまり味わかんねえし」
悪魔の味覚など人間には分からないだろう、美味しいと思う人が食べればいいのだ、マリアはカインの手からフォークをとってもう一口食べた。
「ごちそうさま」
「夜は食わねえのか」
「うん、今日はこれで良いです」
そうか、と少しだけ心配気な顔をした後、カインはすっと冷めた目になった。
「な、なに?」
ケーキを二口食べたからだろうか、いや、そんなはずはない、マリアは思わず身構える。
「なんか、お前くさい」
「え!」
マリアは眠い目を見開いて、両肘を曲げて手の甲や脇、髪のにおいを確認する。左右かいでみたが、全く何も感じない、どちらかといえば、フルーツを混ぜたフローラルのお気に入りのトワレの匂いがふんわり香ったが。
「ちょっと、やだ、何のにおいっ」
カインは眉根を寄せたまま、マリアの首を抱くようにして、背中に手を回した、向かい合って抱き合うような形になり、マリアは慌てる。
が、そんな事考える前にぐ、と首をしめられた。――正確にはネックレスを後ろから引っ張られたのだ。
「ちょ、いたっ」
「……誰のだ? これ」
カインの声が一段低くなる。苛々したようにネックレスの鎖を遊び、最終的に留め金を外された。
「げほっ、ちょっと、痛いじゃない馬鹿っ! ミシェルがお土産にくれたのよっ」
首元は自分では見れないから、手で確認すれば、金鎖の型がほのかについているようだった。
「……ミシェル? あいつ帰ってきてんのか」
不機嫌度が上がった。
(なんでこうもコイツはミシェルが嫌いなわけ!?)
顔を見れば詰り合いの仲だ、お互いがお互いを嫌いな事は分かるが、
ネックレスの「におい」で、不快を感じるなど、もはや通り越して愛なのでは、とマリアは思う。
「没収」
ぼ、とカインの手のひらから炎が溢れ、白い上質なカメオのネックレスはマリアが貰ってから半日もたたずに、一瞬で燃え尽きた。
「な、あ、んた」
開いた口が塞がらないまま、マリアはカインの手のひらを凝視した。
なくなって、しまった。
「あいつから物なんか貰うな」
お前、チョコレートケーキは一体誰から貰ったと言った、と内心ぐるぐる頭の中で言葉を作りながら、もうマリアは怒りで声が出ない。
気に入っていたのに、と、言うのも億劫だ。
普段からあまり装飾具をつけないマリアに、ロザリオ以外のネックレスをくれたのはミシェルが初めてだ。
とても綺麗で、早速つけようとしたらミシェルがつけてくれた。
(もう知らないっ)
カインが二級祓魔師に祓われようがもう構わなかった、こんな俺様な悪魔によく17年も我慢した、とマリアは自分を誇らしく感じる。
ば、と立ち上がり、マリアは自室に向かう。
「おやすみー」
背後で反省なんかしてない馬鹿の声がしたが、マリアは無視した。
完全に頭にきた。
普段から割と大人しいマリアだが、一度怒ると実は恐い。
カインにはそこまで怒った事はないが、今回は心底腹がたっていた。
自室に戻り、コートを脱ぐ。
鏡で確認すれば、みみず腫に近いほど鎖の痕がついていた。
首元があいた服はしばらく着られない、つまり……クイーンゲートの制服が着れない。
マリアは怒りに任せて服を脱ぎ、シャツに着替えてベッドに入る。
身体はぐったりしていたが、怒りはふつふつと増長していた。
悪魔は人間の負の感情が大好きだ、今のマリアの精気はさぞ美味しいだろう、と自分でも感じながら、うとうとと眠りにつく。
(さっさと祓われろ、馬鹿イン)
マリアは悔しくて唇を噛み、そのまますっと寝てしまった。
†
いじめ、ですか。
――シスターが言う。
そうなのよ、あまり喋らない子だから、大人びてるし、ちょっと浮いてたのかもしれないわ。
――シスターが話しているのは、幼い時の私の話だ、とマリアは夢の中で納得した。
厄介な事になるのは困りますね、少し、様子を見ましょうか。
――嘘つき、少し、だなんて。
マリアは首をふる。シスターがいじめられているマリアを助けた事はない、見てみぬふりをしていた、ずっと。
ずっと。
でも。
†
「冷たい……」
マリアは目を開けて、一言こぼした。
自分の涙で頬が濡れている。
(泣くなんて)
夢を見て泣くなど、いつ以来だろうか。やや呆れながら、マリアはそっと涙をぬぐった。
シスターには苛立ちも感じず、いじめからはカインもミシェルも守ってくれた。小さい時の記憶だから、曖昧なはずなのに、あまり覚えてもないのに、泣くなんて。
「……頭痛い」
不調が続く。
今日は出勤だ、あぁそういえば制服が着れないのだ、と頭の隅で考える。
一級祓魔師がそれでは示しがつかないだろうか?
マリアは少しだけまどろんでから、立ち上がった。出勤だ。
†
「おはよー」
「おはよう」
朝からカインは何事もなく笑顔で挨拶する。無視するのは大人げない、とマリアは答えたが、正直許してない。
「……制服にそれすんのか?」
微妙そうな顔でカインがそれ、スカーフをさした。
黒と赤、金を基調にした制服に赤いスカーフを首元に巻いた。リボン結びではない、あくまでさりげなく巻いたつもりだが、指摘されたら眉根が寄る。
(誰のせいだと思ってるのよ)
マリアは答えず、編み上げの黒いロングブーツをはく。
「痣になったのか、見せてみろ、治してやるから」
昨日の事は覚えているらしい。
カインはマリアに対して少しも悪いとは思っていなさそうだったが、「悪くはないけど機嫌悪くさせちゃったかな」程度の認識はあるのかもしれない。
「いいよ、すぐ治るから」
声がツンとしてしまったが、カインが悪い。
マリアはそのままドアに手を伸ばす、が、その手を後ろからカインに取られた。
「ほどけて見られたらどうすんだよ、ほら前向け」
しゅ、とスカーフを解かれマリアは首筋に入ってきた冷気にひやりとした。
「もう、良いってば」
必死に抵抗して、カインの方を見ないようにする。
「怒ってんなあ? そう怒るなって俺が何か買ってやるから」
「お金持ってないくせに。そういう問題じゃないの、人から貰った物よ、カインじゃなくて、私が! それを焼くなんてっ」
ぐ、ぐ、とお互いが譲らないが、カインの方があきらかに力が強い。大した抵抗すら出来ずにマリアはカインの方を向かされ、上を向かせられる。
「…………」
が、間があった。
不審に思って、マリアが変な顔をしたら、カインの変な顔に目がいった。
動揺している。
「悪い、こんな、なってたのか」
そ、と指先で首を撫でるカインにマリアは唖然とした。
第一級祓魔師を冠しているが、マリアだって17のただの少女だ、あれだけ強く引っ張られたら痕もつく。
「……だから良いって言ってるでしょ、次やったら怒るからね」
なぜそこで謝る、とマリアは怒るに怒れないままだ。
マリアが怒っているのは自身の首に痕がついた事や、痛かった事ではないのだ。貰い物のネックレスを焼かれた事に怒っているのに、なぜ彼はそれが分からないのだろう。
(悪魔だからよね)
「もう良い? 遅刻しちゃう、私が遅刻したら示しがつかない」
「いや、治すから……じっとしてろ」
カインの「治す」は舐める事だ。彼の魔力が高い場所は舌だ、マリアは慌てて足を引く。
「もう良いってば」
このままでは舐められる、とマリアは本気でカインをすり抜けて、戸を開ける。
「あ、待てって」
続けて家の外に出たカインに手を掴まえられても、マリアはそのままだった。
立った、ままだった。呆然と。
「ん? なんだ、おまえ」
マリアの制服の襟のラインは金の刺繍が一本。
目の前で立っていたその人物の制服には二本の刺繍があった。
第二級祓魔師の証である。




