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第044話 僕のヒーロー

 翌日。


 屋敷はまだ、弟の誕生を祝う祝祭の熱気に包まれていた。


 父ユリスは親バカ全開でゆりかごにへばりつき、ミリアとアリスは厨房でお祝いの特別メニュー(ミソ仕立ての鯛の尾頭付きなどという渋いものだ)の開発に勤しんでいる。


 そんな喧騒から少し離れるように、わたしは一人、屋敷の裏手へと足を向けた。


 目指すのは、木立の向こうにひっそりと佇む「離れ」。


 昨日、そこからこちらを見つめていた、小さな影の正体を確かめるために。


 離れの庭は、綺麗に手入れされているものの、どこか寂しげな静寂に包まれていた。


 色とりどりの花が咲いているのに、生命の熱量が感じられない。


 まるで、ここだけ時間が止まっているかのような。


 その庭の片隅、大きな樫の木陰に、彼はいた。


 車椅子に座り、膝に分厚い本を乗せ、じっと空を見上げている少年。


 年齢は十歳くらいだろうか。


 けれど、その体躯はあまりに小さく、細い。


 陶器のように白い肌、色素の薄い髪。


 触れれば折れてしまいそうな指先。


 まとう空気は、生まれたばかりの弟とは対極にある――静かで、冷たい、「終わり」の予感。


 わたしは、砂利を踏む音を隠さずに近づいた。


 少年がビクリと肩を震わせ、ゆっくりと車椅子を回してこちらを向く。


「……あ」


 わたしと目が合った瞬間、彼の虚ろだった瞳に、信じられないほどの光が宿った。


 それは、恐怖でも警戒でもない。


 憧れ、驚き、そして歓喜。


「本物、だ……。黒いドレスに、鉄の扇子……」


 彼は震える手で車椅子の車輪を掴み、前のめりになった。


 まるで、夢か幻を見ているような表情で、掠れた声を絞り出す。


「はじめまして、『北の撲殺令嬢』……。僕の、ヒーロー」


 その瞬間、わたしの脳裏にフラッシュバックしたのは、かつての自分。


 消毒液の匂いがする病室で、動かない体を呪いながら、それでも画面の中のプロレスラーに憧れ、焦がれていた、あの頃の「わたし(鷹乃)」の姿だった。


(……ああ。この子は、わたしだ)


 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。


 この子がここから動けずにいる間、どれだけの渇望を抱いて外の世界を見ていたのか。


 痛いほどにわかってしまう。


「……ヒーロー?」


 わたしは感傷を振り払うように、パチンと鉄扇を鳴らした。


 優雅に、そして傲慢に、悪役の仮面を被る。


「聞き捨てなりませんわね。わたくしはレヴィーネ・ヴィータヴェン。泣く子も黙る、天下の大悪党ですわよ?」


 少年――ノアは、わたしの言葉に怯えるどころか、さらに瞳を輝かせた。


「知っています。……学園の決闘で、魔剣を椅子で叩き折ったこと。ラノリア王国で、悪い大人たちを全員投げ飛ばしたこと。……全部、知っています」


 ノアは、膝の上の分厚い本を、宝物のように差し出した。


 それは、本ではなかった。


 不器用な手つきで綴じられた、手製のスクラップブックだ。


 中を見ると、帝都の新聞の切り抜きや、風の噂を書き留めたメモ、そして想像で描かれたであろう「私が大立ち回りを演じている挿絵」が、びっしりと貼られていた。


 挿絵の中のわたしは、どれも凶悪な笑みを浮かべ、パイプ椅子を振り回している。


「……よく集めたものね」


「父様や母様が、お見舞いに来るたびに話してくれたんです。……『ヴィータヴェン家の娘が、また何かやらかしたぞ』って」


 ノアは少しはにかんで、けれど真っ直ぐにわたしを見つめた。


「大人たちは『乱暴だ』とか『淑女らしくない』って言います。……でも、僕は違うと思います」


 ノアの視線が、自分の動かない足へと落ちる。


「僕は、弱いです。病気で、歩くことも、走ることもできない。……この庭の外に出ることさえ許されない。理不尽な運命に、ただ縛られているだけです」


 そして、再び顔を上げ、熱っぽい声で続けた。


「でも、レヴィーネ様は違う。……どんなに『常識』や『身分』や『数値』で縛り付けようとしても、それを全部へし折って、自分の足で立っている。……誰に何を言われても、自分の生きたいように生きている」


 ノアの言葉は、確信に満ちていた。


「だから、僕にとっては……理不尽をぶっ飛ばしてくれる貴女こそが、一番強くて、一番かっこいいヒーローなんです」


 参ったわね。


 そんな風に言われてしまっては、ヒールの仮面も形無しだわ。


 わたしは、かつて前世で見た光景を思い出していた。


 リングの上では凶器を振り回し、観客を罵倒する最凶のヒールレスラーが、難病と闘う子供たちの前では、誰よりも優しい顔で膝をつき、「お前こそが真のチャンピオンだ」とベルトを巻いてあげる姿を。


 彼らは知っていたのだ。


 リングの上の戦いなど、病魔という見えない敵と二十四時間戦い続ける彼らの苦しみに比べれば、エンターテインメントに過ぎないことを。


 本当の「強さ」を持っているのは、小さな体で死の恐怖に立ち向かっている彼らなのだと。


 わたしはドレスが汚れるのも構わず、ゆっくりとノアの前に片膝をついた。


 目線を合わせる。


 彼の瞳に映るわたしは、悪役令嬢ではなく、ただの一人の「戦友」として。


「……ノア、といったわね」


「は、はい」


「訂正してあげるわ。わたくしはヒーローではありません。……やっぱり、『悪役(ヒール)』よ」


 わたしはニヤリと笑い、彼の手を取った。


 冷たく、骨張った手。


 けれど、そこには確かに脈打つ命の鼓動がある。


「だって、そうでしょう? 良い子にしていれば神様が救ってくれるなら、あなたはとっくに元気になっているはずだもの」


「……!」


「理不尽な運命を押し付けてくる神様なんて、クソ喰らえよ。……そんな奴の言うことを聞く必要なんてないわ」


 わたしは彼の手を、グッと強く握り返した。


「ノア。あなたは今、わたくしなんかよりもずっと過酷な場所(リング)で、たった一人で戦っているのね」


「え……?」


「見えない敵。鳴らされることのない終わりの鐘(ゴング)。……逃げ出すこともできない『死闘(デスマッチ)』。そんな戦いを、毎日続けている」


 わたしは真剣な眼差しで、彼に告げた。


「誇りなさい。あなたは、強いわ。……わたくしが認める、立派な『戦士(ファイター)』よ」


 ノアの目が見開かれ、やがて大粒の涙が溢れ出した。


「可哀想な子」という同情ではなく、「戦っている男」としての称賛。


 それが、何よりも彼の魂を震わせたのだ。


「う、うぐっ……ひグッ……! ぼ、僕は……怖くて……いつも、泣いてばかりで……」


 泣きじゃくる彼の手を離さず、わたしは言葉を継いだ。


「泣くんじゃありません、顔を上げなさい! ……戦士なら、涙を見せるな。敵に弱みを握られるわよ」


「は、はいッ……!」


 ノアは必死に袖で涙を拭い、赤くなった目でわたしを睨み返そうとした。


 その表情。


 その反骨心。


 いい目だ。


 まだ、魂の炎は消えていない。


「気に入ったわ。……ノア、あなたと『同盟(タッグ)』を組んであげる」


「え……同盟(タッグ)、ですか?」


 聞き慣れない言葉に、ノアが小首をかしげる。


 わたしはニヤリと笑い、彼の手をさらに強く握りしめた。


「ええ、そうよ。でも、ただの協力関係じゃないわ。魂で繋がった、運命共同体。……私の故郷(前世)の戦場(リング)では、背中を預け合うパートナーのことを、親愛と敬意を込めてこう呼ぶの」


 わたしは、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。


「――『兄弟(ブラザー)』、とね」


「ブ、ブラザー……? 兄弟……」


「そう。血の繋がりなんて関係ない。同じ敵に立ち向かい、痛みを分かち合うなら、それはもう家族以上の絆よ。……今日から、あなたはわたしの『兄弟(ブラザー)』だわ」


 わたしは立ち上がり、ふんぞり返って宣言した。


「さあ、これからはこの『北の撲殺令嬢』が、あなたの隣(セコンド)につくわ。病気だか運命だか知らないけれど、そんなナメた対戦相手、最強のタッグチームでボコボコにしてやりましょう!」


「……ッ!!」


 ノアの顔が、パァッと輝いた。


 それは、病弱な少年の顔ではない。


 頼もしい相棒を得て、戦う覚悟を決めた一人の男の顔だった。


「はいッ! お願いします、姐さん!!」


「……ふふ。その呼び名も、悪くはないわね」


 わたしは満足げに頷いた。


 ギルベルトや道場の野郎どもと同じ、わたしの「身内」としての呼び名。


 それを彼が口にしたということは、彼もまた、わたしの魂の系譜に連なる者としての覚悟を決めた証だ。


 わたしは心の中で決意した。


 この「兄弟」の戦いを、絶対に孤独にはさせない。


 私の持てる全ての知識(前世の記憶)と、物理(筋肉と栄養)を総動員して、この理不尽なデスマッチをひっくり返してみせる。


 そう、この時のわたしはまだ、信じていたのだ。


 物理は万能だと。


 努力と根性と、最強のタッグさえあれば、どんな壁でも壊せるのだと。


「命の期限」という、絶対的な壁の厚さを、まだ知らなかったから。


 ノアと固い握手(タッグ結成)を交わし、屋敷へ戻ったわたしは、そのまま母と弟のいる寝室へと向かった。


 部屋に入ると、ちょうど授乳を終えた母イリーザが、慈愛に満ちた表情で赤ん坊をあやしていた。


 窓からは暖かい日差しが差し込み、新しい命を祝福するように包み込んでいる。


「あら、レヴィーネ。おかえりなさい」


「ただいま戻りました、お母様。……弟の様子は?」


 わたしが覗き込むと、弟はミルクの匂いをさせて、すやすやと眠っていた。


 その寝顔は、悩みも苦しみもまだ知らない、無垢な光そのものだ。


「とっても元気よ。……そうそう、お父様と相談して、この子の名前を決めたの」


 母は赤ん坊の小さな手を優しく握り、告げた。


「『ソレン』。……古語で『輝く太陽』を意味する言葉よ。あなたの名前が『月』だから、二人はお互いを照らし合う存在になってほしいと願って」


「ソレン……。素敵なお名前ですわ」


 わたしは弟――ソレンの頬を、指先でそっとつついた。


 温かい。


 生命力の塊だ。


 この子は、これからのヴィータヴェン家を、そして未来を照らす「太陽」になる。


 守られるべき、希望の象徴。


 そして。


 わたしは窓の外、離れの方角へと思いを馳せた。


 あそこには、もう一人の「弟」がいる。


 太陽のような健やかさはないかもしれない。


 明日をも知れぬ闇の中にいるかもしれない。


 けれど、その魂は、わたしと同じリングに立ち、背中を預け合うことを誓った「戦友(パートナー)」だ。


(……悪くないわね)


 わたしは自然と笑みをこぼした。


 未来を守り、継いでいくための、血を分けた弟・ソレン。


 現在(いま)という過酷なリングを共に戦い抜く、魂の弟(ブラザー)・ノア。


 二つの異なる「命」が、わたしの人生に新たな意味を与えてくれている。


「ねえ、ソレン。早く大きくなりなさい」


 わたしは眠る弟に囁いた。


「あなたには、最高にかっこいい『お兄ちゃん』も紹介してあげるから」


 いつか、病気という理不尽をねじ伏せて、ノアとソレンと三人で、この庭を走り回る。


 そんな、物理法則を無視したような奇跡のような未来も、今のわたしなら「力ずくで手繰り寄せてやる」と思えた。


 守るべき希望と、共にある闘志。


 二人の「弟」を得て、最強の悪役(ヒール)令嬢は、かつてないほどに満たされた気持ちで、青く澄み渡る空を見上げた。


 さあ、トレーニングのメニューを組み直さなくては。


 これからは、二人分……いいえ、三人分だもの。

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