第059話 おじや作戦
ミリアの特製ちゃんこ鍋が煮立つ頃には、教会の前は異様な雰囲気に包まれていた。
教会の子供たちが嬉しそうに食器を持って並ぶその後ろに、ゆらり、ゆらりと、路地裏の闇から無数の小さな影が集まってきたのだ。
スラムのさらに奥、光の当たらない場所から這い出てきた子供たちだ。
「おい! 割り込むなよ! ここは俺たちの教会だぞ!」
教会の子供の一人が、入ってこようとした余所者の少年を突き飛ばした。
突き飛ばされた少年は、抵抗もせずに地面に転がり、それでも虚ろな目で鍋の方を見つめている。
「やめなさい!」
アリスが慌てて割って入る。
「みんなで食べればいいじゃない。ご飯はいっぱいあるよ?」
アリスとミリアが、集まってきたスラムの子供たちにも椀を配ろうとする。
ミリアが、脂の乗った肉と野菜がたっぷり入った、栄養満点のちゃんこをお玉ですくい上げた。
「さあ、たくさん食べてくださいね! 元気が出ますよ!」
ミリアが椀を差し出す。
しかし。
その湯気が少年の顔にかかった瞬間、少年はビクリと震え、口元を押さえてその場にうずくまってしまった。
「う、ぷ……っ……」
「え?」
ミリアの手が止まる。
少年の顔色は土気色で、頬はこけ、腕は枯れ木のように細い。
食べ物を前にしても、目が輝くどころか、苦しげに顔を背けている。
その姿を見た瞬間、ミリアの顔から血の気が引いた。
脳裏にフラッシュバックする、苦い記憶。
あの子が、特製ちゃんこを口にして、吐き戻してしまったあの日の記憶。
「……ミリア?」
わたしが声をかけようとしたが、ミリアは鋭く首を横に振った。
「……だめです。このちゃんこは、配れません」
ミリアの声が震えていた。
けれど、その瞳には強い決意が宿っていた。
「レヴィーネ様、アリスさん。見てください。……この子たちは、食べる力さえ残っていないんです。今のこの子たちの胃に、こんな脂っこいものは毒です。……あの時と同じになってしまいます!」
ミリアは唇を噛み締め、お玉を鍋に戻した。
カジノで見せていた陽気な笑顔はもうない。
そこにあるのは、料理人としての、そして友を看取った者としての真剣な眼差しだ。
「メニューを変更します。……脂と香辛料は抜いて、お米をクタクタになるまで煮込んで、卵と少量の味噌で……『おじや』にします」
ミリアはリュックから精米された白米を取り出し、手早く準備を始めた。
「まずは、命を繋ぐことから始めないと……。もう二度と、私の料理が食べられないなんて、言わせませんから!」
その言葉に、わたしは胸が熱くなるのを感じた。
彼女は、ただ悲しんでいたわけじゃなかった。
あの日の無力感を、確かな知識と判断力に変えて、今ここに立っているのだ。
「……ええ、任せるわ。最高の賄いを頼むわね」
しばらくして、優しい湯気の立つおじやが配られた。
子供たちは最初はおっかなびっくりだったが、一口すすると、その瞳から涙をこぼし、夢中で器を舐めるように食べ始めた。
「おいしい……あったかい……」
その姿を見て、アリスがほっと息をつく。
しかし、一人の少女がおじやの椀を抱えたまま、口をつけずに震えていた。
「あなた、食べないの? ……ひょっとして、誰かのために持って帰ろうとしているのですか?」
ミリアが優しく尋ねると、少女は消え入りそうな声で答えた。
「……妹が、動けないの。……お母さんも、薬で……」
その言葉に、わたしは眉をひそめた。
ここは「マシな方」だったのだ。
この教会の外側には、もっと深く、救いのない地獄が広がっている。
「……案内してくれる?」
わたしは少女に告げた。
◆◆◆
少女に連れられて足を踏み入れたのは、スラムの最深部。
腐敗臭と、甘ったるい薬品の臭いが充満するエリアだった。
崩れかけたバラック小屋の中を覗くと、そこには――。
「……ッ」
アリスが絶句し、口元を押さえる。
床に敷かれたボロ布の上に、骨と皮だけになった人々が横たわっていた。
大人たちは魔薬の禁断症状で震え、子供たちは飢餓で腹だけが膨らみ、動く力も残っていない。
「これが……この国の現実……」
アリスが少女の妹に駆け寄り、治癒魔法をかける。
光が溢れるが、少女の顔色はあまり良くならない。
「なんで……? 私の魔法、また届かないの……? 聖女なんて呼ばれてるのに……!」
アリスの手が震える。
彼女の脳裏にもまた、救えなかったあの子の冷たさが蘇っているのだろう。
魔法は万能じゃない。
生命力が尽きかけた器には、どれだけ注いでも溢れてしまう。
「アリス、焦らないで。……今は寄り添うだけでいいわ」
わたしはアリスの肩に手を置き、そして視線を上げた。
この地獄を作り出している元凶――工場の煙突が見える方角を睨みつける。
(……許せないわね)
ここまで徹底的に、未来を食い物にしているとは。
カルテル。
魔薬。
そしてそれを黙認する社会。
すべてが、わたしの癇に障る。
「レオ。マテオ神父」
ついてきていた二人に、わたしは声をかけた。
「手伝ってちょうだい。……ここにある『絶望』を、一つ残らずへし折る準備を始めるわよ」
◆◆◆
スラムの最深部で見た地獄。
そこから得た情報を元に、わたしたちは街外れの工業地帯にある、古びたレンガ造りの工場へと向かった。
煙突からは異様な色の煙が立ち上り、周囲には甘ったるい、それでいて胸が悪くなるような化学薬品の臭いが充満している。
「……ここね。魔薬『赤きサボテン』の精製工場」
わたしは鼻をハンカチで覆いながら、鉄の扉の前に立った。
見張りはいない。
いや、必要ないのだろう。
この国でカルテルの施設に手を出そうとする命知らずなど、存在しないと思われているからだ。
「開けるわよ」
わたしはドレスの裾を翻し、右足を高く振り上げた。
身体強化、出力三〇パーセント。
ドガァンッ!!
蝶番が悲鳴を上げ、鉄扉が内側へと弾け飛んだ。
土煙を上げて踏み込むと、そこには外の世界とは隔絶された、悪夢のような光景が広がっていた。
薄暗い工場内には、魔導プレス機や煮沸釜が並び、白い粉塵が舞っている。
そして、そこで働いているのは――。
「……嘘、でしょ」
アリスが絶句する。
作業台に向かっているのは、五歳から十歳程度の子供たちだった。
彼らはボロボロの服を着て、防護マスクもつけずに、素手で危険な薬品や植物を扱っている。
その肌は薬物の影響で変色し、目は虚ろで、手足は枯れ木のように細い。
足首には鎖が繋がれ、逃げることさえ許されていない。
咳き込みながら、ふらつく足取りで、それでも必死に作業を続けている。
なぜなら、壁際の監視役が、手にした鞭で床を叩き続けているからだ。
「ほら、手が止まってるぞクソガキども! 今日中にノルマが終わらなきゃ、晩飯の『薬』は抜きだぞ!」
鞭がしなり、作業の遅れた子供の背中を打つ。
打たれた子供は悲鳴を上げる気力もなく、ただうずくまって震えていた。
「……ッ」
ミリアが怒りに震え、フライパンの柄をギリギリと握りしめる。
マテオ神父も、残った左手の拳を固く握っている。
その時、工場の中央にある高台から、一人の男が降りてきた。
工場の責任者だ。
彼は葉巻をくわえ、薄汚れた白衣を着ている。
「ああん? なんだぁ? ネズミが入り込んだか。……チッ、警備の連中は何をしてやがる」
彼はわたしたちを見ても動じることなく、足元にうずくまっていた子供を――まるでゴミか何かのように、無造作に蹴り飛ばした。
ドガッ。
子供が人形のように転がる。
「おいおい、起きろよ。代わりの『駒』なんていくらでもいるんだぞ? 壊れたら捨てればいい。所詮こいつらは、俺たちが利益を得るための『使い捨ての道具』に過ぎねえんだ」
男は笑いながら、転がった子供の頭を踏みつけた。
「親がいねえ、戸籍もねえ、死んだって誰も気にしねえ。……最高の資源だろ? 壊れるまで使い潰してナンボなんだよ」




